文月・帰:陽の中、かえりみち02
彼と、言葉を交わした夜を、思い出す。
講演会に向かうべく東京駅へ向かうと、植村が話していた通りのお馴染みの連中が首を揃えていた。
菊池寛、宇野浩二、田中純の三人であるが、何でも里見と久米は一日遅れで後から向かうということ、らしい。
すっと現れた植村に寡黙なまま促され、ぞろぞろと連れられ汽車に乗り込むこととなった四人は、何とも不思議な面持ちで挨拶を交わすこととなる。なにぶん、知った顔――菊池に至っては旧知の仲であったし――が突然現れた男によって別々に集められたのだ。妙な気分になるなというのは無理な話というものである。
「何か珍しい感じがするな。狩られて捕獲された気分だ」
「僕らはさしずめ獲物、ってことかい」
「まあ、当たらずとも遠からず、というところかもしれないね」
「昔から植村はそういう男だからね」
軽口を叩き合いつつも落ち着いた頃合いで、喫煙室に向かえば、既に菊池と宇野がそこにいた。田中はどうやらまだ座席にいるらしい。
やがて三人三様の紫煙がゆるゆると上り始めると、話題はかの狩人たる植村へとなったのは自然な流れと言えるだろう。切り出したのは自分だった記憶がある。
「うーん。それにしても、植村ってのは変な奴だね。あれはどういう人物なんだい」
宇野に尋ねたのは、田中が学校の同期、ということを聞いていたからだ。田中と同期、ということは宇野と同じ学校であるということだと思い当たった故の言葉であったが、返事は芳しくないものであった。
「僕は知らないんだよ、残念ながら」
「だって君は彼と同じ学校だろう? 田中純と同じクラスだったというじゃないか」
ふるり、と宇野が横に首を振るに合わせて煙はゆら、と大きく揺れる。
「でも、僕は同じ学校と言っても田中とも知らなかったもの。尤も彼等より僕は一つ上のクラスだったけども、どちらにしても僕は碌に学校に出ていなかったし」
「田中だって、植村だって、皆出なかった方だろうさ」
どうやら、宇野も初対面も同然、ということらしい。同じ学校とはいえ、イコール知っている、というわけではないということか。
暫くそんな遣り取りを聞いていた菊池がふはあ、と煙を吐き出すと、甲高い声で「変なやつだなァ」と一言口にする。その後二人がするりと別の話題に移っていくのを聞きながら、芥川はもう少し紫煙を味わうことにした。
煙草が終われば、何となしに今度は外の空気が欲しくなる。閉鎖された空間には、自分達の吐き出したものによって霧がかかったかのように少し白く染まっていた。お先に、とだけ告げて、退場を決め込んだ芥川は、汽車の走る音が続く廊下へと踏み出したのであった。
がこん、がこん、と線路を走る音は振動となり列車の内部に伝う。
その薄闇のカーテンの中、車内の連結部分傍に、彼――植村はぼんやりと立っていた。
何処か遠くを見つめるような表情に本当にこの奇妙な男は何者なのか、と自分の中で撒かれ発芽してしまった好奇心を止めることなど、できるわけがなかった。
「う、植村!」
声を掛ければ、少し驚いたように肩が微かに震え、目を丸くして此方へ視線を向ける。まるで小動物を思わせるような仕草に、思わぬ愛嬌を見つけ小さな嬉しさが心に生まれる。
しかし、向こうとしては予想外の遭遇だったのは間違いなく、一瞬警戒の色が浮かんだのを確認した。
「あの、眠れないのかい」
「そちらこそ寝ないんですか。早よ休んだほうが良いと違いますかね」
ぼそ、と素っ気なく返された声は、線路を跳ねる車輪の音にかき消されてしまいそうな程の小さなものであった。しかしそれでも届いたそれに、芥川はもしや、ととある可能性に思い当たった。
――手早く、なるべく喋る言葉を少なく。
――茶も断り、長居を避けたのは。
「簡単に寝られたら苦労はしまいよ。それよりも、君」
「? 何です」
