如月:かくもほろ苦きチョコレイト02
台所に入って、まず最初に行ったのは大き目のタッパーにラップを敷く作業だ。本来ならオーブンシートを使うべきなのだろうが、この家にはオーブンがないので当然それもある筈がなく、代用している。ラップは本当にいい奴だ、色んな所で頑張ってくれる。本当に偉い。普段の数十倍、花の脳内でラップは褒め称えられている。
「何でそのまま使わないの?」
「ここに溶かしたチョコを流し込むんですよ。固まったら取り出すのに、こうしておくとやりやすいんです」
へぇ、すごいねぇ。作業する花の邪魔にならないように気を配りながら、龍一はその一挙一動を見守っていた。視線は気になるが、目をきらっきらにして見守っているのを無碍に出来るわけもなく。
準備を済ますと、まずチョコレートを刻んでボウルへと入れていった。今回はビターとスイートを半々ずつ使っていく。かしかし刻み終わると、今度は小さな鍋に生クリームを開けて中火にかける。沸騰させてしまわないように、じっと鍋の中身を睨んでいると、ぽつ、ぽつ、と小さな泡が立ち始める。そこでばっと火から下ろして、刻んだチョコの入ったボウルの中へ一気に流し入れるのだ。
「ふわぁ、いい匂い。美味しそう」
ふにゃりと背後で笑みが蕩ける。まるでボウルの中のチョコのようで、この笑顔で何人の女子を沈めてきたのだろうと思わず考えてしまう。実際龍一はそれくらいには好青年であったし、実際そうなのだろう。ちょっと天然で危なっかしい気はするけど。否、気ではなく本当に天然だし危なっかしいけれども。そこがまた母性本能をくすぐる、のかもしれない。
見ると湯気が収まりつつあった。そこで一気にゴムベラで混ぜ合わせていく。チョコレートが生クリームと合わさってどんどん滑らかに、とろりとしてくる。完全にクリーム状になったところで、ラップを敷いたタッパーへと流し入れていった。とん、と数回タッパーを台に軽く打ち付けると、表面が平らになっていく。
粗熱を取って、あとは冷蔵庫に入れるだけ、という状態で、ふと思い立って花はくるり、と後ろに視線を向けた。
「龍一さん、チョコミルク、飲みます?」
「ちょこみるく?」
「ボールに残ってるチョコ勿体ないから、牛乳温めて溶かして飲んじゃおうかと思って」
「! 絶対美味しいやつだ! 飲む!」
ぱあっと表情が輝く。眩しい。超眩しい。そして又、ぶんぶん振られている尻尾の幻覚が見える。本当にこの人、わんこだなあと思いながら、花は先刻の鍋をさっと洗ってから牛乳を入れて、再び火にかけたのだった。
これを冷やして固めて、明日切り分けてココアをぱふぱふ掛ける。折角だしちゃんとラッピングして二人には渡してあげよう、などと考えながら。
マグカップにホットチョコを注いでいる辺りで、からから、と玄関から戸の音が聞こえてくる。
「あ、帰ってきたみたい」
龍一の声に反応して、花は一旦手を止めてぱたぱたと迎えへと向かう。廊下に出ると、玄関で後ろ手に戸を閉める宗一の姿が見えた。少々疲れているようにも、見える。
「おかえりなさい!」
声を掛けると、驚いたように目を見開いて此方を見る。何をそんなに驚いているのか、と首を傾げながら駆け寄ると、お、おう、と少し戸惑ったような声が聞こえてきた。
「……お迎え出てくれるんやな」
「え? そりゃそうですよ。同居してりゃ家族ですもの。家族が帰ってきたらおかえりなさいって言うもんじゃないです?」
花の家は少なくとも、それが定番であった。勿論そうでない家もあるだろうし、どうやら植村家はそういう家ではないようだった。少々挙動不審気味に、視線が彷徨うのを見てちょっと可愛いなこの人、と思ったのは内緒にしておこうと決める。
背後から、龍一がよせばいいのに「わー、宗さん照れてるぅ。かっわいいー!」とか派手に突っ込んで、なかなか良い音で叩かれたのは数秒後のことである。
疲れた時には甘いものを。
二人分で作っていたホットチョコを三人分に増やすことにする。薄まった分は練ったココアを足して、味を補うことにする。確か生クリームも残っていたし、少しとろりと入れてみようか。
かこん、とみっつ。マグカップが目の前に並べられたのだった。
***
文明は時間とともに目まぐるしく進んでいく。時にそれは素晴らしく、時に残酷に。
最初別部屋がいい、と客間を自分の部屋にしようと考えたが、家の中では明らかに異彩を放っている唯一の洋室であったし、ソファーなども入れたものの、天井の小さなシャンデリアがきらきら輝きすぎて、どうも落ち着かない。結局の所男二人同室という形に収まってはいるが、意外にも居心地は悪くない。今は瞬く硝子の群れを見上げながら、ちゅう、と紙パックの豆乳を飲みながら寛ぐばかりだ。
