器の少女
ようひ
犬
誰も祝わない十二歳の誕生日だった。
「喜べ。貴女は選ばれた。」
灰色の猿が言った。
「よかった、よかった。祝福ね。」
腹を膨らませた牛が言った。
「あたしだと思ったのに。ずるいわ、あなた。」
赤い目をした兎が言った。
「村の誇りだ。そうだとも。そうだとも。」
鼻息の荒い豚が言った。
夏も終わろうとする頃、私は村の『栄光』に選ばれた。
≠
太陽は雲に隠れていた。
私の影を、栗鼠たちが踏んで行った。
「日没までに戻られよ。」
私は猿たちに一礼をして、群衆の熱から抜け出た。
脂汗がじっとりと滲み出した。
日の光にきらめく小川には、鶏が浮かんでいた。
白かったはずの毛並みは灰色に濁り、苔がむしていた。
むっとする臭いの中をハエが飛んでいた。
小川のほとりには、桃色の花を咲かせたオジギソウが生えていた。
私はそれを二つむしった。
花粉が鼻をくすぐり、大きなくしゃみをした。
一輪を鶏の前に置き、手を合わせた。
少し先には、地蔵菩薩が立っていた。
御前の石皿は空だった。
私はそこにオジギソウを置いた。
再び手を合わせようとすると、
「喰い物を寄越さぬか。」
山吹色の山羊が私の後ろにいた。
「地蔵さまはハラヘラであるぞ。」
「……石なのに、ごはんを食べるの?」
私が訊くと、山羊は目を吊り上げた。
「仏様を崇めぬ『栄光』よ。其方には悲哀の雨が降るぞ。」
「で、ではこれを……。」
私は懐から握り飯を出した。
皿に置こうとする前に、山羊は私の手をくわえた。
ぬちぬちと舌の感触がした。
「同様にせよ、同様にせよ……。」
山羊は満足そうに去っていった。
手の握り飯は無くなっていた。
代わりの供物を探すと、小さな木苺が成っていた。
私はオジギソウと木苺を皿に乗せた。
どうか罰が当たりませんように、と手を合わせた。
本当に祈りたかったことは忘れてしまった。
空のかなたを見ると、山の端が青々しかった。
「『栄光様』。こんにちは。」
「ありがたや、ありがたやでございます。」
「七夜後ですね。村のために、よろしくお願いしますよ。」
村にはすでに『栄光』の話が出回っていた。
私は行く先々で声をかけられた。
みな一様に喜んでいた。
今までの振る舞いが嘘のようだった。
「……。」
私は薄暗い路地裏に逃げ込んだ。
表通りの喧騒が遠のいたところで、息を吐き出した。
腹がぐぅ、と鳴った。
足元には残飯や酒瓶が転がっていた。
その傍らには、虎が寝転がっていびきをかいていた。
「……ふう。」
ここは風も入り込まない場所だった。
私は膝を抱えてうずくまった。
だんだん、気分が落ち着いてくる。
『栄光』に選ばれた事実も、嘘だと思えてくる。
「…………ふぁ。」
ふと、脛がむずむずとした。
トカゲが脚を登っていた。
指で弾くと、トカゲは驚いたように逃げていった。
前髪にはクモが張り付いていた。
指ですくうと、クモは口元に薄い糸を吐いた。
そのまま手のひらを返すと、クモはぶらりと垂れ下がった。
線香花火のように見えた。
クモはゆっくりと着地し、足早に去っていった。
彼らは誰も、祝福をしない。
『栄光』に選ばれた私を、特別視しない。
「……つかれた。」
壁に背を預けると、ぬめりとした。
壁は楕円状に濡れていた。
鼻を近づけると、酸味のある臭いがした。
その濡れた壁を、ムカデが這っていた。
虎のいびきが大きくなった。
セミの鳴き声が遠くから聞こえた。
そうして時間だけが過ぎていった。
「…………あ。」
前を見ると、小さな猫がいた。
黒い毛並みをした黒猫だった。
「こんに、ちは」
挨拶は返ってこなかった。
黒い瞳が私を見つめるばかりだった。
「きみも、ひとりなの?」
やはり、答えは返ってこなかった。
猫は去るわけでもなく、何をするでもなく、ただそこにいた。
「……私ね、ここが好きなんだ。」
私は落ちていた小枝を拾い、地面に絵を描くことにした。
被写体として見つけた花は、日陰に咲いてしまったせいか、しおれていた。
「誰かにいじめられたらここにきた。父さまに殴られたらここにきた。母さまに叩かれたらここにきた。誰かにひどい言葉を言われたらここにきた。眠れなくなったらここにきた。ご飯が食べられなかったらここにきた。体が痛くなったらここにきた。」
地面には猫の絵を描いた。
手が震え、福笑いのような歪んだ絵になった。
「そして……『栄光』に選ばれて、ここにきた。」
ぱきり、と小枝が折れた。
私はそれを投げ捨てた。