ああ、やっぱりそうだ。ここに来て微かに緩んだ彼の欠片をぱしり、と掴む。
「一緒にいる菊池寛。彼は香川の出身でね。時折そちらの言葉が出ることがある。ただ、まあ今の風潮として西の言葉が出るのを嫌って此方へと寄せているようだけど――君も、そんな感じだね?」
「ッ!」
しまった、と言いたげな表情が薄闇で弾けた。
それはすぐにかき消えてしまったが、それは仄かな温かみがあり、とても好ましいとすら思う。
「西、そうだね大阪辺りなのかな。今の風潮なのだろうけども……でも、そちらの言葉は僕、好きだけどねえ」
それは素直な言葉だった。田舎者だなんだと揶揄する愚か者のせいで、訛りを矯正する羽目になるような世間の流れはあまり好きではない。暫しの沈黙、ばつが悪そうな表情を浮かべているだろうというのは、何となく伝わってきた。意外と感情がわかりやすいのかもしれない。
「……あんまり言わないで頂けますかね」
それだけを何とか普通に、独特の音を消すようにと努めて返すと、植村はふい、と視線を逸してしまった。今まで見ていた不遜な――上手いこと迅速に大阪講演の約束を取り付けた男、というよりは。居心地が悪そうにしている子どものような様子に思わず、口元が緩んでしまう。
もしかして。
この男は、思うよりずっと、可愛らしく馴染みやすい人、なのかもしれない。
暫し警戒する野良猫のような視線を向けていた植村だったが、あんまりにも緩んだ表情だったせいなのか。少し拍子抜けしたように息をひとつ吐くと、すい、と芥川の傍らをすり抜けた。その際に。
「ほんま、早よ寝てくださいな」
ぼそりと廊下に放られた言葉は、少しだけ頑なさが綻んだような、そんな柔らかさが含まれていたように思えた。
この道中もっと話すことが出来るだろうか。おやすみ、と声を掛けた自分の表情が妙に緩んでいることを確認する。背中を見送った後、煙草がまた恋しくなって、芥川はくるりと再び喫煙室へと足を向けた。
目の前まで来た辺りで、丁度宇野が廊下に出てくるのが見えた。向こうも気がついたらしく、小さく手を上げる。
「まだ吸っていたのかい」
「寝る前に一服だけ、っと思ってね」
少し眠そうに目をこするのを見ながら、そういえば、と思い出す。先刻植村の話をしていたな、と。
「そうだ、宇野」
「うん?」
「さっき、植村とちょっと話をしてきたよ」
「……は?」
間抜けな声が返ってきたが、芥川は気にせず言葉を続ける。
「此方から話せばものを言うよ。口を聞いてみると、なかなかに面白そうな男だよ」
「さっき、っていつ」
「おかしなことを言うね、さっきはさっきだよ。本当についさっき」
説明のしようがないことを聞かれても――と肩を竦めると、宇野は真顔になった後深い深い溜息を廊下に吐き出した。本当に好奇心に手足を生やしたような奴だな、という呟きに「失礼だな君は」という言葉は忘れない。
「うん、大阪行き。俄然楽しみになってきたよね」
「……大波乱の予感しかしないんだがな」
まともなのは僕だけか、という言葉にはにこりと無言で笑みを返すことにした。
夜が明け、講演会前にひと騒動あったり、講演会の後も大変だったのだが、それは別の話として。
大正九年。秋も深まる頃、旅立ちの足音を遠くに感じていた男は一人の男に出会った。
それは、死を運ぶドッペルゲンガアなのか、それとも血の繋がらない魂の双子の片割れなのか。
今も、わからないままだ。
だから――彼を選んだ、なんて言ったら、どんな顔をするだろうか。
***
コンビニの袋から取り出したおにぎりは、べこん、とものの見事に変形していた。
