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イヌイさんは五月という中途半端な時期に転校してきた。
第一印象から不思議な人だった。隣に座った彼女を、僕は授業中、何度も横目で盗み見てしまった。
顔立ちのせいかもしれない。少し、外国の人のような雰囲気がある。休み時間にクラスの女子が聞き出しているところによると、お母さんがやはり北欧の人らしい。女子たちはそれを聞いて「やっぱり」「道理で美人だと思った」なんて盛り上がっていたけど、そんな風にイヌイさんの周りに人が集まるのは、この日が最初で最後だった。みんなが段々と、彼女の異質さに気づいたからだ。
端的に言うと、イヌイさんは〈ルール〉を守らない人だった。ここで言う〈ルール〉とは法律や校則といった明文化されたものではなく、みんなが共通認識として当たり前に守っている決まりのことだ。
例えば、彼女はみんなとは違うランドセルで学校に来る。というか、ランドセルですらなく、普通のリュックを背負っていた。初めは準備が整っていないだけかとみんなは思っていたけど、一週間もそのままだとさすがにおかしいと思い始め、ある日の放課後、ついにクラス委員の一人(僕と同じ班の女子だ)がみんなの気持ちを代弁するようにイヌイさんに訊ねた。
「イヌイさん、ランドセルは持ってないの?」
「持ってないけど」と、イヌイさんは何でもないように答えた。
「みんな、ランドセルで来てるよ?」
「知ってるけど」
「イヌイさんも合わせようとは思わない?」
「思わないけど」
そこでクラス委員は口を噤んだ。他のみんなも何も言わなかった。誰もが、イヌイさんが言った「けど」の後に続く言葉を理解していたからだ。
「帰ってもいい?」
イヌイさんは件のリュックを背負うと、クラス委員の返事も聞かずに彼女を押しのけるようにして教室を出て行った。みんな唖然として、彼女を見送るしかなかった。教室の戸が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
また、彼女はクラスで禁止されていた匂い付き消しゴムを筆箱に入れていた。これは一時期、他のクラスの女子の間で流行ったことがあり、そのクラスではこれが元でいじめが起きたことから、学校中で持ってくるのを禁止されていた。そんな代物をイヌイさんは取り出し、しかも消しゴム本来の用途として使うのではなく、授業中に平然と匂いを嗅いでいた。これについては担任教師がもの申した。
「君は転校してきたばかりで知らないかもしれないけれど」と、若い男性教師は諭すように言った。「匂い付きの消しゴムを持ってくることは禁止なんだよ」
「どうしてですか?」
「みんなが授業に集中しなくなるからだよ」
「わたしは授業を聞いていました」
「けど、匂いを嗅いでいた」
「嗅ぎながら授業を聞いていました」
「では、ここの問題を解いてくれるかな」
そう言って担任教師が教科書上で指したのは、それまで彼が読んでいたよりも先の箇所だった。イヌイさんはため息をつくと、ペンを取った。彼女が手元の端末へ書き込むのに合わせ、前方のボードに文字が記されていく。問題の答えだった。
「予習はしているようだね」
「していません。授業だけで十分わかりますから」
今度は担任教師がため息をついた。
「とにかく、匂い付きの消しゴムは没収だよ。今日は誰か他の人に消しゴムを借りなさい」
「納得できません」
「イヌイさん」担任教師は面倒だという気持ちを隠すのをやめたらしい。「みんなが守っているんだ。君も合わせなきゃいけないよ」
「その〈みんな〉は納得してるんですか?」
「納得も何も、決まりだから」
「どこかに書いてあるんですか?」
「どこにも書いていなくても、みんなが守ってる決まりだから」担任教師の右の頬がひくついているのを、僕は見た。「守らなければいけないんだよ」
イヌイさんは再びため息をついた。それきり何も言わず、例の消しゴムを担任教師に差し出した。僕は彼女が消しゴムを求めて話しかけてくるのを期待していたけど、声が掛かることはなかった。彼女は消しゴムを使わない人のようだった。
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