Act17_明滅のトランジション
微温湯で揺蕩う豆腐の様に、意識が揺れ動き判然としない。温いような、寒いような、暑いような、凍えるような、自身が何処にいるかさえ判別つかない。
暗い世界の中で目を開く。確認できるのは自身の手と身体。何があったんだっけ?
鈍い頭を無理やり動かす。最後に見えたのは、濃紺にマゼンタのメッシュが散らばった綺麗な髪。あれは誰のものだったか。
暗闇の世界の奥。色の存在しないその世界の先に一筋の光が見えた。思わずそれに向かい手を伸ばす。――温かい。
「ねえ、聞いてるの日夏くん」
耳元で春の陽だまりを連想させるような優しい女の声が聞こえ、意識が覚醒した。驚き辺りを見渡せばそこは懐かしいと感じる光景が広がっている。白を基調とし、明かりとりの為の大きな窓が設置されたカフェテリア。多数の人物が席につき、勉強や友人との談笑に励んでいる。
ここは俺の通っていた神喰大学の学生食堂だ。何故ここにいる?理解が追いつかない。
俺はゼータとの交戦で重症を負い、意識を失ったはずだ。だが身体に痛みは無い。そも何故あの異世界からこちらに戻ってきている?どうなっているのだ。
「ねえってば!」
再び優しい女の声が耳元から聞こえ、驚きその方向へ顔を向けた。
視界に写るのは清楚、という言葉が擬人化したような美女の顔。整えられた濡鴉のようなつややかな長い黒髪。整えられた眉と少し垂れた優しげな大きな目。鼻筋はスッとその存在を主張し、健康的なふっくらした唇を心配そうに形作りながら、その女は俺の顔を覗き込んでいた。
知っている。この女は、彼女は――
「姫乃……?」
自然と涙が溢れていた。
彼女、藤原姫乃は本当に心配そうな表情を浮かべ俺の頬へと手を伸ばしてくる。
「ちょ、ちょっと。本当にどうしたの?具合悪いなら一緒に病院行こ、ね?」
姫乃は俺の顔を自身の大きな胸に埋め、優しく後頭部を撫でる。柔らかく甘い、陽だまりのような香り。
匂いと言うのは人間が最も本能的に記憶するものだと、一説には言われている。彼女の匂いが鼻孔を擽ると同時に、俺の中で何かが決壊した気がした。別に悲しくも無いのに、涙が止まらない。この懐かしさが、あの頃の日常が、遠くなってしまった故郷が、全てが一気に押し寄せてくる。
姫乃はそれ以上何も言わず、ただ優しく俺の頭を撫で続けていた。
――しばらくしてかなり落ち着いてくる。
ゆっくりと姫乃の胸から顔を放し、改めて彼女の顔を見た。
別に自分に何があったわけでも無いだろうに、彼女までその目にも若干の涙が浮かび潤んでいる。ああ、そうだ。この子はとても優しい子であった。
藤原姫乃。俺が大学2年から27歳まで交際していた一つ下の女の子。良家出身のお嬢様で、両親や周囲から祝福を受け育った陽だまりの様な女の子だ。
何も言わず、無意識に彼女の頭に手を伸ばす。くすぐったそうに目を細め、だが俺が平常に戻った事に安堵したのか嬉しそうにそれを受け入れた。随分と懐かしい感覚。手が彼女の頭を撫でる感覚を覚えている。だがどういう事だ。何故今俺は、こんな所にいる。
ここが大学の食堂であることを考えるに、少なくとも学生時代であるはず。何がどうなっている?
