第26話「第二のエリー」

「恥ずかしい連中だな。理屈も歴史も知らない低能どもが」

 反対派の怒号に対して、一人の賛成派が侮蔑の言葉を発した。

 彼の独語はそれほど大きな声ではなかったが、言葉を発していた時の軽蔑に満ちた表情と視線が、聞き取りづらかった内容を補完した。というより、低能呼ばわりされた方は真実などどうでもいいのだ。そう聞こえただけで十分だった。

「なんだと!」

 お互いが同年代ということも、各々の自尊心を刺激する要因になったようだ。まず反対派が先に動き、言葉より手が先に出た。

 ところが、独語した賛成派の男はその拳を軽快にかわすと、冷笑を浮かべたまま相手の脚を引っ掛けて転倒させてしまった。すると、転倒した方の連れが飛びかかり、それに気づいた賛成派の友人たちが一斉に加勢すると言った具合で、当人同士に端を発した小競り合いは、またたく間に周囲の人々へ燃え広がっていった。

 それに油を注いだのが、騒ぎを止めに入った警察官だ。人間はなぜか抑制されると逆上する。罪を犯していないと自負する一般市民にとって、国家権力の威圧は屈辱なのだ。最初は市民対市民だったが、いつのまにか市民対市民対警察になり、各自が誰を敵視すべきかわからなくなった時、身近な敵対者を手当り次第に攻撃し始めた。

 こうなるともう収拾がつかない。男たちは日頃の鬱憤を晴らさんとばかりに暴れまわった。

 警備責任者がSWATの出動を要請したが、無線越しに返ってきた返事は「却下」だった。市民に対して武力介入はできない以上、人力で事態を収拾しなければならない。しかも、この騒動を様々なメディアがリアルタイムで報道している。そんな状況で下手な行動をとるわけにもいかず、結局警視庁は手の空いている制服警察官を日比谷公園に派遣するにとどめた。人海戦術で一人ずつ逮捕するつもりらしい。この決定にはさすがの警備責任者も呆れ顔で、無線を切った直後に「できるわけないだろう」と吐き捨てた。


 さすがにエイリマンを正面から相手にしようとする人間はいなかったが、かといって脅威を感じているわけでもなく、タイカの目の前で平然と乱闘を繰り広げた。

 タイカも最初は「まぁまぁ、落ち着いて」と言葉で呼びかけていたが、暴れている当人たちは興奮状態な上、乱れ飛ぶ怒号によってタイカの声が届かない。痺れを切らしたタイカは向かい合わせた両手の平に反重力粒子弾を包んだフォースフィールドを作りながら、最後の警告として「今すぐやめないと周囲10メートル以内にいる人は弾け飛ぶよ」と叫んだ。

 しかし、その優しさも暴徒には届かず、タイカはため息をついて反重力子弾を掌にのせ、一呼吸おいてフォースフィールドを解除した。タイカは一瞬だけ自分を亜空間フィールドで包んだために反重力の影響を受けずに済んだが、タイカの宣言通り周囲10メートル以内で乱闘を続けていた人々は、タイカを中心にして放射状に弾き飛ばされ、本人が気づいた頃には地面に転がっていた。

「だから言ったのに」

 タイカはそう呟いたが、やられた側の屈辱感がその一言で倍増してしまい、逆に彼らから直接的な恨みを買ってしまった。

 命知らずの数名が「このイカサマヒーロー野郎!」などと叫びながら、後先も考えずに飛びかかってきた。

 まさか自分に挑んでくるとは思っていなかったタイカが次の動作を躊躇していると、別の若者たちがタイカに向かう男たちの後を追いかけ、その背中に飛び蹴りを放った。その後も勢いは止まらず、タイカの門前で倒れ込む男たちの上に、罵詈雑言を浴びせながら幾重にも飛び乗ったが、今度は別の男たちが小山のようになった男たちの手足を掴んで引き剥がしにかかった。

 事ここに至っては、誰が味方で誰が敵なのかすらわからない。弱者がどうのという次元ではなく、全員が被害者であり加害者なのだ。

 あげく、タイカは近くにいた若い女性に「なんとかしなさいよ役立たず!」と罵られる有様だった。

(これは下手をすると死人がでるかも)

 そんな不安にかられたタイカは、しばらく考えた末にリアクターを起動すると上空へ飛び去った。

 タイカの飛翔に気づいた人々が「あ、逃げたぞ」とか「スーパーヒーローが職場放棄したぞ!」と口々に非難の声をあげたが、乱闘を収束するほどの意外性はなく、人々は再びその狂乱に身を投じた。