ざん、という波の音を遠くに聞きながら、腰をかけるのに丁度いい岩を見つけてそこで一旦落ち着くことにした。何にせよ、帰るにしても海岸から鎌倉まで戻って帰宅するには、結構な時間歩くこととなる。何にせよ、芥川――龍一は何も食べていないだろうと踏んで最初にコンビニでお握りを買ってきておいたのだが、まさか思わずこれでぶん殴ることになるとは思わなかった。人間という生き物は、この野郎め! となった時に咄嗟にとる行動を制御できないものだと実感する。まあ、中にペットボトルの飲料が入っていたり、素手でぶん殴ってたりなどしてないぶん、まだ理性的には違いない。そう自分を慰めつつ、宗一も自分のお握りを手にした。
「直木、お握りの形がお握りじゃない……」
べそべそしながら、隣で龍一がぱりぱりとパッケージを外す音が聞こえた。あのコンビニエンスストアという店の形態も、売っている種類の豊富さもさることながら、このお握りの売り方を考えた者はすごいものだと思う。何せ、海苔を巻き立てのぱりぱりのままにとパッケージに創意工夫をこらしたのだから、その努力は称えられて然るべきだろう。龍一には鮭を渡した。奮発してちょっと高級な鮭と米を使ったと銘打ってある『こだわりおにぎり』シリーズ、らしい。自分はオーソドックスな昆布の具のものだ。昆布好きは死んでも治らなかったらしい。
隣でもそ、と食べている気配はする。正直目は慣れてきたものの、浜辺には灯りらしい灯りはない。手元を照らすために先刻スマートフォンの照明アプリを使用したが、充電切れされても困るのでずっと点けているわけにもいかない。ぱちん、と切れば再び砂浜は全て漆黒に沈んだ。ざん、という波の音だけが自分達の周りに満ちていく。
「なおき――いや、植村」
「なんや」
ぽそり、と呼ばれたので返事をすると、少し嬉しそうな声が続いた。
「大阪の言葉隠さなくなったね、嬉しいな」
「……今更かい」
改めて指摘されると、少々気恥ずかしいものがある。暗闇なので、平静を装うことは出来るが。
かつてのあの頃は、訛りが田舎者と揶揄されるような風潮だったから、皆なるべくそれを殺す方向だったのは確かだ。自分とて例外ではなく、寧ろ完璧に殺し過ぎて出身地が大阪とは思われないことも多かった。芥川と出会った頃はまだ完全に殺せていない時だったから、時々出てしまっていたのを言っているのだろう。
今は寧ろ方言の類は個性として扱われることの方が増えたという。なら別に無理に矯正することもないだろう、と素で話していたわけだが、そういえばこの男は自分のそういう言葉を何故か気に入っていたのを思い出した。だからこそ、気兼ねなく剣豪の話で他愛ないやりとりなどが出来たのかもしれないが。
そうだ。そういう、ただの遊び友達、言ってしまえば悪友のひとりだった筈である。こいつにはもっと、頼れる親友や仲間が沢山いた筈なのだ。助けて、と言えば彼等は絶対に共にあってくれただろうに。どうして。
「ちゅうか、何で俺なんや」
「うん?」
「他に、お前が信頼しとる奴は沢山おったろう。菊池や、久米、他にもわんさとおった筈やぞ。何で俺を呼んだ」
ざん、と波の音がすこし近くで跳ねた気がした。潮が満ちてきたのかも、しれない。もっとも満ちたところで岩は沈まないのは先刻照らした時に見た岩肌で確認済みだ。
龍一がこちらをじい、っと見ているのが伝わった。この男は、目を逸らすことを滅多にしない。滅多にしないから受け止めすぎて結局壊れてしまったのだ。少しは逸らせや、と思うが全くその気はないらしい。
「もっと話したかったんだ」
「は?」
思わぬ言葉に、目が点になった。
「遠慮なくモノが言えるって、いいものだよね。君は遠慮なく返してくるし、でも程々で負けてくれるでしょ」
「おもろいこと言うた方が勝ちやろあんなん」
思い出すのはかつての風景だ。田端の彼の部屋で、荒木又右衛門はさして強くないだのいいやなかなかのもんだよだの、言い合った記憶が蘇る。
『荒木又右衛門は世間様が信じてるような剣客じゃあない。講釈だと、伊賀の上野の鍵屋ヶ辻で三十六人斬って捨ててるということにはなってるが、実際は六人しか斬ってない』