代わりの枝を見つけた頃には、猫はすでにいなかった。
私は立ち上がって尻の砂を払った。
ひさしの隙間から夕暮れ空が見えた。
甘い茜色が走っていた。
遠くから、ひぐらしの鳴き声が聞こえた。
≠
表に戻ると、村の者たちは帰路についていた。
みな一様に疲れた表情をしていた。
狼が、猪の首元に食い付いていた。
猿がやってきて、狼を殴っていた。
狼も、猪も、動かなくなった。
飛び散った赤色たちは、夕陽に溶け込み、紅色になった。
≠
私が猿たちに連れていかれたのは、小さな家だった。
「此処で過ごされよ。」
そこは私の家よりも広く、清潔な家屋だった。
私は裸足の裏を手で擦って上がった。
すでに夕食は出来ていた。
私はひとりで囲炉裏を囲った。
「いただきます。」
雑炊を器に盛り、一気にかき込んだ。
「んがぶふっ。」
熱さにむせた。
家の外から「ご自愛せよ。」と鴉の怒鳴り声がした。
瞬く間に鍋は空になった。
家で食う物よりも、遥かに美味かった。
洗う必要もないとのことで、私はそのまま横たわった。
夜空に浮かぶ半月の光が、窓から差し込んでいた。
腹の中には、雑炊の熱がまだ残っていた。
≠
これから『栄光』までの7日間、私はここで過ごす。
そしてこの日から、私から自由は取り除かれた。
≠
翌朝、三匹の猿に村外れの渓谷へ連れて行かれた。
滝のしぶきが岩々に染み入っていた。
水の流れが時の流れと同化していた。
私は衣服を全て脱がされた。
水に素足を浸すと、針に刺されたような冷たさだった。
「これより『禊』を行う。」
猿たちは左手だけを使い、私を清めた。
『栄光』のその時まで、私は自分の身体に触れることを禁じられた。
猿たちの濡れた大きな手が、身体を滑っていった。
その手は、私でさえも触れたことのない箇所にまで及んだ。
背後から荒い息遣いが聞こえた。
「怖がるな。」
「怖がるな。」
猿のふたりはしきりにそう言った。
私の身体は静かに震えた。
下流では、牛が子どもを産んでいた。
産まれた二匹の鼠は、緩やかな水流の中でうごめいていた。
牛は目を閉じたまま動かなかった。
猿たちはその光景に目を細めていた。
≠
『禊』が終わり、朝食を摂った。
食膳には、昨晩よりも豪華なものであふれていた。
私はそのほとんどを噛まずに食べた。
味の方向性が定まらないことに舌が驚いた。
これが三食付くらしかった。
屋内で私がやることは、何もなかった。
木箱を踏み台にして屋外を覗くと、表には鴉が二羽いた。
私と目が合うと、灰の眼を細めて「いかがされたか。」と訊いてきた。
私は「やることがありません。」と言った。
鴉は頷きもせずに「それが貴女の役目だ。」と言った。
私は木箱から降り、床に寝転がった。
昼の日差しも入り込まず、薄暗い部屋の中で、意味もなくまばたきを繰り返した。
何度も暗くなっては明るくなる視界が面白かった。
それをずっと続けた。
そうして時間だけが過ぎていった。
昼食も朝と遜色なかった。
同じく、噛まずに食べた。
夕食も昼と遜色なかった。
同じく、噛まずに食べた。
そのまま、長い1日が終わった。
≠
ある日、とある遊びを生み出した。
部屋の四隅を一直線に伝う遊びだった。
「どれだけ揺れずに歩けるか」。
「逆立ちをしながら行けるか」。
「目を瞑ったまま歩けるか」。
「人差し指と中指の指人形で歩く」。
「尻だけで進む」。
「前転・後転で進む」。
「一歩ごとにしりとりをする」。
「息を止めて何周できるか」。
「踊りながら進む」。
「小唄を口ずさみながら歩く」。
独自の決まりを作り、その縛りを守りながら達成させた。
しかし途中で、「妙な真似はよせ。」と鴉に遮られてしまった。
「変じゃあないです」と言っても聞く耳も持たれなかった。
それでもこの遊びは私にとってしっくり来たようで、眠れない夜にたびたびやった。
暗闇の中なら、鴉も見逃してくれたようだった。
「てくてく、てくてく、てくてくてくてく、てく……うっ。」
指人形を歩かせていると、何かにぶつかった。
暗闇の中で、何かが黒光りした。
「わっ……。」
私は指人形と一緒に飛び退いた。
よく見るとそれは、いつしかの路地裏で出会った、あの黒猫だった。
黒い毛並みが闇に溶け込んでいた。
私は「てくてく」と指人形で歩み寄った。
「きみは、おうちがないの?」
猫は鳴きもせず、暴れもせず、あくびをしていた。
わずかに開いた瞳は、異国の宝石細工のようだった。
