葉月:青に溶けゆくもの01

 真っ青な空に、入道雲の白が映える。それを見上げながら、鎌倉の小路をのんびりと、歩く。

 目的の店は、小町通りから少し外れた小路にあった。壁にはアイビーが陽の光に青々と輝いていて、こじんまりとしながらも夏の花々やハーブのプランターに囲まれた、愛らしい印象のカフェだ。看板の『みけねこ』の文字を見て、間違いないことを確認してからかろん、という心地よい音と共に店内へと足を踏み入れた。


「いらっしゃ……はえ? 龍一さん?」


 振り返った花は思わぬ来客に驚いた様子で、それでも店員らしく元気良い挨拶をしてくれる。へにゃり、と龍一は笑って小さく手を振る。

「どうしたんです? お店に来るなんて初めてじゃないですか」

「うん、お菓子を買いに来たんだ。この後懐古洞に行くから。お盆用のお菓子は別で買うとして、富美子さん達のお茶菓子にって思ってね」

 後、折角だしかき氷も食べたくなっちゃって、と続ければ、間近で向日葵のような笑顔が咲いた。

「じゃあお好きな席座って下さい! 今メニュー持ってきますから!」

 くるくると動く姿を見ながら、窓際の席に落ち着くことにした。適度に涼しく、落ち着いていると足元でにゃあ、という声が聞こえてきた。見れば三毛猫がこちらを見上げているのがわかった。金色のきらきらした目は宝石のようで、とても愛らしい。店の名前もみけねこ、だし、もしかして由来しているのかもしれない。にゃあん、と再度催促するように鳴かれる。

「ここ、来るかい?」

 ぽん、と腿を叩くとにゃうん、と鳴くやいなやぴょん、と飛び乗る。花がメニューとお冷を持ってきた頃には、猫は膝の上でくるんと丸くなって、すぴすぴと鼻を鳴らし始めていた。

「わ、懐かれちゃいましたね。うちの看板猫ですよ」

「へぇ、やっぱりそうなんだ」

「二代目なんですけどね。あっ、初代は健在なんですけど、あんまりお店に出てこなくなっちゃって」

 なるほど、と笑ってメニューを受け取って。ぱら、と中を見てびしり、と固まる。メニューの名前が、その。

「……ねえ、花ちゃん。この『きゅんきゅんハートのマジカルスイーツ』とか『ほろにがすっぱい黄昏の思い出のマイメロディ』とかって、何?」

「バナナチョコクリームかき氷と、グレープフルーツヨーグルトソースかき氷ですね」

 楽しそうに答えながら、花は伝票とペンを取り出している。どうやらこれを言わないと注文にならないらしい、というのは理解した。非常にすごくそのあの、恥ずかしい。一種の罰ゲームかな? と思うが、インパクトという点では忘れられない店にはなりそうだ。

 これは今度宗一を引っ張ってこよう、と決意したところで、メニューを読み上げる。

「……じゃあ、ええと『鎌倉小町のシブかわ☆ドキワクミルキー』……で」

「はーい!」

 すごくすごく恥ずかしかったけれども、比較的まともな名前だろう。因みにマンゴーとパイナップルのヨーグルトアイス乗せかき氷は『ひと夏の甘いバカンス☆禁断のトロピカルロマンス』だったので、これはもう、絶対に宗一に言わせるぞ! 心に決めながら、龍一はお冷を一気飲みしたのだった。


 暫くして花がトレイに乗せて持ってきたのは、予想外に大きなボウルに盛られたかき氷だった。

「うわ、大きい!」

「抹茶も宇治から取り寄せてるし、粒あんもバニラアイスも店の手作りですからね」

 トレイごと目の前に置かれると、一層大きく感じる。

 宇治抹茶をまんべんなくかけられた氷の山にはバニラアイスが添えられている。山頂には凍らせた苺がちょこんと乗せられて愛らしい。横にはお好みで、と黒蜜が添えられていた。

 膝の上から二代目を下ろしてもらってから、頂くことにする。さくり、とスプーンを入れると、氷のきめ細やかさがよくわかる。細かくふわっふわな氷は、口に運べば柔らかく優しく溶けていく。

「うわあ、軽いねぇ! これ、大きいって思ったけど普通に食べられちゃいそう」

「ですよね。私でもぺろっと食べられちゃうくらいですし」

 抹茶のほろ苦さは、思ったよりもしっかりしている。黒蜜を足しても良いくらいだが、食べ進めていくと中に粒あんと更にバニラアイスが隠れているので、それで調和は取れる。絶妙な苦味と甘味のバランスで、氷も軽い食べ口なのもあって、さくさくと食べ進めることが出来た。食べ終わる辺りで、花が温かい緑茶と小皿に乗せたクッキーを持ってきてくれる。