『しかし、一人で六人も斬れたんだから大したもんじゃないか』
『ところが、敵方の供の下郎に木刀で後ろから叩き込まれた挙句、帯が切れてしまったときた。一流の剣客ともあろう者が下郎如きに後ろから打ち込まれるのはどうかと思うけどなァ』
この時、芥川はいやに物知り顔で笑って、こう言ったのである。
『君はそうは言うがね、相手が下郎だと知って又右衛門はわざと後ろに回らせたのかもしれないぜ? 木刀だって、刀じゃないと知っていたからこそ安心して打ち込ませた――という説は成り立たないかね』
正直、何を言っているんだお前は、とはなったが、その表情の得意げな調子が妙におかしかったし、新解釈もこの男だから弾き出せたのだと思ったら妙に可笑しくなってしまって、声の出ない笑いを漏らしてしまった。
確か傍から芥川を訪問して部屋に来た誰かが見ていたように思うが、この楽しかった感情は理解なんて出来やしないだろう。わかっているからこそ、面白い。こいつだから、笑ってしまう。
そういう相手だったのだ。芥川龍之介、という男は。
「皆で大阪で騒いだり、志賀さんの家に行ったりさ。色々したもんだけど、君といるのは楽しかったんだよね。まあ、何を書かれるかわかったもんじゃないから、ひやひやもしたけどね。文藝春秋のゴシップメイカーさん」
悪戯っ子が何かを企んでいるような、そんな笑みが浮かんでる気がした。しかしこいつが食わせものだということは、良く知っているのだ。本当に、どの口が言うんだか。
「は、大して怖いとも思ってへんくせに」
「そうだね、君、僕のこと好きだもんね」
「はあー? 随分な自信やなあオイ」
文藝春秋は、文豪達の様々なゴシップが記事となり、ものによっては非難もされたものである。そのゴシップ記事を手掛けていたのが直木三十五であった。
「ゴシップ記事はご贔屓さんには甘かったもの。ね?」
「別にィー? お前を贔屓してた覚えはないデスケドー?」
全く。引きずられかけて、何かを吹っ切ったのか。龍一はどこか楽しそうだ。
心配して損をしたのか。否、そうではないだろう。やっぱり迎えに来て正解だったのだろう。少なくとも、自分は迎えにきて引きずって帰れることに、ひどく安堵している。
――まあ、こいつの言うことは間違っちゃおらん、か。絶対頷いてなんかやらんが。
もしゃ、とお握りを齧りながら、そう心に決める。しかし、コンビニのお握りとやらは、便利だし不味くもないし寧ろクオリティは決して悪くはないのだが、どうも落ち着かない。咀嚼して呑み込みながら、やはり水分が欲しいと考えていると、横で龍一が話を再開する。
「生きるのが億劫だったけど、どうせ逃れられないってなったら、道連れは遠慮なく、他愛なく話せる人が良かったんだよ。それに、見捨てないでいてくれる優しい人が、ね」
だから、君を呼んだんだ。
真っ直ぐ見つめられて微笑まれると、非常に困る。身の置き所はないわ岩から逃げたくても下はちゃぷちゃぷ水の音がしていてまさに満潮まっさかりで動けないし、全くどうしてくれようか。本来なら人がいてはいけないのは百も承知だが、安全は確認してはいるから許しては欲しい。寧ろ危険以外の理由で逃げたいくらいではあるが。
闇が、少しだけ薄まってきつつある中で、宗一の様子をどう思ったのか。
あのね、と声が先に、繋がる。
「そういう植村は、どうして先に行ってなかったんだい?」
びくり。思い切り身体が跳ねたのが、バレた。
正直一番聞いて欲しくなかったのだが、この状況も、そして龍一も逃がす気は無いらしい。気が付けばシャツを掴まれていて、逃がさないという強い気持ちがびしびしに伝わってくる。ああ、くそ。なんてこった。
あんまり言いたくはなかった。特にこの男に知られるのは、何となく弱みを晒したようで。