「落ち着いた?」
春の陽だまりのような優しい声で、姫乃はそう訊いてくる。
「ああ、すまない。確認なんだが、ここは神喰大学の食堂だよな?」
彼女の頭から手を放し、そう問いかける。名残惜しそうにする姫乃は怪訝そうな顔をしながら口を開いた。
「……本当に大丈夫?さっき食べたカレーに悪いものが入ってたとか?」
「いや、ごめん。そうじゃないんだけど、少し確認したくて」
彼女は心底心配そうな目を再びこちらへと向けながら、口を開く。
「えーっと、ここは神喰大学の学食ですよ。それで私達は授業も終わってこれから日夏くんの家で定期テストの勉強をする予定でした」
彼女からそう言われ、思考を回す。現状考えられる説は2つ。1つ目はこれが夢、ないしそれに類似するものであるということ。魔術の存在するあの世界だ。オイフェミアも言っていたが、かなり熟練した魔術師や淫魔と呼ばれる存在が人の夢に干渉することはそれほど珍しくもない事らしい。であれば重症を負った俺が何かの干渉を受け、明晰夢を見ているという可能性は高い。
2つ目。こっちだとかなり面倒くさい事になるのだが、俺が学生時代の日本へ転移したのだということ。第一なんで俺があの世界にいざなわれたかもまだ全然わからんのだ。世界が移動できるなら、時間軸を操ることだって可能かもしれない。
だが誰が、何のために、どうやって?
「日夏くん……?ねえ、やっぱり病院にいこ……?」
ふっと我に返る。視界いっぱいに広がっているのは潤んだ姫乃の顔。その顔を見て、取り敢えずこの子に心配をかけさせている事に対する猛烈な罪悪感のようなものが湧き上がってくる。事態は判然としないが、どうせ思考してもわからないのだと今は割り切ることにした。何より推理するための情報が足りない。
机に置かれた懐かしいリュックを背負い、たいあげられたカレーの食器を手に取る。
「心配かけてごめん。大丈夫だから、行こうぜ」
無理やり笑顔を浮かべ、空いた左手を彼女に差し伸べる。すれば姫乃はそれを取り席を立ち上がった。彼女も椅子の背もたれの裏に置いていたカバンと完食済みの食膳をつかむ。
食器を戻し食堂の外に出れば爛々と輝く太陽光が肌に刺さった。暑い。久方ぶりに感じる故郷の夏の空気。空は高く太陽はちょうど天上。張り出された掲示物を見るに夏休み前位だろうか。
学内は多くの学生が往来し、やはりそれにも懐かしさを感じる。母校である神喰大学は住んでいた地域では一番のマンモス大学であった。日本海側に位置するこの街は冬は毎日雪が降り積もる豪雪地帯であるが、夏は日差しで温められた海が上昇気流を生み熱い空気を巻き上げる。お陰で夏は暑く冬は凍える街であるのだが、俺はこの街がずっと好きだった。だがもう随分と帰っていない。その理由は、俺の家族に関係がある。
C.C.Cに入社したのは自衛隊を除隊したからだ。だがその自衛隊を除隊した理由は個人的な悔恨によるもの。
3年前、俺の両親と弟は自宅に押し入った強盗に殺害された。俺が自衛隊の仕事で家を空けている間だった。警察も捜査をしていたが、結局犯人は捕まらず、後に残ったのは俺と、9歳離れた妹の秋奈、そして3人が殺された実家、それなり以上の遺産だけだった。
もし俺があの時、その場にいれば、両親と弟は助かったかもしれない。そんなもしもの事をその後ずっと考えていた。だがそれ以上にいたたまれなかったのは当時17歳だった妹の秋奈だ。たまたま彼女は部活で家を空けており、巻き込まれることは無かった。自分も相当に辛いはずであったのに、俺を気遣って気丈に振る舞っていた。
だがそんな優しさが逆に俺の心を蝕んでいった。端的に言えば辛かったのだ。自分を押し殺し、周りを気遣う聖女の様な妹を見続けるのが。
彼女もそんな俺の様子を見て理解していたのだろう。
ある日、妹はこういった。
『私の事は気にしないで。きっとこのままこの家にいたら、お兄ちゃんは壊れてしまう。私は大丈夫、だからお兄ちゃんは、お兄ちゃんのやりたい事をやって。私がお兄ちゃんを傷つけているなら、私から逃げて。生きてくれている、それだけで私は十分だから』