 タイカは日比谷公園を離れて皇居を取り巻く堀の上空に来ると、小さな重力子を特殊なフォースフィールドで包み、それを堀の中に投入した。フィールドには分子フィルターが組み込まれていて、水分子だけがフィールドを透過して重力子に引き寄せられる。その結果、堀の水位が数十センチも下がるほどの水がフィールド内部に蓄えられた。

 タイカがそのフィールドを持ち上げると、堀の水は直径50メートルの巨大な深緑色の球体となって空中に舞い上がった。

 タイカはその球体を伴って公園に戻る道中、球体の形状をちょうど公園の敷地に重なるような多角形に整えつつ、人々が負傷しない程度の落下エネルギーを計算して高度を調整した。

 タイカが準備を終えて公園上空に差し掛かった時、眼下ではあいかわらず狂乱状態が続いていた。うごめく暴走者たちの中心部と、それを取り囲む静止した傍観者たちの輪。大音量の怒号と声にならない嘲笑が公園内に充満しており、もはや市民運動という枠を超えて、宗教対立や民族対立のような集団ヒステリー状態と化していた。

 今の彼らには客観性も合理性も論理性もない。単純に自分の思惑に対する盲信と、それに異を唱える者への嫌悪感で満ち溢れているのだ。

 そして、その対立を端から見ている傍観者たちは、自らも当事者であるはずなのに賛成にも反対にも与せず、ただ他人事として冷めた目で見ている。暴走者たちが抱く盲信や嫌悪感とは質が異なるが、彼らもまた、自分たちと異なる結論に対する、その結論に至ったプロセスに関心がない。

 エリーの言ったとおりだ。彼らは生命体としてまだまだ未熟なのかもしれないが、それでも進化し続ける。現在の無謀な行為が、そのまま永遠に続くわけではないのだ。そして、その過程で人々に降りかかる「必要のない悲劇」を、タイカは未然に防ぐことができる。

 そこで、タイカはようやくヒワの存在を思い出した。

「しまった。彼女の護衛を忘れてた」

 タイカは急いで水の塊の上面に回り込でから、フォース・フィールドの下面を細かい網目状に変化させた。網目状と言っても土砂降り以上の勢いを作り出すには十分な網目の大きさで、下にいた人間たちは瀑布のような水の勢いに全身をしたたか打たれ、それまでの狂乱も忘れて自分の周囲を見回した。そして、上空にタイカの姿を認めた時、少なくとも誰の手によってもたらされたのかは理解した。

 タイカは自分の声帯のボリュームを大幅に上げると、下を見下ろしながら言った。

「暴力行為をやめないと、次は怪我をすることになる」

 タイカ自身は普通の声量で言葉を発しただけだったが、機械的に増幅されたボリュームは音速で周囲に拡散すると、エコーを響かせながら音の圧力を民衆に打ち付けた。それが彼らには天からの声のように薄気味悪く響き、ずぶ濡れな全身と相まって完全に気を削がれた。

 そんな状況を好機と見たのが、警備主任の警察官だった。彼は腰のベルトに備え付けられた無線用のマイクを取ると、同じくベルトに取り付けられた携帯端末を操作して、自身の送信機を公園の音響設備に接続した。

「デモは終了しました。即刻解散しなさい。現在応援の警察官が百名ほど当現場に向かっており、到着次第治安回復行動に着手します。公園内から退去しない者は公務執行妨害で逮捕します」

 その警告に呼応して、現場の警察官たちが活動を再開した。拡声器を持った警備責任者が公園から退去するよう促し、他の制服警官も人々を公園の外へ誘導し始めた。


 その様子を見て再び乱闘になることはないだろうと感じたタイカは、地上に降り立ってヒワの姿を探し始めた。

 しかし、いくら冷静さを取り戻した人々とはいえ、地面も見えないほどの大人数が無造作に行き来している状態では、目視で一人の人間を探すことなど不可能に近かった。

 タイカはヒワの携帯端末を追跡するため、網膜ディスプレイにサブウィンドウを表示した。

「エマニ。ネットワーク許可リストの登録番号から、安藤日和の携帯端末をトレースできるか?」

「指定の端末は現在ネットワークに接続されていません」

 ということは、電源が落ちているか端末の電波が基地局に届いていないか。電波を遮断するには相応の設備が必要になるはずだから、端末の電源が切られている可能性が高い。問題はバッテリー切れか意図的に切られたか。