「お土産はクッキーの詰め合わせです? 決まってるなら用意しておきますけど」

「うん、そうだね。お願いしていい?」

 はぁい、とくるりと背中を向けられたところで、本題の一つを思い出す。お土産も目的だったけれども、これは忘れてはいけない。

「あっ! 花ちゃん、ちょっと待って」

「ふあい?」

 くるりと振り返って戻ってくる彼女に、はい、と手渡したのはポケットに忍ばせていた小さな包みだ。小首を傾げながらそれを受け取るのを見てから、開けることを促す。

「開けていいんです?」

「うん、勿体ぶるようなものじゃないしね」

 そう返すと、再度首を傾げてからそっと包みを開ける。

「……! わ、これは」

 中身を見てぱち、と大きく瞬きしてから、顔を勢いよく上げてこちらへ視線を向ける。驚いてくれたなら結果は上々だ。龍一は満足げに口元を綻ばせた。

「今日してるピン、宗があげたんでしょ」

 少し明るめの髪色に、桜色の硝子飾りのついた髪留め。彼女の趣味より少し可愛い印象の色合いになんとなくピン、ときたのはいつからか。ピンだけに。

 ここに来る道すがらで見つけたアクセサリーの展示会で、作家らしき女性が作品を並べていた。何となく覗いて見たら、あのピンと色違いがあったものだから。

 気が付いたら、そのピンを包んでもらっていたわけで。

 花の手の中には、飛行機雲を封じ込めたような空色の硝子が飾りでついているピンと、夕焼けの色を写し取ったような赤い花が咲いているピンが店内照明に当てられて、愛らしく煌めいている。

「宗、ずるいなーって思ってたので僕もあげてみました! そっちも使ってあげてね」

「ふたりして本当そういうとこですよー⁉」

 そういうところってどういうところなのだろうか、と聞いてみたくもなったがそれも可哀想な気がしてやめておく。お代を先に、と財布を取り出そうとしたところで、あの、という声が向けられた。

「龍一さん、有難うございます。大事に使いますね」

 えへへ、と笑って今度こそくるり、と背中を向ける。贈ったのは自分なのに、何故かとてもたくさんのものを貰った気持になって、人知れず龍一の口元は緩むのを抑えることが出来なかった。

 優しい日常の幸せを噛み締める。過去に戻れたならもっと、周りに優しい贈り物を沢山渡せただろうか? 渡せたなら、もっと違ったのだろうか? 今でも、あの時に出来なかったこと、しなかったことへの後悔はあの夜の波のように打ち付けてくる。

 だけども、それでも前に進むのだ、と。大事に出来ないことを繰り返してはならないのだ。


――今、大事に出来ることを、大事にすることから頑張ろうかな。


 あの夜、迎えに来てくれた彼を。

 あの朝、迎えてくれたあの子を。

 大事に、大事にするところから、一歩。

 前に進めたらと、龍一は菓子を入れた紙袋を持って戻ってくる花に向かって、微笑んだ。

「うん、有難う花ちゃん」

「? はい? ええと、千八百円税込み、です?」


***

 

 小町通りにある和菓子屋で菓子を見繕って、紙袋をふたつ下げて踏切を渡る。その傍にあるのは、店頭に骨董品がごった返している見慣れた風景だ。ひょこり、と覗けばレジでいつものように座っている姿が、視界の中心に映った。

「富美子さん」

「あら、龍一さん。今日はお休みじゃなかったかしら?」

「いえ今日は店番じゃなくって、これを」

 がさり、と紙袋を見せると、まあ! という嬉しそうな声が返ってくる。店番をする度に出される茶菓子の中で一番多い店のものをと、選んだ甲斐があったというものだ。供えるという前提で買ってきたのは、最中だが限定の塩餡子という少し塩を利かせた粒餡のものだ。

「あらあら、これ美味しいのよね。気を遣わせちゃって申し訳ないわ」

「いつもお店番の時に美味しいお菓子を頂いてますしね。そちらはお供え用。こっちは親戚の子が仕事しているお店のお菓子で富美子さんへ」

「ふふ、龍一さんみたいな格好いい人にそんなに贈り物されるなんて、彼女に怒られてしまうわね」

「今はいないんで安心していいですよ、なんて」

 頭の中に、同じ読みを持つ妻の顔がよぎる。彼女は無事に次に進めていると良い、と思いながら菓子を手渡した。

 暑かったでしょ、お茶飲んでおいきなさいな。グラスを取りに行った丸い背中がレジの奥へ消えていくのを見送り、ふと横を見ると変わらずに本がみっしりと詰まっている本棚が壁のように立ちはだかったように、感じた。


 そこには、変わらずに。『芥川龍之介』の本が何冊も含まれている。


 正直、まだ自分の亡骸に寄り添う気にも、改めて手に取る気にもなれない。あの頃の自分には後悔ばかりが募っていく。しかしいつかは、それが『芥川』の人生だったと、そしてそれを連れて行かねばならない時がくるのも理解していた。

