第75話 一晩中眠れなかった
「あ‥うん‥」
私は訳が分からず、とりあえずうなずいた。少し気分が楽になったので起き上がってハンナを見ると、ハンナは明らかに私からぷいっと目を背けた。カタリナも頬を赤らめて、私に横顔しか見せない。
「‥‥ユマ」
声をかけてきたのはセレナだった。セレナは私にボールとペンライトを放り投げた。
「キミは自分の部屋に戻れ。ハンナはここで寝てもらうよ」
「え、でも‥」
「大丈夫、ハンナに悪いことはしない」
「でも、ハンナが‥」
私はハンナを振り向いた。ハンナはこくっと重々しくうなずいた。
「‥‥申し訳ありません、ユマさま。わたくし、今夜はユマさまと離れていたい気分でございます‥」
「‥ハンナがそう言うなら。でも、先輩に命令されて無理とかしてないよね」
「こんな状況でもわたくしの心配をしてくださるなんて‥‥」
そう言ってハンナは、私に顔を見せないままうつむいた。
こんな状況ってどんな状況だ。まだ頭がキーンとなるが、立てないことはない。私は受け取ったボールと、取りそこねてベッドに転がったペンライトを持って、ベッドから下りた。
「‥‥わかりました、お世話になりました」
「うん、おやすみ」
黙りこくっている2人を背に、セレナがにこやかに手を振ってくれたので、私は頭を下げてドアを閉めた。
◆ ◆ ◆
廊下で歩きながら、私は何が起きたのか考えた。
確か、カタリナとハンナに全身を手で触られて、恥ずかしい気持ちになって、抵抗したくても体が動かなくなって、ずっと続けられているうちに何かが爆発して‥‥。
「‥‥あっ」
私は手で口を塞いだ。顔がほてり、自分の体温がみるみる上がってくるのが分かる。気が気ではなかった。私の足は自然と速くなって、気がついたら全速力で真っ暗な廊下を駆け抜けていた。
206の部屋に戻った。レイナは自分のベッドで、あおむけに寝ていた。私はそそくさと、自分のベッドに入った。
忘れたかった。別のことを考えていたかった。でも目をつぶっても、どうやっても2人の顔が視界に浮かぶ。
どうして。どうして、こんな。忘れたいのに。
私は布団の中に潜り込んで、必死で何度も首を振った。
おしっこするところがむすむすする。熱くて、くすぐったくて、気持ちが悪い。片手が自然とそこへ伸びていったのにはっと気付いて、ひっこめて、そのまま胴体の下に手を隠した。もう片手は、私の口を塞ぐのに必死だった。
私は一人でしたことがない。だからこんな気持も、状態も、授業や先輩から口頭で教えてもらったことしかない。だから、気持ちいいはずなのにこんなに胸を締め付けられるくらい苦しくて、不安で、怖くて、頭がおかしくなりそうで、体が思うように動かなくなって自分が自分でなくなるようなものだとは思わなかった。
「あ‥‥」
思わず、あの2人の名前を呼びそうになって、それをこらえた。今は何もしゃべってはいけない気がする。冬の寒さだというのに、私の額や背中から汗が流れ落ちる。汗で湿度の上がった布団の中で、私は必死で別のことを考えた。でも、すぐにあの2人が私の想像の中に入ってくる。とにかくつらくて、苦しい。忘れたい。こんなこと、すぐ忘れたい。
◆ ◆ ◆
「あら、あなた様が一番乗りとは、珍しいですこと」
「おはようですわ」
マチルダとルノの声だ。無人のレストランの中でただ1人、私は眠たい目をこすりながら、「お、おはよう」と短く返して、そのままスープを口に運んだ。
結局、私は一晩中ずっと眠れなかった。他にすることはなくて、とにかく気を紛らせたかった。窓から差し込む朝日がまぶしかった。もちろん8月最終日は月では真夜中なので、朝日の光る窓を開ければその先には夜の世界が広がっている。朝日は窓が体内時計調節のために作った幻覚にすぎないのだ。いっそのこと、窓にもずっと夜でいてほしかった。