だが、吐かないと延々聞き続けられそうだ。腹を括るしかないのかもしれない。
「……寂しくないから、そのままでもええかなって思った。それだけや」
ぽつ、と口にした言葉は、形になった途端にじく、と胃の奥で重く落ちる。
死ぬ時は、どんなに寂しかろうと、ひとりだ。死ぬ前の意識など殆どないに等しいが、ないからこそただただ死ぬまでを一人で待ち望んでいた。死ぬ気などなかったのに、身体が、頭が壊れていく。その感覚は、自分をひどく臆病にしたのだ。
「誰かおってくれたんやろけど、それこそ菊池とかな。でも、そんなんもようわからんなってた。それはとても、悲しいことや」
全てを終えてから、待っている間。あちこちを覗いた。大阪に戸籍があった直木の墓を多磨霊園に入れられないと知った菊池が、ならばと石碑を建てたこと。忘れさせまいと、芥川と共に文学賞の名として後世へ刻んだこと。命日には南国忌と称して皆が集まって、賑やかにしてくれていること。
時には遠くで、時にはそっと混じって、その空気に触れているだけで寂しくなかった。それで、満たされてしまった。
それは、皆がしる『直木三十五』ではないのだろう。しかし、今は誰も、今の自分を見ることなどない。だから、いいのだ。寂しいなら寂しいで、そこから動きたくないと駄々を捏ねるくらいさせてくれ――なんて。
「寂しゅうないなら、別に、先に行く必要あらへん」
「ねえ」
声が柔らかに、向けられる。少しずつ、潮が引き始め、そして空が明るみだしていた。だから、隣にいる男の表情が、そこで漸くはっきりと見えたのだ。
「僕、いいことを思いついたんだ。だから、大丈夫だよきっと」
ひどく、嬉しそうに、彼は笑う。
「なんや、それ」
「僕が頑張れて、君が寂しくなければいいんでしょ? 実現出来ればこれ以上ないくらいにハッピーエンドになると思うんだ」
「なんやねん、その名案っちゅうのは」
「んー。まだ内緒にしとく。でも今は少なくとも寂しくないでしょ? 僕も花ちゃんもいるし」
くん、とシャツを引っ張られる。うへへ、と妙に楽しそうに笑うものだから、まあ後でじっくり聞き出せばいいか、と思い直す。時間はあるのだ、少なくとも今すぐ尽きるわけではない。
それよりも、だ。
「……まあ、それはもう置いとくとしてやな。朝やぞ」
波が、橙の光をきらきらと、まとい始める。ゆっくり、空は青を取り戻し始め、周囲の輪郭が明瞭になっていく。
「お腹、すいたね」
「ほんまやぞ、こっから歩いて帰るんやからな」
「うわーやだー! 途中で力尽きそうー!」
「自業自得やろ付き合う身にもなれ」
すっく、と立ち上がるとシャツを掴んだまま、龍一も立ち上がった。
「帰んで」
「うん、花ちゃん待ってるよね」
「当たり前やろが阿呆。頭下げんやぞ。あと全部バレてるからな花には。覚悟しとき」
「うん……って、え? ま、待ってそれ何処まで」
「俺が花を家に一人で放っておくと思ったんかい。察しろ」
「え、え、え、え、茂吉さん? もしかして、茂吉さんなの? 嘘でしょ? ほんとに⁉」
岩から下りれば、砂が湿っている。宗一が着地した後で、待ってよねえ! よいしょぉ! と飛び降りる声が聞こえたが、今度は足を取られずに済んだようだった。その勢いのまま小走りに、前まで出るとくるり、と振り返られた。
「あー……余計謝らなきゃね、花ちゃんには、本当に」
だからね。そこで、何故かふふん、と妙に嬉しそうに、笑って。すい、と手を差しだしてくる。
「帰ろう、宗」
暫しの沈黙の後、思い切りべしり、とその手を叩いて早歩きで抜き返す。うわあひどい! 痛い! とぴゃんぴゃんわめくのも構わずにずかずかと帰路を急ぐ。
振り返らずとも、彼はちゃんと後を追いかけてくるのはわかっている。
悔しいけども、あいつは離れないのだ。そして自分も離れられないのだ、と。全く、酷い縁を結んだもんだ。本来の世話するべき面々に悪態を心の中で吐きながら、早く、早くと進む。