 そんな日は、いつになることやら。

 以前よりは苦しい感情は和らいだけれども、まだそこまで辿り着くのはまだまだ先になりそうではあるが。

「龍一さん、お茶をどうぞ」

 大きなグラスに氷を詰め、麦茶をたっぷりと注いだものを渡される。指先から心地よい冷たさが伝わってきて、一口飲めばそれは喉を通り胃の奥まで抜けていく。夏に焼かれて熱が籠った身体が、きゅっと冷えていくのは爽快で。

「涼しくなりました、有難うございます」

 一気に飲み干して、ことん、と空のグラスを会計台に置くと、ふふ、と柔らかな微笑が浮かぶ。

「龍一さん、あのね。違ってたら……気を悪くされたら申し訳ないんだけど」

「はい?」

 何だろう、と言葉の続きを待つ。いつもと変わらない調子で、まるで世間話をするかのように、それは声として紡がれた。

「龍一さんは、芥川龍之介に似てる、って言われるんじゃないかしら」

 びっくう、と心臓が思い切り跳ね上がる。顔に出ていないと思いたいが、そんなに。そんなに、自分は以前と変わっていないのだろうかと別の意味で頭を抱えたくなった。

「たまに、言われたりは、しますね」

 完全否定をするとそれこそ、ムキになってしまいそうなので少しだけ、肯定することにした。まあ、本人なので似てるとかいうレベルではないのは、知らないことにする。

「やっぱりそうなの。だからなのかしらね、時々嫌ぁな顔をするものだから彼の本を嫌いなのかしら、って」

「え」

 思わぬ言葉に、驚いてしまう。そんなに酷い顔をしたことがあっただろうか。いや、その前にいつそんなところを見られたのか。動揺が伝わったのかも、しれない。ごめんなさいね、と、宥めるような声が、肩を撫でた。

「本の方を見ている時がとてもつらそうでね。芥川龍之介の本の辺りをじっと見ていたから」

「嫌い、というよりは、そうですね……似ているので、外見もですが、中身も」

 本人なのだから似ているどころではない。かつての自分の屍を見るのがつらい、などとは口が裂けては言えないけれども。何かで誤魔化すことも、違う気がした。

 彼女は多分、生半可な誤魔化し方でも優しく見逃してはくれるだろうけども、それは龍一自身が許せなかったのだ。だから、なるべく近い言葉で表すことを選択した。

 答えをどう受け取ったのか。彼女は、ふ、と目を細めた。目じりにきゅ、と小さな皺が咲く。

「本は、選ばれた言葉が集められたものだと思うのよね」

「え? 選ばれた、言葉、ですか」

 そうよ。近くにある本を手に取り、子どもを撫でるようにそっと表紙に触れる。見覚えのある表紙に、芥川龍之介の文字が刻まれたそれに、やはりきゅ、と眉間に皺が寄ってしまった。

「皆、それぞれに様々なものを背負ったり、思ったり、それらを刻みたくて、表現したくて、ペンを走らせるのではないかしら。特にあの頃は、生活が掛かっている人もいた。借金を返す為に書いていた人もいた。自分の文学を知って貰おうと、想いをの丈をたたきつけようと、そういう人もいたでしょう? でも、それがずっと残るのは難しいわ」

 柔らかに、包み込むように。言葉は続く。

「芥川龍之介も、そうなのではないかしら。でも、彼を残したい、愛したいと願った人達が、彼を残して、継いでいったからこそ、今ここに本があるのよね。不器用で、格好悪い彼も、愛したからこそ、ね」

「――富美子さん」

「だから、龍一くんは似ているって言われたのではないかって思ったのよ。貴方はとても、愛される人だから」

 じわ、と顔が熱くなっていくのがわかる。

 自分を好きになるなんて、無理だとは思うのだけれども。自分を愛している人達のことは、わかる。その想いが望んだからこそ、と思えば思うだけ、顔がじくじくと赤くなるのが自分でもわかったし、止めることが出来ない。

 愛されていた。そんなわけがない、なんて言えるわけがなかった。

 愛されてなければ、夜の海に自分を迎えになんてこないし、朝まで自分を信じて待ってくれやしないのだ。それがわからないほど、龍一は馬鹿にはなれなかった。

「そうなんです、かね」

「ええそうじゃないかしら。それに、照れた顔もキュートでいいと思うわ」

「そういうことを言わないでくださいよ……」

 うふふ、と傍らで笑いがこぼれる。ご主人に見られたらとても困る場面だな、と考えながら、龍一は氷だけになっていたグラスを再び手にする。頬にじゅう、とくっつければ熱はじゅっと消えていく。しかし、冷えるのが先か、氷が水になるのが先か、非常に怪しいとも思う。

 龍一が動けるようになるまで、隣でにこにこと彼女は、本を読んでいた。勿論、先刻手にしていた芥川龍之介のものを。

 ああ、もう!

 もう顔の火照りが止まらなかったら、夏が暑いせいにしてしまおう――なんて。

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