着物の本
増田朋美
第一章
着物の本
第一章
今日も暑い日だった。こんな日は誰でもそう思うんだろうけど、皆憂鬱になって、嫌な気持ちになることが当然の暑さだった。製鉄所では、杉ちゃんが、水穂さんにご飯を食べさせようとしているのであるが、水穂さんは、暑いせいか何も食べようとしてくれなくなってしまったので、杉ちゃんは、ため息をつく。
「ほら、食べてくれよ。暑いからと言って、何も食べないというのは、困りもんだぞ。それは、守って頂かないとね。」
と、杉ちゃんは水穂さんに米粉で出来た麺を食べさせようとするが、水穂さんは、相変わらず食べないのである。
「ほら、食べてくれよ。食べないんじゃ、作ってくれた人に失礼ではないかよ。」
杉ちゃんがそういうが、水穂さんは黙ったまま、何も食べなかった。ちょうどその時、玄関の引き戸がガラガラっと音を立ててなる。
「杉ちゃんいる?浜島です。」
ということは、やってきたのは、はまじさんこと、浜島咲であった。
「ああどうしたの?お前さんの事だから、又着物の事で、何か叱られたか。」
と、杉ちゃんがデカい声でいうと、まさしく浜島さんは、どんどん四畳半にやってくるのである。
「図星よ。ねえ杉ちゃん、この着物、何処か悪いと事あるかしら?今日お箏教室で縁起でもない柄を着るなって叱られちゃった。」
杉ちゃんは、咲の着ている着物を観察した。確かに、黒い綿絽の着物で、そこに赤や黄色などで蝶の柄が描かれていた。
「そうだねえ。確かに、綿絽というのは高級な夏着物ではあるな。今回は、この着物の柄が問題のようだね。この着物は蝶柄なので、蝶柄は、意思が弱いとか、浮気とか、そういう悪い意味で使う事もあるんだよ。だから、それで縁起の悪いってけっこういわれるんだよね。そういうことだ。じゃあ、これからは気を付けて、お箏教室に通うんだね。蝶柄だけじゃないよ。椿とか、櫻なんかも縁起が悪いといわれる柄もあるよ。そういうわけだから、気を付けるんだ。」
「そうなのね。そんなことになってたなんて、ちっとも知らなかった。縁起の悪いとされちゃう柄もあるのねえ。」
咲は、ちょっと嫌そうにいった。
「それでも、この着物はかわいいなと思って買ったけど、縁起が悪いと言って叱られちゃうのは、予想してなかったわ。」
「まあ、今は大分、着物も許容範囲が広くなってるけどさ、茶道教室とか、お箏教室とか、そういうところでは、かわいいだけでは済まされないことはけっこうあるよ。お教室以外の世界で普通に切られた着物が、お箏教室では、ダメだったという例はよくあるからね。まあ、勉強だとおもって、頑張ってくれよ。あと、日本三大悪人と呼ばれている武将、足利尊氏とか、そういうひとが、好んでいた柄もやめた方がいい。今は、あんまり詳しく追及される事もないけどさ、時代劇とか、大河ドラマで悪役にされてきた武将のこのんだ柄も、やめた方がいいよ。たとえば、そうだな。斎藤道三とか、北條早雲とかそういうひとね。」
「杉ちゃん詳しいのね。着物って、そういう風にけっこう厳格な決まりがあるのねえ。悪役とされた武将か。誰がいるかしら?」
杉ちゃんの話しに、咲は、感心したように言った。
「まあ、そこらへんは、調べてみるといいさ。けっこう悪役にされた武将もいるからさ。逆によく使われるのは、桐紋とか、葵の紋とか、そういう善玉として描かれる武将だな。」
「ああ、豊臣秀吉とか、徳川家康ですね。」
と、小さな声で水穂さんがいった。
「でも、家康もある意味では悪人とされることもあるんじゃないですか?関ケ原の戦いで、西軍についた人にかかわりがある人は、そういわれてきたのではないでしょうか?」
「まあ、水穂さんのいう通りでもあるわな。まあ、確かにそういう一面もあったけど、でも、目安として、そういう、縁起の悪いがらとか、縁起の悪い武将の家紋とか、そういうことがあるってことは、着物を愛好する人として、知っておいた方が良いね。」
と、杉ちゃんはいった。
「そうなのね。今日はよく勉強になったわよ。あたしも、着物の事についてもう少ししっかり勉強しておかなくちゃいけないですよね。お箏教室という、日本の伝統文化を伝えるしごとをしている以上ね。」
咲は、自分で納得して、そういう事をいった。
「そうそう、日本の伝統というのは、なかなか難しいもんだよ。日本は鎖国していたのが長かったから、その間に狭い範囲しか通用しない、色んな文化があったんだよね。それは忘れちゃいけないぜ。狭い範囲しか使えないけど、着物の世界では当たり前ということは、色んなところにあるんだよ。」