優しい妹らしい言葉だった。
その言葉を言い訳にするように俺はエアロン大尉へと連絡をし、弱者を護るためにという大義を抱えC.C.Cへと入社する。だが、実際は妹の言う通りあそこから逃げたかっただけなのかもしれない。
勿論家族が殺された事もあり、妹を一人にするような真似はしなかった。友人であった特殊作戦群の男に妹の警護を依頼し、彼女にもしもの事があったときには全力で妹を護るように頼んだ。ついでに俺のC.C.Cでの年俸の大半を直接実家に投函するようにも。最初は断られたが、必死に頼み込む俺の様子にしまいには折れて、それを受諾してくれた。
兄として、残されたたった一人の家族として最低の決断をしたことは理解している。だが何もせずにあのまま生き続ける事に、俺は耐えられなかったのだ。
蝉の声が煩い。実家に続くけやき道、随分と懐かしい。
「ねえ日夏くん」
不意に姫乃が口を開いた。陽光は相変わらず容赦なく俺達を照らし、玉の汗が額に浮かんでいる。
「どうした?」
「これ、受け取って」
姫乃はいつの間にか手に持っていたお守りの様なものを手渡してくる。突然の事に困惑しながらもそれを受け取る。
「突然どした?」
「なんでだろ。いま渡しておきたいって思ったの」
怪訝に思いながらもお守りへと視線を移す。所謂日本風のお守りであり、刺繍で【祈】という文字が記されていた。中には何か厚紙の様なものが入っているようだ。
「私の家に伝わるお呪いを込めた御守。きっと今後、あなたには必要になる」
あまりにも突然の事で脳が追いつかない。姫乃はどうしたんだ?
「あなた、凄い血の匂いがするわ」
心臓に針を突き刺される様な動揺が全身を駆け巡る。まて、本当に姫乃はどうしたのだ。それにその二人称。彼女は俺の事をいつも名前で呼んでいた。
「姫乃……?」
「驚いているよね。でもそれは私も同じなの。あなた、あなたは、私の知っている日夏くんじゃない」
目を見開く。驚きが脳を駆け巡る。気付いた?だが、何故、どうして。少しおかしい様子を見せたからといって、そんな発想になるものか?
「でも、あなたは日夏くんであることに間違いは無い。そうでしょ?」
見たこともない真剣な表情で、姫乃は俺の目を見ている。
「……ああ。俺は間違いなく、朝霞日夏だ」
姫乃の表情が緩む。心底安心したような、同時に悲しそうな視線で俺の顔を見つめる。
「良かった。なら、またね。またいつか、逢いましょう」
姫乃の目からは大粒の涙がいくつも溢れだしている。どうして、なんで泣いているんだ。今が学生時代ならば、少なくとも数年は一緒にいるはず。なんでそんな悲痛な顔を浮かべている。
「ちょ、どういう事だ。別に俺は……」
瞬間、夏の景色が歪みだす。視界に写る木々と空が砕かれ、その奥から最初に見た暗闇が現れる。
まて、まだ!まだ何も彼女に話していない!なんでこの懐かしい風景の中に再び俺がいるのか、なにもわかっちゃいない!
姫乃は崩壊する景色の中で、俺にそっと手を伸ばした。
「何処へ行っても、何があっても、生きて。死なないで。お願いよ」
「姫乃!?」
彼女の手を取ろうと腕を伸ばす。同時に足元が崩壊し、俺は暗闇へと飲まれていく。
待ってくれ!まだ、まだ彼女に謝れていない!
「私は、私は、あなたをずっと愛しているから、忘れないで!」
暗闇の飲まれ意識を失う直前、彼女の春の陽だまりの様な優しい叫びが耳に届いた。
まて、姫乃。俺はまだ、お前に謝れていない!
「ハァ!」
意識が浮き上がる。同時に視界に入ったのは見知らぬ天井と突き出した自身の右腕。何処だ、ここは。
身体を包む温かさと感触から察するに、どうやら上等なベッドのようなものに寝かされている。視界の隅に入る調度品は瀟洒であり、高貴な印象を抱いた。また胸の上には春の陽だまりのような温かい感触がある。視線をずらせばドッグタグと一緒に括り付けられている【祈】と刺繍された御守。これはあの時姫乃に渡されたものだ。なんでこれがここにある?あれは夢では無かったのか?