黒光を放っていたのは、この瞳だった。
「きれいな目だね……純粋な黒だ……。」
私は手を伸ばした。
猫はもう一度あくびをすると、ゆったりと去っていった。
急にひとりになってしまうと、どうすればいいのか、わからなくなる。
≠
三匹の猿たちによって、焦茶色の液体が私の裸体に塗られていく。
『禊』で清らかにした上で、内部の『穢れ』を排出させるらしい。
粘ついた液体は、水の少ない水飴のようだった。
私は何度も身をよじったが、手から逃れることはできなかった。
背後から荒い息が聞こえた。
「安心しろ。」
「安心しろ。」
猿のふたりはしきりにそう言った。
私の身体は静かに震えていた。
身体が異様に痒かった。
思わず掻こうとすると、その手を止められた。
私は未だに自分の身体に触れることを禁じられていた。
痒みはだんだん増していき、いよいよ我慢できないほどになった。
頭がくらくらとする。
口の中が唾液でねばねばとする。
猿たちの雑談が遠かった。
身体のあちこちが疼きだした。
猿たちが去ったあとも、痒みは続いた。
ひとりで横になっても、痒みは続いた。
自分の呼吸が遠くにあるようだった。
窓の向こうで、鴉が私を見つめていた。
私は慌てて服を着た。
その衣擦れに息が漏れた。
我慢できずに服を脱いだ。
腰が砕けそうになった。
私は何度も服を着ては脱ぐ、と繰り返した。
身体は真っ赤になっていた。
それでもやめられなかった。
いよいよ、服に血が付いた。
それでも、やめられなかった。
≠
「う……。」
必要以上に体力を使い、夕暮れ時には動けなかった。
食事も細く、猿たちに心配された。
食べたものが全て喉に引っかかっているようだった。
夜の生暖かい風が身体のそばを通り過ぎていった。
熱を帯びた皮膚が冷えていく心地よさだけが、救いだった。
いつも以上に寝られなかった。
遊びに興じる余力もなかった。
どうすることもできなかった。
「…………。」
夕飯の匂いが漂う中、私は死体のように横たわっていた。
少しでも食べないと——そう思った時、ふと指先に冷たい感触がした。
「わっ……。」
目だけを向けると、あの黒猫がいた。
ざらざらとした舌が、ちろちろと動いている。
「来て、くれたんだね。でも、ごめん。今日は、動けない。」
猫はあくびで答えた。
私は指を振った。
猫はそちらに顔を向けた。
右に振れば右に。
左に振れば左に。
あまりにも素直に追うので、私は声を抑えて笑った。
「こんな遊びで、ごめんね。」
舌が、手の甲を舐めた。
手首を舐めた。
腕を舐めた。
肩を舐めた。
首筋を舐めた。
あごを舐めた。
頬を、鼻を、耳を、額を、まぶたを、ぺろぺろぺろ。
冷たい舌が皮膚をすべっていく。
痒みと痛みを、私は忘れた。
「くすぐったいよ。ふふ、ふふふ。」
猫は満足したのか、闇の中に溶けていった。
あれは雌の猫だな、とぼんやり思った。
≠
馬と牛が家屋にやってきた。
特別な面会だと鴉は言った。
私は未だぐったりとしていた。
馬はそんな私を見て言った。
「お前は立派なオレの娘だ。」
頭を殴られた。
馬は顔中にしわを作って笑っていた。
牛は顔中にしわを作って怒っていた。
「あんた、これから『栄光』になるってんのに、なに呑気に寝そべってんだい。」
頬を叩かれた。
「まあいいじゃねぇか。」と馬が言った。
「こんな奴が人様の役に立つんだからな。」
「そうね。あたしたちが苦労して育てた甲斐があるね。」
馬と牛は声を揃えて笑った。
面会時間が終わり、二頭は嬉しそうに去っていった。
耳鳴りがした。
日陰が暑かった。
痛みは引いたが、痒みはまだ続いていた。
≠
日が昇り、沈んでいく。
そうして月が昇り、また沈んでいく。
日が、月が、日が、月が……。
≠
とうとう最後の夜になった。
明日が『栄光』その日だった。
私はいつも以上に眠れなかった。
この七日間、夜更かしをしては、朝がつらくなった。
『禊』で目が覚めるものの、昼にまた眠くなる。
視界も霞みがかり、頭がふわふわとした。
「あしたが、『えいこう』の日……。」
これから行われること。
私はわかっている。
そして、私がどうなるのか。
私はすべて、わかっている。
その現実は、しかし、夢の出来事のようにも思えた。
もしこの夢が終わり、いつもの日々が戻ってきたら——父親に殴られ、母親に叩かれ、妹に蔑まれ、子どもたちに馬鹿にされ、大人たちにからかわれ、村のどこにも居場所がなくなり、また、あの路地裏で膝を抱える。