と、杉ちゃんがいった。咲は、はあなるほど、とつぶやいた。
「分かったわ。じゃあ、杉ちゃん、そういうことが書いてある本とか、何かあるかしら?テキストとして、何か、用意しておきたいのよ。」
咲が聞くと、
「いやあ、そういうほんとかそういうもんはないよ。僕はただ、和裁屋だからさ、ほかの和裁屋が言ってたことを馬鹿の一つ覚えで覚えているだけの事だから。着物の教科書みたいな、そんな本なんて何処にもない。ただ、見たり聞いたりして、それで覚えるんだよ。」
と、杉ちゃんは答えた。
「今の人は、なんでも教科書とノートを用意して勉強しようとするけれど、そう言うことじゃ頭に入らないよね。大事なことは、本当に必要な勉強なのかどうかだ。勉強は、それに基づいてやらないと、何の役にもたたない場合がある。」
「そうねえ。見たり聞いたりして覚えるかあ。確かに教科書を開いて、ノートをとるだけの勉強じゃ、何の役にもたたないわねえ。」
「まあ、一般的な、勉強の仕方何て、役に立たないよ。それは覚えておきな。」
杉ちゃんと咲がそんな会話をしていると、水穂さんは、少しせき込んだのであった。何も食べないからそういうことになるんだ、と杉ちゃんは言って、水穂さんの背中をさすってやった。
翌日。咲は書店に行った。なにか参考になる本はないか、自分なりに、勉強をしてみたいと思ったのだ。実用書と書いてあるコーナーにいき、衣類、ファッションと書いてあるコーナーへ行く。着物と区分されている売り場はなかったが、何冊か本があった。出してみると、着物リメイクと書いてある本ばかりで、咲が、望んでいた、着物について勉強するという本はなかった。咲ががっかりしていると、
「あの、何をお探し何ですか?」
と本屋の店員が訪ねてきた。
「いえ、ちょっと着物のことについて、勉強したいんですが。」
と咲がいうと、
「ああ、そう言うことでしたら、うちみたいな本屋ではなくて、古本屋へ行けばいいのに。今の時代
、着物が日常着という人はまずいませんから、そういう本はほとんど販売されてないですよ。それなら、一昔前の時代の本のほうが、いいんじゃないかな。」
と店員はそうアドバイスしてくれた。確かにそうである。着物を日常着にする人は今はほとんどいないだろう。それでは、着物を着るための本というものはなく、着物を洋服へリメイクする本ばかりなのも頷ける。
「御親切にありがとうございます。じゃあ、私、古本屋に行ってみます。」
咲は店員さんに御礼をして、本屋を出ていった。古本屋さんは、何処にあるかとスマートフォンで検索してみたところ、駅の近くに三浦書店という古本屋さんがあるということが分かった。咲は急いでその店へ行くため、富士駅行きのバスに乗り、富士駅で下車した。三浦書店は、駅から数分歩いたところにあった。
確かに、先ほどいった本屋さんに比べると規模は小さいが、本は所狭しと置かれていて、先ほどの本屋さんよりも大そうだった。暇そうなお爺さんが、レジの前に座っていた。
「こんにちは、あの、ちょっとお尋ねしたいんですけど、着物にまつわる本はありますか?着物の柄とか、歴史とか、そういうことを調べるために、参考書が必要なんです。」
咲がお爺さんにいうと、
「ちょっとお待ちくださいね。」
と、お爺さんは売り台から立ち上がった。そして、一番奥の棚へ案内してくれた。そこには、着物の本や雑誌が置かれている。
「ちょっと古い本ではありますけれども、この本が一番詳しく書かれているんじゃないかな?昭和の中ごろに発行された本だけど、この本のように詳しく書いてくれてある本はもう出ないと断言してもいいよ。」
と、棚の中から分厚い本を一冊出してくれた。確かに古い本だ。頁が黄色くなってもいる。咲はお爺さんから本を受け取って、読んでみた。昔の本だから、読みにくいところがあるが、でも確かに着物のことについて、詳しく乗っている本は、これ以外にないだろう。咲は、多少汚れていても良いから、買ってみることにした。本の裏側に定価は4000円と書かれていたが、お爺さんは、1000円で大丈夫だといった。古本屋さんなので、定価よりも安く売っているという例は多い。咲はありがとうございますと言って、お爺さんに1000円支払った。お爺さんは、本を紙袋に入れてくれて、大切になさってくださいとにこやかに笑って言った。