そして左手には心地よい温もり。はて、あの時ゼータによって千切れるとはいかずとも感覚は断ち切られたはずであったが。
とはいえなんでこうも連続して目覚めたらぜんぜん違う場所にいるのだ。だが見る限りここはあの異世界、ザースヴェル世界に間違いは無いだろう。ということは戻ってきた、ということだろうか。
向こうの世界に残してきた未練は妹の秋奈だけだと思っていたが、あんなものを見てしまえばまだまだやり残した事だらけなのでは無いかと、泥濘のような思考が連続して絡みついてくる。
別れた時、姫乃への未練は断ち切ったと思っていたのだが、存外本気惚れた女に抱いていた感情はそうも簡単に消えないらしい。実際に夢幻であった可能性があるにせよ、姫乃の顔を見たらあの頃の楽しかった記憶が無限に想起された。全くもって度し難い男だ。秋奈の優しさに甘え、逃げるようにC.C.Cで戦う道を選んだというのに、たかが一度昔を見ただけであの頃に戻りたいと思ってしまう自分がいる。
何とも言えない無力感に苛まれ、天井へ突き出していた手を戻した。同時に上体に複数の荷重と温かさを感じ変な声が出る。
「へゔッ!」
驚いて視線を寝かされている自身の身体へと向ける。視界に広がるのは白と金の後頭部が2つ。ついでに鼻孔に柑橘系と白百合の良い香りが漂ってくる。
「ア、アサカァ!!」
「ぬびえッ」
喉に白い後頭部が突進し、気管が圧迫された。
「アサカァ!!」
「ぐべぇ」
続いて金髪の突撃。顎に後頭部がぶつかり歯がかちんとなった。
「良かった……心配したわよ、本当に……」
左手の温もりが力強さを増す。同時に頭を撫でられる心地よい感覚。だがこの撫で方は姫乃ではない。それよりもいくらか慣れていない様なぎこちないもの。
脳が回りだした。改めて顎への突撃でズレていた視線を自身の胸の上へと戻す。視界いっぱいに広がる美少女の顔。どちらも白い肌の上で際立つ程に目元を真っ赤に染め、涙と鼻水を垂らしている。
随分と久しぶりに見る気がするオイフェミアとベネディクテの顔であった。年相応に泣きはらした顔で俺の胸にしがみついている。
そして頭のと左手の心地よい感覚の主。ベッドの左脇に座っているのは濃紺の髪にマゼンタのメッシュが入った美形の女が目に入る。アリシアだ。心底安心したような顔を浮かべ、俺の頭をなでている。
「大丈夫か!?何処か痛む所はないか!?」
ベネディクテが鼻水を啜りながら堰を切ったかのように捲し立ててくる。言われ身体の違和感を探るが、寝すぎた後のような気だるさと空腹を感じるのみであり、特段痛む所などはない。
「大丈夫、大丈夫だよベネディクテ。少し腹が減っているくらいで何処も痛まない」
ベネディクテがほっとしたように目を緩め、手で涙を擦った。続けて視界に大きく入ってくる金髪の美少女、オイフェミアが腫らした大きい瞳のまま口を開いた。
「アサカ、1週間も意識不明だったんですよ!?もうこのまま二度と起きないんじゃないかと不安で不安で……でも本当に良かった」
1週間だと……?相当長いこと生死の狭間を揺蕩っていたのだろうか。腕が千切れかけた事による失血が主な原因だろうか。存外自分の身体は柔なものだったらしい。
アリシアが優しげな猫の様な瞳を浮かべ右手を俺の頬に伸ばす。温かい彼女の体温。戦士であることがよく分かる剣タコの出来たゴツゴツとした手のひら。だが俺の手とは違い、そこには女性らしい柔らかさが内包されている。
「でも本当に何処も痛まないの?アサカ、あなた左腕が千切れかけていた上に睾丸が破裂していたのよ」
……?ハァ?睾丸が破裂?誰の?俺の?