「エマニ。安藤日和の携帯端末が最後に確認できた場所はどこだ?」

 エマニはサブウィンドウに周辺地域の住宅地図を表示すると、その一点にマークを置いた。ところが、そこは公園内ではなかった。

 地図上では晴海通りを有明に向かって移動している。しかも、移動スピードは歩行速度を数倍は超えている。

「エマニ。公園内のすべての防犯カメラから安藤日和が写ってないか検索しろ」

 エマニは公園のセキュリティシステムから取得した録画映像をサブウィンドウに映し出すと、機械以外では認識不可能な速さで映像を再生しながら、ヒワの特徴を検索し始めた。顔、声、服装、歩き方など、個人を特定するために必要なパラメータを総動員して検索した。

 やがて映像の早回しが停止して、少しだけ巻き戻されると通常の速度で再生が始まった。

 タイカが周囲の暴徒を取り押さえるために彼女のそばを離れた後、ヒワは仲間の活動家数人に囲まれて乱闘をかき分けて歩き始めた。しかし、別のカメラに切り替わったとき、ふいに複数の男たちが姿を現し、先導する仲間とヒワの間に割って入った。ヒワは男たちに口をふさがれたまま連れ去られ、仲間が後ろを振り返った時には、乱闘の中に消えていた。

 別のカメラに切り替わると、ヒワは男たちに連れられて路上のSUVに押し込まれた。ヒワに抵抗する素振りはなかったが、乗り込んだのは明らかに自分の意思ではなかった。顔はこわばり両手はきつく握りしめられている。

「エマニ。写ってる車を特定できるか?」

 応答音の後、こんどは都内各所の防犯カメラを目にも留まらぬ速さで探索し、数秒で走行中の車両を見つけた。

 サブウィンドウに表示された現在位置を確認すると、タイカは周囲への衝撃波も考えずに初速から音速を超えて飛び去っていった。

 エマニが示した現在位置のマークは、晴海通りを有明方面に向かって南下しているようだった。勝鬨橋を越え晴海大橋も渡り、更に東京湾を目指して進んでいくと、有明埠頭に入った。

 敵の目的がわからない以上、位置を確認できている間にかたをつけたほうがよい。タイカはそう考えて更に増速し、目視範囲に車両を捉えるとセンサーで車内の様子を透視した。

 センサーが映し出した人形のシルエットによると、ヒワは両側を男たちに挟まれた状態で後部座席に座らされているようだった。タイカは車を停車させることを最優先にして、上空から極小の重力子弾をリアウィンドウに放った。


 突然けたたましい破壊音が車内を襲い、運転手は驚いてブレーキを踏んだ。しかし、車が完全停止する頃には、すでにタイカは破壊されたリアの開口部から車内に飛び込んできて、その勢いでヒワの両側にいた男たちの後頭部を強打した。

 助手席の男が振り返りざまに銃口を向けたが、放った弾丸はタイカが張ったフォースフィールドに跳ね返され、サイドウィンドウを破壊して車外に飛び出していった。

 タイカはヒワを後部座席に伏せさせると、慌てて弾丸を再装填しようとする助手席の男の顔面に鉄拳を見舞った。男は後部座席の男たち同様、崩れ落ちるように気絶してしまった。