ちょうどその時。本屋に若い女性がやってきた。咲よりやや若い、まだ結婚していない女性だろうか、洋服のふんいきから、そんな感じがする。
「何かご入用の本でもおありですか?」
お爺さんがそう聞くと、
「いえいえ、ちょっと置く場所に困ってしまったので、処分したい本がありまして。」
と、彼女は一冊の本をお爺さんにわたした。
「はい、買い取りですね。じゃあ、一冊100円でどうでしょう?」
と、お爺さんがいうと、
「はい、ありがとうございます。それで御願いします。」
と、彼女はにこやかにいった。おじいさんは彼女に、100円を渡した。咲は、彼女が渡した本を見てみると、「楽しい着物入門」と書かれている。咲が今買った本よりも新しい本であるが、でも詳しく書かれていそうな本だ。咲は、その本も欲しいような気がした。
「あのすみません。その本私が買い取ってもいいですか?同じように1000円払いますから。」
咲は思わず言ってみる。
「いいんですか?1000円も出してくれるなんて?」
と女性がそういうと、
「はい。私、着物のことをいろいろ覚えたいんです。だから参考書が必要なの。幾らあっても足りないくらいよ。」
咲は、にこやかに言って、彼女に1000円を差し出した。
「そうですか。でもこの本はかなり古い本ですので、お役に立つかどうか?」
「おやくにたたないなんてとんでもない。こういう古い本の方が、役に立つ場合もあるんです。ぜひ、私に引き取らせてください。」
咲がいうと、彼女は嬉しそうにその本を渡した。咲は1000円を彼女に渡す。序なので領収書を書いた方がいいのではないかと、おじいさんが咲に領収書を一枚くれた。咲は、すぐに自分の名前を書き、金額を1000円と書き、
「お名前は何ですか?」
と、彼女に訪ねる。
「はい、高尾と申します。高尾真紀と言います。高尾は中央線の高尾駅の高尾。そして、真紀は真実の真に、紀は糸へんに己。」
と、彼女は、そう答えるのであった。
「分かりました。高尾真紀さんですね。」
咲は、高尾真紀様と書いて、急いで彼女に渡した。
「ありがとうございます。浜島咲さんですね。本を買い取って頂いて、本当にありがとうございました。」
と、高尾さんはにこやかに笑って、咲に頭を下げる。
「それでは、ありがとうございました。本は大事に使わせて頂きますので、よろしくお願いします。」
咲は、今日は二冊も本が手に入って嬉しいなと思いながら、古本屋を出ていった。おじいさんも高尾真紀さんも、本が新しい人のもとへ行って喜んでいると言っていた。
咲は自宅マンションに帰って、急いでその本を読み始めた。おじいさんに選んで貰った本も着物について詳しく書いてあるが、なによりも、高尾真紀さんに貰った本が、着物の文様について、丁寧に解説してくれてあるので、それが嬉しかった。今日は、なんていいことがあったんだろうと、咲は好きだったテレビドラマを見るのも忘れて、その本を読むことに没頭した。
翌日は、いつも通り咲は、苑子さんの主宰しているお箏教室に出勤した。今日は今まで買って来た着物の中から、お箏教室にふさわしい色無地を着て、一重太鼓の作り帯をつける。咲は帯結びはできなかった。作り帯は、ほかのお弟子さんも使用しているので、仕方なく認められていた。
「あら、咲さん今日はどうしたの?」
と最初のお弟子さんがやってくる前に、苑子さんがそういう事を言った。
「今日は、理想的な着物を着てきたじゃない?」
「理想的、ですか?」
実は、昨日の本に、お箏や茶道などを習うひとは、色無地の着用が義務付けられる場合があると書いてあったのだ。
「ええ。とてもいい着物だと思うわよ。」
と苑子さんが言ってくれたので咲は、ほっとする。
「ほかのお弟子さんたちも、あなたの着ているような着物を着てくれるといいわね。そのためには、あなたが良いお手本になって。」
咲は、ほっとした気持ちではあったが、こんな地味な着物が理想的になるのかと一寸嫌な気持ちになってしまうのであった。
「そうですねえ。ちょっと寂しいですけど、まあ、こういう着物が理想的というんだったら。」
咲は、苑子さんに本音を思わずちらつかせて、そういうことを言っただけにしておいた。
「じゃあ、楽器の準備しておきましょうか、今日の一番目の生徒さんは、春の海だったわ。」
