物語の主人公

井上和音@統合失調症・発達障害ブロガー

物語の主人公

 路肩の陰にうずくまり、小さな穴がたくさん空いた、黄土色のコンクリートの模様をじっと眺め見ていた。道には大量の人々が群をなして歩いている。耳に聞こえるだけでも様々な言語が行き交い、自分が聞き取れる声など十に一回有るか無いかだった。ただの雑談。謎の大きな笑い声。その笑い声ですら、人によって様々だった。それらの声のどれもが僕には聞く必要がないものだと感じた。例えば、今僕を見て嘲笑している声も、僕に同情して細めの声を漏らしていたとしても僕にとっては全く同じ声に聞こえた。どんなに同情に近い声を発したところで、誰も僕に手を差し伸べる者など誰一人としていないと、僕はそれまでの経験で痛いほど認識しているのだった。

 だが、そんな経験にのみ帰結された我が儘な自己陶酔も、ある時点を境に終わりを告げる。

 突然に肩を叩かれた。

 僕が顔を上げると、髭が豪快に生えた一人のおじいさんがにっこりと僕の方に微笑みかけていた。

「君は一人かい? 両親なんかはどこにいる?」おじいさんは僕の知った言語で話しかけてきた。どうやらこの付近の住人らしい。

「両親はいない。僕は一人だ」

 僕は嘘をついた。本当は数時間前に家族の暮らす家から飛び出してきたところだった。

「あらまあ、大変だねえ。じゃあ一緒に暮らしてる仲間なんかはいないのかい」

「いないね。一人も。いても食料を分け合うグループに荷担してるくらいさ」もちろんこれも嘘だ。僕はスラムに住んですらいない。ただ、なんとなく路肩でうずくまっていただけだ。

「そうか。じゃが友達はおった方がよいだろう?」

「いらないよ。そんなの」なんとなく、腹立たしくなっていておじいさんの話を否定した。

 全く意味のない否定だった。意味を考えてすらいない程の、意味のない否定だった。

「友達はいらない……? ふふっ、ははは」急におじいさんが笑い出した。不愉快に思って「何がおかしい?」と問いただした。

「いや、声かけたわしが間違いじゃった。一人にしてほしかったんだな。では、さらば」

 おじいさんは手を振りその場から去った。うるさい者が去ってくれて心が落ち着いた。

 そして、また一人になった。一人になって、また、おじいさんに会うまでと同じように、風景を呆然として見ていた。

 見ているはずだった。見ているはずなのに、なぜか風景が思い浮かばない。頭に入ってこない。なぜか、頭に思い浮かぶのは風景ではなく、今しがた去っていったおじいさんの事ばかりだった。あのおじいさんはやせていたなとか、あの髭は何年かかってあそこまで伸ばしたのだろうとか、不思議とそこにいないおじいさんの事ばかり考えてしまった。

 そのとき、また肩に手をポンと置かれた。

 そこには、今さっき道を去っていたはずのおじいさんが立っていた。

「人は……」おじいさんが僕の肩に乗せたまま語り始めた。

「人は自分から別れた相手に対して全くと言っていいほど意識しないものだ。しかし相手から準備無しに突然に別れを告げられたら、いつまでもその人のことを考えてしまう、自分勝手でわがままな生き物なんだ」

 おじいさんの目が優しく僕に向いている。僕は何も言わずに目を逸らした。

「お家に帰りなさい。突然君がいなくなって、君が思っている以上に両親は心配しているよ」

「……わかりました。心配をかけてすいませんでした」

 僕はおじいさんに頭を下げ、寄り道せずにまっすぐ家路に着いた。

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物語の主人公 井上和音@統合失調症・発達障害ブロガー @inouekazune

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