 タイカは自らの不気味さを増長するかのようにゆっくりと運転手の方を振り向いた。

 素手でエイリマンには敵わない。瞬時に察した運転手は車から飛び出ると一目散に逃げ出し、途中ガードレールに引っかかって転倒しながらも、そのまま走り去っていった。

 タイカはヒワに向かって「あれ捕まえなくても平気?」と問うと、ヒワは呆然としたまま小さく頷いた。

「君は暗殺だけじゃなく誘拐の標的にもなるんだね」

 すると、ヒワはタイカに視線を向けて肩をすくめた。しかも、苦笑とも照れ隠しとも取れるようなかすかな微笑みを浮かべた。そこに恐怖心は感じ取れなかった。

「なんだか、恐怖を感じたっていう風ではないね」

「わかる?」

「まぁね」

 そう言うとヒワは車を降り、男二人が失神している後部座席を覗き込んだ。

「この人達、祖父の部下なの。といっても、世間に公表できるタイプの部下じゃないけど」

「どういうこと?」

「言ってみれば隠密ね。祖父は私がやってる活動が気に入らないのよ。だからああいう連中を使って連れ戻そうとしてるの」

「え? じゃあこのままここに残しとくと具合悪い?」

「どうして?」

「だって、きっともうすぐ警察が来て逮捕するよ。君のおじいちゃんの部下なら、警察沙汰にはしないほうがいいんじゃない?」

「いいよ放っといて。そもそも私には関係ないし」

 ヒワはそう言うと、来た方角に向かって歩き始めた。

 タイカは警察に短いテキストメッセージを送っていたが、突然歩き始めたヒワの後をあわてて追った。

「なんで君のおじいちゃんが君を誘拐するの?」

「まぁ、正確には誘拐じゃなくて拉致だね。たぶんあの連中は空港に向かってたんだと思う。そこにプライベートジェットが待ってて、私を海外のどこかに連れて行こうとしてたのよ。きっとインターネットすらない片田舎でしょうけどね」

「それはまた、どうして?」

「祖父の立場がなくなるからなんじゃない。もう70歳を超えてるのに、未だに政界に影響力あるからね」

「君のおじいちゃんって政治家?」

「それどころか、元内閣総理大臣よ。家族にとったらいい迷惑だけどね。実際、私の父は祖父のせいで人生を狂わされたわけだし。あの人にとっての愛国心は、国民を幸せにすることじゃなくて、国庫のお金を増やすことなのよ」

 タイカが彼女の表情を覗き込むと、ヒワは虚空の一点を見つめていた。そういう時、人間は得てして視覚に集中していない。

 しかし、彼女はすぐにいつもの自分を取り戻し、努めて明るい笑顔をタイカに向けた。

「まぁ、それもいわゆる怪我の功名ってやつで、結果的に私はやりがいを見つけることができたんだから、後は前に進むだけよ。祖父の思惑なんて、今の私にはなんの影響力もないから」

 彼女はそう言って、前を見据えて力強く歩き続ける。タイカもヒワの横に並んで歩く。

「映画は終わった。劇場を出よう。そして、次の映画を見に行こう」

 ヒワは歩くリズムに載せながら言った。

「どういう意味?」

「私が記憶のフラッシュバックで苦しんでた時、父がそうやって私の気持ちを楽にしてくれたの。『過去の記憶は見終わった映画と同じだ。観るべきものを観たのなら、それ以外は単なるデータだ。たとえ記憶に残っていたとしても、気にすることはない』って」

「そうなんだ、君はお父さんが好きなんだね」

「父だけが私の味方だったからね」

「もしかして、この運動に参加してるのはお父さんの影響?」

「うん、っていうか遺言」

 ヒワはそう言うと、心からの透き通るほど純粋に微笑した。そして、タイカの肩を叩いて「今日はありがとう」と言った。

「君のおかげで私は拉致されずにすんだし、死傷者が出かねなかったくらいエスカレートした暴動も抑えられたしね」

「ほんと? 役にたった?」

「上出来よ。また助けてほしい時が来たら、連絡してもいい?」

「もちろん」

 タイカがこの後の予定をヒワに尋ねると、彼女は家に帰るだけだから一人で大丈夫と答えた。

 タイカはヒワから少し離れてリアクターを起動しながら、「じゃあ、またね」と言った。

 上空へ昇っていくタイカを、ヒワは手を振りながら見送った。

 途中でタイカが見下ろしても、彼女はずっと手を振り続けていた。タイカも手を振り返し、上昇のスピードを上げた。

 高空にたどり着いたタイカは、しばらくその場にとどまった。

 空を背に寝そべるように頭の後ろで手を組んで、眼下に広がる東京の街を見下ろしながら、今日の余韻を楽しんでいた。

 フォースフィールドに包まれた彼の周囲には、風の流れも空気の振動もない。視覚以外にタイカの五感を刺激するものはなかった。

 高度が高すぎて人々の動きまでは見えなかったが、この街で過ごしてきた時間を思い出すには、街の全景が見えるだけで十分だった。

 思えば半年前、すべてを失ったタイカには想像すらできなかった現在がある。迷い、憂い、戸惑い、人々に翻弄されながらも、その度に壁を乗り越えてきた。誰かに強制されたわけでもなく、ただ自らの信念に従い、境遇の中から見出した結果としての現在だ。今の自分をエリーが知れば、彼女はなんて言うだろう。褒めてくれるだろうか。それとも「まだまだ甘い」と言うだろうか。

「あ、そうだ」

 もう一人、エイリマンの誕生に欠かせない人物がいた。エリーの助言を思い出したとはいえ、あの時ヤマワを訪ねなければ、タイカがスーパーヒーロー像を構築することはできなかったかもしれない。それどころか、自分の居場所を見いだせないまま地球から逃げ出していたことだろう。エイリマンは彼と二人で作り上げたようなものだ。

 タイカは全速力でヤマワのマンションに向かった。太陽はすでにその姿を大地に隠し、その痕跡だけを赤く空に残していた。


 5分もかからずヤマワのマンションにたどり着いたタイカは、いつものように直接ベランダへ舞い降りた。空の色を反射して赤く染まった窓を開ける。前回の来訪から3日ほどしか経っていないが、妙に懐かしい感じがした。

 何気ない一歩を踏み出した時、ようやく室内の様子が異質なことに気がついた。タイカは一歩を踏み出したまま凍りついた。

 部屋には何もなかった。ヤマワの姿はおろか、彼がいつも仕事をしていたテーブルも、二人で膝を突き合わせたソファセットも、動かせるものはひとつ残らず消えていた。

「え?」

 一瞬部屋を間違えたかと思ったが、ふと目を落とした先に一枚の紙を見つけた。よく見ると、それは床に置かれた手紙だった。


 タイカへ。

 仕事の関係でヨーロッパに移住することになった。君に会う前から話はあったんだけど、ずっと断ってたんだ。ところが、先方に切羽詰まった事情ができたらしく、どうしてもって頼まれて、急遽行くことにした。

 ことが急過ぎて、君に説明する時間が取れなかった。申しわけない。でも、僕がいなくても君はちゃんとやっていけるだろう。

 ただ、許されるなら最後に一つだけ助言させてくれないか。

 君が反主権国家のデモに参加してる姿をテレビで見たよ。君の最近の言動は、たぶん主催者である彼女の影響を受けたものだろう。デモへの参加も彼女に頼まれたものかもしれない。ああいう類のデモはいつも小競り合いにつながってるからね。

 ただ、それで彼女が危険な目にあったとしても、それは彼女が自ら望んだ道を進んだ結果であって、君が以前言っていたような環境由来弱者じゃないと思う。

 一方で、今日こんな事があったよ。山道をドライブしていた女性二人が、スピード超過の対向車に衝突されて谷底の川に落ちた。対向車はそのまま逃走したけど、山奥なので他に通行していた車はない。たまたま通りがかった車が奇跡的に川の中に車を見つけたけど、結局彼女たちが救助されたのは、事故発生から4時間も経ってたらしい。その間、女性の一人は車と共に川に沈んで溺死。もう一人は運良くシートベルトが外れて助かったけど、事故で負った怪我のせいで首から下が完全に動かなくなったそうだ。二人にはなんの落ち度もなかった。でも事故にあった場所が悪くて、不運な結果を招いてしまった。君が以前言っていた「第2のエリー」って、こういう人たちのことを言うんじゃないかな。

 とはいえ、そんな都合よく他人の危機がわかるわけないよね。どんなに優秀な科学技術を持ってたとしても、この宇宙の出来事をすべて正確に予測できるわけじゃない。結局、僕が理想としていたヒーローは空想の産物だったんだ。

 だから、僕はもうヒーローから足を洗って、現実の世界で生きていくことにするよ。君も君の道を進んでくれ。ただし、手を組む相手は間違えないでね。

 じゃあ元気で。

 ヤマワ。


 まるで一度も人が住んだことがないような空っぽの部屋で、手紙に視線を落としたまま、タイカはしばらく佇んでいた。それは同時に、ヤマワとの記憶が現実のものではなく、夢を観ていたんじゃないかとも思えてくる。

 もうここにいても意味がない。

 やっとの思いでその事実を理解すると、タイカは部屋からベランダに出て、そのまま飛び降りた。

 リアクターを起動するのがあと数秒遅ければ、タイカは地上に激突していただろう。激突したところでタイカはかすり傷ひとつ追うことはないが、別に何か意図があってリアクターの起動を遅らせたわけではない。単純に反応が遅れただけだ。

 ベランダから落ちた数秒後に上昇へと転じたタイカの姿は、木の葉が風に翻弄されながら地面に向かって落ちていくように、力なく垂れ下がった頭や手足をぶら下げたまま、暗闇の空に落ちていった。

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