苑子さんに言われて、咲は急いでフルートの準備をした。春の海の尺八パートを咲がフルートで吹くことになっている。数分後、一番目の生徒さんがやってきた。基本的に苑子さんのお教室は、生徒さんと苑子さんの一体一だ。尺八が必要になる楽曲を、咲が吹く。それが今の彼女の仕事である。今まで、働き口などほとんどなかった咲が、苑子さんに着物の事を注意されながらも、長期にわたって働けるようになったのは、本当に珍しい例だった。
そのころ。
杉ちゃんは、今日も水穂さんにご飯を食べさせるのか、憚りにいかせるより大変だとつぶやきながら、小さい鍋でおかゆを作っていた。白がゆではつまらないと思ったので、だしの素を入れて味をつけておく。ちょうど、その時、ただいまと言って、午前中だけ通信制の学校に通っていた女性が、製鉄所の食堂にやってきた。
「ああ、お帰り、敏子ちゃん。」
と、杉ちゃんがいうと、
「今日は、早く帰ってきたわ。なんでも富士で事件が起きたらしくて、自宅待機しているようにって。しばらく学校にいけないわよ。」
と、彼女はいう。確かに通信制の学校だから、簡単な事で、学校が休みになってしまう例はよくある。
「はあ、そうなんだね。事件ってどんな事件かな。」
「ええ。なんでも、富士駅近くで、女性の遺体がみつかったんですって。杉ちゃん、テレビつけていいかしら?」
利用者は、食堂に設置されている古ぼけたテレビをつけた。
「次のニュースです。きょう未明、富士駅近くで、女性の遺体がみつかりました。遺体は、持っていたマイナンバーカードから、富士市内に住んでいる、原田綾香さんと見られ、死亡推定時刻は、昨日の夜間と見られています。警察は、首周りに紐のようなあとがあったことから、殺人事件と見て、原因を調べています。」
退屈そうなアナウンサーがそう言っていた。
「嫌になっちゃうな。事件の事をほじくり返すような報道はしないで貰いたいな。」
杉ちゃんがいうので、女性は別のチャンネルを押したが、それでも報道番組で、
「きょう未明、富士駅近くの路上で原田綾香さんの遺体がみつかった事件で、綾香さんが、殺害される数時間前、女性が言い争っているのを目撃されていたことが、関係者への取材でわかりました。目撃者の話しに寄りますと、その女性の名は、高尾真紀、、、。」
と、又アナウンサーがそう言っていたので、、利用者は嫌になって、テレビを消してしまった。
「なんで、報道局は殺人事件の話しばかり報道するのかしらね。もう同じニュースばかりで、ブチ切れそうになるわ。」
「まあ、それ以外に報道することがないほど、富士市は平和なんじゃないの?」
と、杉ちゃんは、おかゆを器へ盛り付けながら、そういうことを言った。
「そうか。そういう風にとることもできるわね。杉ちゃんありがとう。そういってくれて。」
利用者が杉ちゃんに礼をいうと、
「そんなことは良いから、早く水穂さんにご飯を食べてもらうように、説得するのを手伝ってくれ。もう、夏になってから、ほとんど何も食べてないんだ。このままだと本当に餓死しちゃう。だからそれは食い止めないと。」
と、杉ちゃんはいかにも現実的な意見を言った。
「まあ、水穂さんまた食べないの?」
利用者がそういうと、
「はい。食べないんだよ!」
杉ちゃんはデカい声で言った。
「そうかあ。じゃあ、私も、手伝うわ。杉ちゃん一人だけでは、食事させるの難しいじゃない。」
と、利用者は杉ちゃんからおかゆの器を受け取って、二人そろって四畳半に行く。水穂さんは、少し打とうとしているようであったが、杉ちゃんがふすまを乱暴に開けると、すぐ目を覚ました。
「おい、ご飯だぞ。食べてくれよ。布団から起きれなくたっていいからさ、ご飯を頼むから食べてくれ。」
と、杉ちゃんが水穂さんの口もとに、おかゆの入ったおさじを持っていったが、水穂さんは顔を反対のほうへ向けてしまうのであった。
「水穂さん。頑張って食べてください。世のなかには生きたくても生きられなかった人もいるんですよ。ほら、きょう事件があったと報道されたでしょ。その被害者は、まだご飯を食べたかったと思いますよ。」
ちょっと説教好きな利用者が、水穂さんにそういうのであるが、水穂さんはやっぱりご飯を食べようとしてくれないのだった。なんでいつもこうなんだろうな、と杉ちゃんも利用者も困った顔をするのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます