それは■の跡のような歩で
ふと、青年は自分の手を見た。いつも見慣れている筈のそれは皺だらけで皮と骨だけしかないほど細く、やせ細っているように見えた。ギョッとしてもう一度見直すと、いつも通りの手に戻っていた。青年は束の間の安堵を得て歩き始める。辺りには白い砂が強い潮風と共に彼方へと流れ続けていた。
数か月、もしくは数年前かもしれない。思い出そうとするには、この景色はあまりにも日常となりすぎていた。目を覚ますと、浜辺にいた。それがこの場所での最初の記憶である。それまでは、それなりに楽しく過ごしてきた筈だ。だというのに、目を覚ますとこの場所にいた。白い砂浜とコバルトに輝く海。そして、少しだけ光が差し込む灰色の空。見渡す限り同じ景色だったが、何処へ向かうべきか、解っていたわけではない。だが、まるでそれが当たり前というかの様に、歩き始めた何処かへと。それは、本能だったのかもしれないとも感じている。ただただ歩き続けて、今日まで来たのだ。
どのくらい歩いただろうか。手元の時計に目をやると、昼前を指していた。夜が明ける前から歩き始めた筈だが、もうそんなに長い時間を歩いたのかと驚く。足元の砂は相変わらずさらさらと指の間をすり抜けていく。持ち上げる脚は以前ほど軽くはなかったが、それでも歩くことはできている。相変わらず来たばかりの頃と見える景色は変わっていない。両隣りにはコバルトブルーの海と果てしなく続く白い砂浜。空にはほんの少しの光が見える灰色の空。青年は空を見上げることがあまり好きではなかった。冷えた空気は空に広がる灰をより一層際立たせ、焦燥感と意味のない悲しさを感じさせるからだ。海はいつも小さな波を作り出していたが、彼は足を取られまいといつも少し離れて歩いていた。けれどそれ以上離れることはなく、反対側の砂浜へ行くこともなかった。
しばらく歩き続けて、砂浜に何かが落ちているのが見えた。青年が拾い上げると、それは上に積もっていた砂をざらざらと落としながら姿を現した。紙の入ったガラス瓶だった。砂浜を歩いていると、こういったものが稀に落ちていることがある。蓋を開け、中の紙を開いてみる。紙に書かれていたのは、何処かの国の英雄譚だった。読み終え、最後に小さく書かれた分が目に入った。
───私にはもう、何故この場所を歩いていたのかすら思い出せない。だからこの残骸を見つけた者は、いつか思い出して欲しい。最初の願いを───
読み終えた青年はもう一度足元を見て、瓶が落ちていた場所から砂浜の方へ掠れた奇跡が続いているのが見えた。けれどその主は見えず、ただ風が吹いているだけだ。ポケットに紙を押し込め、少しだけ後ろを振り返る。さっきまで自分が歩いていたはずの場所は、流れる砂によって既に掠れていた。後悔や喪失感がないわけではない。歩き始めた時より青年の体は幾分か年老いた感覚もある。もしかしたら、このまま進んでもどこにもたどり着かず、この砂浜の砂へと消えてしまうのではないか。一生かかっても自分の歩みを肯定する答えなど得られないのではないか、そんな不安も感じている。
目を閉じて、一呼吸。冷たい空気と薄く感じる潮の香を確かめながら、一面灰の空を仰ぐ。少しだけ時間が経ち青年は再び歩き始めた。海と砂浜の遥か彼方、空から差し込む光とその果てへ、抱えたものを慈しみながら。
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