そんな来るはずのない日常に、私は怯えた。
「いやだ……いやだ……。」
眠れない目を開けた。
全身がじんじんとする。
痛みもなく、痒みも乗り越えていた。
皮膚が分厚くなっているようだった。
まるで服を何重にも着ているような心地だった。
鈴虫の鳴き声が遠かった。
村は寝静まっていた。
窓から覗くと、見張りの鴉は首を傾げていた。
立ったまま寝ているようだった。
「…………。」
私の中の暗闇が膨らむ。
もしも私が『栄光』から逃げ出したら、どうなるのだろう?
村の誰もが悲しむ?
村の誰もが怒る?
村の誰もが苦しむ?
しかし、それでどうなる?
なにも起こらないだろう。
誰も、私を追ったりはしないだろう。
私はどうして、こんなことを考えているのだろう?
私はこの『栄光』に、何を求めているのだろう?
「寒い夜だ……。」
ぼんやりしていると、突然、物音がした。
「わっ!」
私は木箱から落ちた。
慌てて外を覗くと、鴉の首はまだ傾いていた。
闇を見ると、あの黒猫がいた。
彼女はあくびをしていた。
「……きみ、いつもあくびをしているね。そんなに眠いの?」
床に伏した彼女に寄ると、血の匂いがした。
口元に赤黒い血糊が付いていた。
私はそれを指で擦った。
彼女は嫌そうに顔をしかめたが、暴れはしなかった。
まるで幼い子どもみたいだ、と私は思った。
「……きみはどうして、ここに来るの?」
やはり答えは返ってこなかった。
ぼさぼさとしたその毛並みを、私は撫でた。
ほんのりとした彼女の温かさを感じた。
「…………。」
目が合うと、どきりとした。
曇りのない、純粋な黒い瞳は、この世のどんなものよりきれいだった。
そうすると、彼女の全身すらもきれいに見えた。
枝毛も多く、雑草の方が触り心地がいいはずなのに。
生々しい血の匂いがするはずなのに。
瞳の魔力が、私を狂わせた。
「きみにだけ言うね……明日、私はささげものになる。」
私は彼女に触れ続けた。
ずっとこうしていたかった。
「神さまにね、生きたひとを渡すんだよ。みんな神さまに選ばれたから『えいこう』って喜ぶんだよ。」
彼女は目を瞑っていた。
きれいな瞳が見えなくなっても、彼女はすでにきれいだった。
「でも、ほんとにこれでいいのかな。みんなが幸せなら、それでいいのかな……。」
そうして、かすかな寝息が聞こえた。
思わず私は吹き出した。
「きみには、関係のない話だったね。」
彼女につられて、眠りの気配が降りてきた。
私は布団に入ることもせず、彼女のそばで目を閉じた。
胸元で彼女を抱きかかえると、ほんのりと暖かかった。
これがほんとうの命だと、そう思った。
≠
「これより『栄光』の準備を始める。」
三匹の猿がやってきた。
私の足元に箱が置かれた。
それは棺のような形をしていた。
檜の濃い香りが、鼻をくすぐった。
「あの。」
「どうした。」
ほんとうにこの中に入るんですか——その言葉を、私は呑み込んだ。
「いえ……なんでもございません。」
「言葉は慎み給え。貴女の全ては神の物。余計な感情すら容れていけん。」
猿たちの手によって衣服が脱がされていく。
蕁麻疹はすっかり引き、青白い肌があらわになった。
猿たちがまじまじと私の裸体を覗いた。
損傷、異変の確認と言った。
背筋に荒い息が当たった。
「異常なし。」
「異常なし。」
「異常なし。」
確認が終わると、私は裸のまま棺の中へ入れられた。
檜の香りがさらに強くなった。
ささくれが肌に刺さった。
「神の御加護を。」
「神の御加護を。」
「神の御加護を。」
蓋が閉められる。
光が一切入らない、暗闇になった。
その中で、私は目を開けていた。
閉じても変わらないのなら、開けたままにしたかった。
「なあ……神に渡しちまう前に、ちょいと摘み喰いをしないか。」
外から、猿のひとりの声がした。
「そうさ。俺たちが何をしようとも、結局は同じだろう。」
別の猿の声もした。
「ならん。言っただろう。余計な物は容れてはいけん。」
「元の状態に戻せば良いではないか。容れた物は出せば良いし、壊さなければ良い。」
「地蔵の飯を喰って、誰が咎められようか。」
「貴様ら、血迷ったか。」
「偽善者ぶるなよ。お前も人間だろう。」
「死ね、下郎共。」
そうして、妙な音が聞こえた。
雑炊を床にこぼした時のような音に似ていた。
液体が滴る音もした。
叫び声と、くぐもった悲鳴も。
箱の外では、何が起こっているのだろう?