ただ、この時間ならあの2人には会わずに済むだろう。早く食事を終わらせれば、多分ハンナはまだ戻ってこないと思うから、戻るまでにどこかへお出掛けに行こう。本当なら昨日の歓迎会の疲れもあるから一日中部屋で休んでいたかったのだが、そうはいかない気分だ。まだあの2人と昨夜の出来事が頭から離れない。
「ここ、いいですの?」
「うん」
マチルダとルノが、私と同じテーブルの向かい側の席に座った。
「でも珍しいですわね、もしかしてマチルダの執事になりたくて?おーほっほっほ!」
マチルダがまた変な理由で高笑いを始めたので、私は無視した。でも、疲れて気分が沈んでいる私にとって、マチルダの明るく元気な様子は嫌いではない。謎の高笑いがうざいけど。
代わりにルノが、まともな質問をしてくれた。
「眠たそうですが、昨夜は眠れましたか?」
「ううん、ちょっと眠れなかったかな‥‥」
「何がありましたか?姫は心配ですわ」
「ありがとう。でもほんとに大したことじゃないから」
私がそうやってごまかしたタイミングで、レイナがレストランに入ってきた。
「おはよう。あら、2人はともかく、ユマがいるのは珍しいわね」
「お、おはよう、レイナ」
しばらくして、レイナも同じテーブルに来た。私の隣りに座ったレイナは、真っ先に尋ねてきた。
「ねえ、あたしが起きたら部屋にハンナがいなかったんだけど、何か知ってる?」
「あ‥‥うん」
私は思わずレイナから目をそらしたが、レイナは逆に心配そうな顔をした。
「‥‥」
「‥どうしたの?」
「ううん‥マーガレットがいなくなったから、ユマもハンナもいなくなったかと心配になって‥ユマはここにいたからよかったけど、ハンナは‥」
そうか、レイナはまだマーガレットのことを引きずっているのか。安否が不明だから私もマーガレットのことは心配している。でも、レイナは自分に必要以上に責任を感じていないのだろうか。ハンナについて答えない選択肢はないと思った。
「ハンナはゆうべ、生徒会長の部屋で寝たよ」
「‥なぜ?ハンナと生徒会長ってそんなに仲よかったっけ?」
「あ、うん、ちょっとね‥」
私はぼかした。ハンナがカタリナと一緒に私を取り合っていることを知る人は、セレナ、アユミ、ノイカくらいだ。これ以上知っている人を増やしたら、カタリナの知名度ゆえに、パパラッチが急増してしまう。私はもちろん、ハンナやカタリナにとっても不幸だ。
そう考えていると、レイナが小声で私に質問を投げてきた。
「ねえ」
「ん?」
「ハンナのことはどう思ってるの?」
「!?」
私はびくっと動いて、持っていたスプーンをスープの中に落とした。
「な、何でそんなこと聞くの?」
「その様子だと、進展はあったようね」
そうやってレイナが肉団子を口に運ぶのを見て、私はおそるおそる尋ねた。
「し、進展って‥?」
「ああ‥」
レイナはちらりと向かいにいるマチルダとルノを確認すると、首を突っ込んできて、私に耳打ちした。
「恋の進展よ。この前、ハンナがあたしに相談してきたの」
「え、ええっ!?」
ハンナは、レイナにも話を広げていたのか。
「ハンナについて何かあったら、遠慮なくあたしに相談しなさい。気持ちいいセックスのやりかたを教えてあげるわ」
レイナがそれを言い終わる前に、私は椅子からぴょんと飛び上がっていた。顔を真っ赤にして、隣のテーブルに尻を預けて、私はただただレイナを見ていた。
「ち‥違うから、あれは違うから!」
「何が違うんですの?」
マチルダが不思議そうな顔をして尋ねてきたので、私は「うう‥」と小さくうなって、席に戻った。ただしレイナからは椅子を遠ざけた。
レイナも私の態度を見て、それ以上は質問を我慢してくれた。
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