その言葉を脳が咀嚼した瞬間、下腹部がヒュンヒュンする。思わず布団の中に手を伸ばし、自分のナニを触った。病衣の様なものは身につけているが下着はつけていない。独特の生ぬるさと布団の温かさで伸びたシワ。大丈夫だ。どちらもしっかりと生きている。ふうとほっとしたのも束の間、左右から玉をがっしりと握られ素っ頓狂な声が出た。
「おひゅえッ!?」
その玉の感触の主達へと視線を伸ばす。必死な表情をして俺のナニを握っているのは金髪と白髪の弩級の美少女。いや、それ貞操観念が逆転していなくても十分セクハラだからァ!!!!てか痛い!ゼータに蹴り上げられた時程では無いけど皮と中身が擦れて気持ち悪い!
「ほ、本当だ……!!!しっかりとあるぞ……!!」
「良かった……!良かったです……!もう子供が作れないのかと胸が張り裂けそうで……」
普通なら美少女2人にナニを掴まれている事で息子が独り立ちしても可怪しく無いのだろうが、微塵も反応する気がしない。理由は愛撫というよりも存在の確認をするかのようにがっしりと保持され揺らされているため、それなり以上の気持ち悪さが勝っているからだ。
「や、やめ!やめてぇえええええ!」
気品漂う一室に俺の魂の絶叫が轟いた。
閑話休題。
あの後すぐに人のナニを握っていた美少女2人は自分の行いに気が付き、火が出るのでは無いかと思うほどに顔を真赤にし、ベッドの横の椅子に座ってうつむいて身悶えている。
こちらとしてもナニの感触から開放され、ベッドに身体を埋めた。
「全く……。でも本当に良かった」
アリシアが頬を紅潮させ、その目に少し涙を溜め口を開く。いつもの気丈としたクールな様子とは異なり、どこまでも優しげなその瞳に姫乃の顔が脳裏によぎる。全然タイプが違う2人だと言うのに、何故なのだろうか。いや、だがこの感情は姫乃にもアリシアにも失礼極まりない。右手の親指の爪を肉に喰い込ませ、思考を霧散させる。
「心配かけてすまなかった。ところでここは何処だ?」
話題転換も兼ねて口を開く。実際ここは何処なのだろうか。しっかりとした建物に上等なベッド、オイフェミアとベネディクテが泣きついてきていた事を考えるにフェリザリアとの前線地では無いはずだ。
「ああえっと……。ここは王都の私の屋敷です……」
心底申し訳無いといった感情と、羞恥が入り混じった表情で口を開いたのはオイフェミア。熟れきったトマトが如き真っ赤な顔を下に向けたまま視線だけいじらしげにこちらを見ている。さっきの玉握り事件を思い出して沸騰しているようだ。恐らく無意識にこちらの息子の無事を案じての行動だったのだろうが、地球基準でも十分すぎるセクハラある。ましてや貞操観念が逆転したこの世界ならば尚更。看病していた女の女陰を突如撫でるのと同じような行為だろう。勿論怒りの感情は浮かばないが、それはそれとしてその羞恥を勉強料だと思って反省して欲しい。男の玉というのはそれだけ繊細なのだ。
「まあともあれ助けてくれてありがとうな3人共」
俺がそう口を開けばアリシア、オイフェミア、ベネディクテの3人がこちらに顔を向け、優しく微笑んでくれる。若干2名の顔は真っ赤のままであるが。
「ンッ、ンン。だが驚いた。そちらの世界にも身体修復の魔術が存在していたのだな」
ベネディクテがわざとらしく喉を鳴らしながら声をかけてくる。ん?いやまてなんの話だ。身体修復の魔術?俺が知る限り、そんなものは存在していないはずであるが。
いやまさか。思い立ち首からかけられたドッグタグを手に取る。そこには古びた【祈】と刺繍された御守が一緒に括り付けられていた。春の陽だまりの様な温かさをまだ感じる。やはりあれは夢でも幻でも無かったのか?
「アリシアからアサカが重症と報告を受けてディメンションゲートで前線にすっ飛んでいったんです。ミスティアは神聖魔術よりも真語魔術が盛んな国ですから、高名な治癒の使い手は王都にしかいません。ですが……」
オイフェミアはそこで言い淀む。何かが起きたのだろうか?