帰る場所が、あるのだ。
その道を、朝日が照らす。アスファルトに引かれた白い線が、やけに目に沁みた。
***
「おかえりなさいッ!」
戸の鍵を出そうとした瞬間。びしゃあん! と勢いよく引き戸は開かれた。全自動もそんな激しい開き方はしないだろう。そこには待ち構えていたかのような表情の花が、仁王立ちで二人を見上げていた。背後で、ひえ、という龍一の声が聞こえてくる。まあ、ちょっと、かなり、うんと、待たせてしまった。下手すると一睡もしていないかもしれない。お説教タイムかと内心身構えていた宗一のシャツをがしっと掴むと、花はその勢いのまま、一気に喋り始めた。
「あの! 大根の煮物作ったんです! めっちゃめちゃ味しみてます! あと、お味噌汁もわかめのにしたんです! あと、ええと、アジのなめろうでハンバーグ作るってのをテレビでやってたんで、作ってみたんです! レンチンしたらすぐに食べられるし、その、あの!」
「はーな」
むぐ、と手の平で口を塞ぐ。
「……待たせたわ。遅くなってしもて堪忍な」
「ッ、う」
ぱっと手を離して、ぽん、と頭を撫でてからすい、と横をすり抜け玄関に入る。
「ちゃんと謝りや――龍」
ひらひら、と手を軽く振ってから、靴を脱ぐ。そして、二人の様子を伺うことにした。
あう、と言葉に困りながらも、龍一はシャツの胸ポケットを探っているようだ。そしてそっと何かを取り出し、ほっとした表情になると、それを花の手のひらにそっと乗せた。
「これね、お土産なんだ。桜貝、ちょっと珍しい柄でしょ」
「りゅういちさん」
「ええとね……もう大丈夫」
それが何を示しているかなど、花には伝わっているに違いない。少し、緊張した固い声が聞こえてくる。
「色々隠しててごめんね。騙してたし、僕達のこともう嫌いになっちゃったかもしれないけど、その――ごめん」
深々と頭を下げて、一瞬の沈黙の後、花がぶんぶんぶん、と首がもげるかと思うような勢いで首を横に振った。
「嫌いになんかならないですよう……! 帰ってきてよかったああああああああああ!」
ぶわっと涙腺が大決壊したと同時に、思い切り龍一のシャツを引っ掴んだようだ。確か渡されたの桜貝だったから割れてないかと変な心配をしてしまったが、あの子のことだからそこはちゃんとポケットにしまい込むなりに違いない、と信じたい。
子どものように泣く花に共鳴するかのように、龍一の目がうる、と潤んだ。
「ご、ご、ごめんねえええ! もうぶって! ぶっていいよ! ばかってやって!」
「やだああ! ぶてないですよお! 帰ってきたからもういいんですうううううう!」
揃って玄関先で泣かれると、正直ご近所が怖い。覗き込まれたら何事かと思われそうだ。取り敢えず、ひと段落はついたのだし、後は入ってからゆっくりぴいぴいふたりで泣けばいい。
「あー……龍、花、シラス丼作るで。食うか?」
そう聞けば、ぴた、と泣き声が止まる。
「食べる!」
「食べます!」
そこだけは妙に元気が良く答えられて、思わず吹き出してしまった。
全く、なんていとおしい家族達か。
はよ中に入り。あとそこの家出息子は風呂に入れ。それだけ言うと、台所へと足を向ける。と、その前に、ひょこりと今を覗いて、宗一は呼び掛けた。
「斎藤、あんたも食っていき。鰻やなくてシラスやけどええやろ」
柱に凭れ掛かって舟を漕いでいた斎藤が、丸眼鏡の奥で驚きに目を丸くする。
「いいんですか?」
「世話もかけたしな。後どうせ寝てへんのやろ。皆この後爆睡や。寝ていき」
それだけ言うと、今度こそ台所へと入っていく。
ああ。
ただいま、日常。
宗一は、冷蔵庫を勢いよく、がばりと開いたのだった。
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