私は蓋を開け、頭を出して覗いた。
そこでは猿たちが斬り合っていた。
赤黒い血が飛んできて、私の頬にかかった。
音が鳴り止み、猿のひとりが残った。
他の二匹は血の海に沈んでいた。
「少々、取り乱した。」
私は慌てて蓋を閉じた。
猿は棺の外側を拭いているようだった。
柔らかな振動が皮膚をくすぐった。
「あの、いったい、なにが。」
「何もない。ただの癇癪だ。」
沈黙が続いた頃、はたと、私は気付いた。
自分の背後に、何者かの気配がすることに。
「……逃げ出さぬのか。」
それを確かめる前に、猿が言った。
「どういう意味で、しょうか。」
「見ていただろう、今の騒動を。逃げることも出来たはずだ。お前は子ども……大人を欺くことなど、造作でもないではないか。」
猿は私の視線に気付いていたらしかった。
私は暗闇の中で、誰にも見せるつもりのない笑みを作った。
「裸で村は歩けません。」
強い娘だ、と真面目な猿は言った。
=
箱の外側は騒がしかったが、もうどうでもよかった。
暗闇の中で、私は確かな温もりを抱きしめていた。
「ねえ。ほんとにいいの?」
当然のように、答えは返ってこなかった。
かすかなあくびの気配がする。
私は思わず吹き出した。
「もう戻れないよ。きみは、一緒に来なくてもいいんだよ。」
もう一度聞いても、答えは同じだった。
私の心臓は高鳴っていた。
この棺の中は、私にとって、外側と一切関わりのない、自由な世界だった。
だから、私がこの胸に抱く想いも、口にする言葉も、すべて自由だ。
「私ね……良かったと思ってるの。何もできない私が、みんなの役に立てたんだから。」
私の頬に、ざらざらとした舌の感触がした。
そこは、猿の血が付いたところだった。
「できるなら、こんな形で役に立ちたくはなかったけどね。」
外側の音が遠くなっていく。
身体に膜ができるように、暗闇が重くなる。
「でも、もういいんだ。きみが一緒に来てくれるなら、私はどこにでもいける。」
やがて、何も聞こえなくなった。
淀んだ水の中にいるような無音だった。
私たちは完全に、外の世界と乖離した。
「あ、そういえば……私、十二歳になったんだった。」
私は彼女と手を繋いだ。
私よりも小さく、私よりも温かい、彼女の手を。
「十二年なんてあっという間だったな。嫌なことばっかりだったけど、それでもさ、楽しい時間みたいにさ、ほんとうにあっという間だった。」
闇の中には、互いの呼吸と、互いの温もりだけがあった。
「もっと早く、きみと出会いたかったな」
それだけで十分だと、私は思った。
□
器と申しますは、字の成り立に御座います——僭越ながら、蘊蓄を。
四つある「口」は、神への祈りを入れる言葉で、「大」とは其の昔、『犬』らしかったのです。摩訶不思議な力によって『犬』から点が拭き取られ、ままに「器」の字が出来上がりました。
では何故『犬』なのかと申しますことには、貴方の御明察通り、祭祀や儀礼の際、神への捧げ物の象徴だったので御座います。犬は捧げ物になるべき生き物、という訳です。
おや……?
手前としたことが。
御伽噺に『犬』を出すのを失念しておりました。
こりゃ失敬、失敬。
ま、此れも与太話には付き物。
いやはや、犬は何処に居るのやら?
器の少女 ようひ @youhi0924
★で称える
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カクヨムを、もっと楽しもう
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