「基本的には千切れた身体部位や完全に破壊された部位の修復を一般的な神聖魔術では行えないんだ。完全に壊れた部位の修復には最低でも上位者クラスの神聖魔術の使い手でなければ難しい。故に駆けつけた段階で我々はアサカを五体満足のまま助けることを諦めかけた。腕は兎も角としても、完全に破裂した……こ、睾丸の治療は出来なかったからだ」
赤い顔のままベネディクテが言葉を続けてくれた。雪のような真っ白な髪も相まってよりその顔の赤さが強調されている。
「それにゼータを退けた段階でアサカはかなり危険な状態だったわ。大量失血でいつ死んでも可怪しくなかった。でもあんたの付けているそのタリスマンが光りだして、あんたの損傷部位が癒やされていったの」
アリシアに言われ、更に強く御守を握りしめる。やはりこれが、姫乃が助けてくれたんだ。どういう原理なのかは全く理解できない。それに俺が知っている地球では魔術なんていうのは御伽話の中だけのものだ。それを何故姫乃が使えたのか?それに加え、別れ際の彼女の態度はなんだったのか。わからない事だらけである。
だが、今は心底姫乃に感謝していた。あんなやり残しを見せられた後でぽっくり死ぬとか真っ平御免である。
「私達の用いる魔力とは全く異なる性質をそのタリスマンからは感じています。一体それを誰から?」
オイフェミアが上着の襟元で顔を仰ぎながら問いかけてくる。顔が熱いんだろうが、胸元が見えかねん。先程とは違いそっちのほうが下腹部に血が集まりそうだから辞めて欲しい。
「大切な人、かな。いつから持っていたものなのか全然覚えていないんだが、これのおかげで助かったんだな」
3人の眉間にシワがよる。まて、なぜ今の流れでそんなにも不服そうな顔を浮かべる。美談だったろ。
「ふーん、そうですか。さぞや高名な神聖魔術の使い手だったんでしょうね、その方。若い女性の魔力を感じますから、良い人だったんでしょうね~~~」
明らかに拗ねた様にそっぽを向きながら口を開くオイフェミアの顔をみて、自然と笑いが溢れた。笑わないでくださいとぽこぽこ胸を叩かれるが、どうにもそれが心地よい。
良かった。死なずにすんだ。
それに自分の中での大きな目的も出来た。姫乃にお礼を、秋奈に謝罪を言うために、一度向こうに戻る。まだまだこの世界に来た理由も、生死の狭間で姫乃に会った理由も、分からない事だらけだがその謎に向き合っていく。
ん……?死なずに済んだ……?まて、彼女は!?
「ゼファーは!?」
上体を勢いよく起こし、喉の限り叫ぶ。そうだ、あの時ゼータに致命傷を負わされたのは俺だけではない。鎖骨にナイフを突き刺されたゼファーも相当危険な状態だったはずだ。
3人に顔を向けるが、突然の俺の行動に驚いたのか目をパチクリとさせている。
まさか……最悪な想像が脳裏によぎった。
「生きてるよぉ」
アリシア側にある部屋のドアが開き、女の声が聞こえてくる。慌てて視線を向ければ普段結っている真っ赤な髪をおろしたゼファーが松葉杖をついて立っていた。
「全く。意識が回復したって聞いたから顔を見に来たら姫様2人と上位者を侍らせて良いご身分だね。……おはよう、アサカ」
なんてことの無いようにいうゼファーの姿を脳が咀嚼し、胸中に安堵が広がっていった。良かった、これで俺だけ助かっていようものならまた家族を失った時のトラウマが再発しかねなかった。
「……おはようゼファー。身体は?」
自分でも驚くほどに優しげな声がでた事に若干の照れくささを感じる。アリシア、オイフェミア、ベネディクテの3人は微妙な視線をゼファーへと向けていた。辞めなさい、俺の命の恩人の一人だぞ。
「致命傷だったけどアサカとは魔力の保有量が違うさ。傷口を魔力で凝固させたから死なずに済んだよ。それよりもそこで済ました顔をしているアリシア・レイレナードに礼を言っておきな。ゼータの一撃で腹に大穴が空いても私らを助けてくれたんだから」
アリシアがそれまでの感情とは異なったもので頬を紅潮させる。焦った様に目をパチクリさせながら俺とゼファーへと視線を向けた。そして焦ったように口を開く。
「言うなって!!」
驚きアリシアの顔を見る。彼女は少し照れくさそうに俺の視線から逃げるようにそっぽを向いた。当たり前だが服を着ているため腹部の傷は確認できない。大丈夫なのだろうか。
「アリシア……ありがとう。傷は?」
「とっくに治療済み。あんたと違って何処が壊された訳でも無いから……」
いじらしく髪をいじるアリシアの姿を見て誰かと重なる。やめろ、それは姫乃にもアリシアにも失礼だ。
だが何故全く似ていないこの2人の姿が重なるのだ。
「本当にみんなありがとう。あの後戦場は?」
表情を取り繕い口を開く。1週間も寝ていたと言うし、すでに趨勢は決しているだろうが気にしない訳にもいかない。
すれば4人が変わり代わりに説明をしてくれた。
あの後ゼータはアリシアと戦闘に突入し、アリシアに深手を負わせるが、ゼータ自身もグレネードの破片とアリシアの反撃で致命傷を負い撤退。
ノルデリアはレティシアが抑え付け、その間にアリーヤが砦に攻撃を行い蹂躙。守護していた第8騎士団を殲滅し、攻城戦には勝利した。
その後レティシア率いるウォルコット軍がフェリザリア内部に浸透し、国境線付近の村々をいくつか蹂躙して、現在はミスティアへの帰還中だと言う。
俺の荷物に関してはレイレナード部隊が回収し、オイフェミアのディメンションゲートで俺とゼファーと共にこちらへ届けられているらしい。直接は触れない封印がかかっている事もあり面倒をかけただろう。後でレイレナード部隊の面々にも礼を言っておかなくては。
「そんな所だ。現在は私が主導でフェリザリアとの停戦交渉に入る段階まできている。アサカはもう数日休養しておけ」
ようやく顔の赤さが引いたベネディクテがそう口を開き椅子から立ち上がる。どうやらここ数日俺の見舞いで足を運んでいたせいで政務が溜まっているらしい。申し訳ない事をしたと謝罪すれば、彼女は優しく微笑んだ。
「では私は城に戻る。ゆっくり休めアサカ」
「お言葉に甘えさせてもらうよベネディクテ。ありがとうね」
彼女は少し照れくさそうに微笑み、部屋を後にした。その後オイフェミアが使用人を呼び食事を持ってきてくれる。
「私も仕事がありますので一度失礼しますね。アサカ、よく噛んで食べてください」
「ありがとうオイフェミア。そうさせてもらうさ」
オイフェミアは邪気の無い笑顔をこちらへ向け、足取り軽く部屋を出ていった。随分と心配をかけたようだ。後で埋め合わせをしなければ。
残ったアリシアとゼファーと共に談笑しながら食事を摂る。眠気がくるまでそうして久方ぶりの穏やかな時間を楽しんだ。
「姫乃?」
夏の日差しが肌を焼く。蝉の声は煩く、纏わり付くような空気が身体を包む。
何故外にいる?さっきまで姫乃と共に食堂で昼食を摂っていたはずであったが。
いやそれ以上に何故彼女は泣いているのだ。
端正な顔の目元を腫らし、大粒の涙を流している。その顔はとても悲痛で、悲しげで、辛そうだった。
「日夏くん……」
細い声で彼女は言葉をもらす。誰かと今生の別れをしたような、悲しげな声。
「なんで、泣いているんだ……?」
姫乃は右手で涙を拭い春の陽気を連想させる笑顔を向けてくる。少し崩れた目元の化粧すら感じさせない程に、その笑顔は綺麗であった。
「とても大事な人に会ったのです。でももう済みました。ほら早く行こ!」
姫乃は強引に俺の右腕を掴みけやき道を歩き出す。なんで記憶が飛んでいるのか、なんで彼女が泣いていたのか、全く判別がつかない。だが、姫乃の顔を見ていればそれ以上何も追求する気には慣れなかった。
夏の空は遠く、雲は高く伸びている。夕方には一雨きそうだ。蝉の声が煩いけやき道の中、大切な人の手を握ってその隣を歩いていく。夏の嫌な暑さ。だが手から伝わる春の陽気の様な温かさは何処まで穏やかで、愛おしかった。
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