「風呂、空いたで」
「んー」
廊下から足音が此方に向かってきて、ひょこりと入口から見慣れた顔が覗き込む。風呂上がりの宗一は上げていた髪を下ろしているから、普段より少し印象が柔らかく感じる。少なくとも今は髪が薄くなっているわけでもあるまいし、撫で付ける必要はないんじゃないかと思うのだが、実際それを正直に口にしたら案の定というか、ぼこりと殴られたので以降は言わないことにした。
くしゃくしゃとタオルで乱暴に髪を拭きつつ、そこで飲んでいるものに気が付いたようだった。
「豆乳かい」
「すごいよねえ、豆から乳が出るとか」
「豆腐の元みたいなもんやろ、言い方、言い方!」
「あとね、牛乳が紙パックに入っててさ。それに、産地で種類がすごい沢山あるんだ。うちが牛乳屋の頃には考えられなかった状況だよ。今日、花ちゃんとスーパーに行ったんだけど、もう驚きの連続で」
「……芥川」
むすっとした表情で、すぐ傍まで歩いていくと半眼で見下される。
「ボロ出してへんやろな」
「何とかね」
彼が――直木が何を危惧しているか、理解はしている。しかし、バレたところで気にしなさそうな彼の方がそんな心配をしていることが面白くて、くすりと小さく笑うと、不機嫌そうに眉間の皺が深くなった。
「花ちゃん騙してることへの良心の呵責とやらに耐えられなくなったら、バラしちゃうかも」
「そんなタマか、お前が」
嗚呼、可哀想な人だ。こんな茶番に巻き込まれてしまって。
一年過ごそうがどうしようが、自分にその気が起きなければ無駄になるというのに。大体、指名されたからといって律儀にそんなものに付き合う必要などなかったのだ。人が食えない、飄々としている癖に。文藝春秋をゴシップで賑わせた手腕は、時として彼の周りを敵に溢れさせた。それでも彼を好きだと、慕う者達が絶えなかったのは本質が酷く優しく、愛らしく、そして本当は情に脆いということが文字から、人柄から垣間見えたからに違いない。
彼のようにあれれば、最後まで生きることを選択できたのだろうか。似てると言われながらも、対極である、この男に。
「……阿呆なこと言わんと、早よ風呂入れ」
「面倒くさいなあ」
「臭いと花に嫌われてまうぞ」
それはやだなあ、と笑って返して、じゅ、とパックの中身を一気に飲み干す。風呂は正直面倒だが、彼女に嫌われるのは少々困る。あの子は、まだ恋だの何だのというどろどろの感情が芽生える前の『彼女』に少し、似ているから。可愛らしくて、甘やかしたくなる人に。
ううん、と背伸びをして、ふと、口にする。
「ねえ、直木。あのさ」
「ん?」
入れ違いにソファーに座った彼に、問いかけそうになって。それを辛うじて呑み込む。聞いてどうする、どうにもならないことを今更。
こくり、と言葉は食道を伝い、胃に落ちていく。じゅ、と焦げるような音を立てて、消えていった。残るは微かな火傷に似た、痛みだ。
「……花ちゃん、前髪下ろしたほうが好みだと思うんだけど」
「まーた張り倒されたいんか?」
「えー……痛いのはやだなあ。お風呂、行ってくるよ」
むすっとした表情を視界の端に捉え、微笑を浮かべながら部屋を出る。戻ったら殴られるだろうか。いや、眠ってるかもしれない。自分と違って、眠れないなんてことはないのだろうから。
ねえ。
僕が死んだ時、君は。
泣いたのかな。少しは。
***
あふ、と欠伸をしながら花はデスクライトに手を伸ばす。部屋の片付けをふと始めたら、夜中になってしまった。本は大抵居間と客間にある本棚に収めたのだが、自分が度々見返すであろう本は自室の棚に入れようと思って、段ボールに入れたままにしていたのだ。大体、引っ越し早々に『彼等』がやってきたから、何だかんだで落ち着かない、慌ただしいままに月を跨いでしまったのだ。
「あー……読んでない本も多いな……」
箱から取り出したうちの一冊を手に取る。所謂『積ん読』というやつだが、この本はまさにここに住むことを母親に打診された日に買ったものだった。
名前が特徴的で、そういえばあんなに大きな賞の由来の名前なのに、どんなものを書いているのかも知らなかったし、何となく気になって古本屋で本棚を眺めていたら目に入った。黒に金の印刷、お洒落な装丁だったのと、ぱらぱらとページを捲れば、見知った名前を何人か見かけることができた。正直、時代小説は花には馴染みが薄かった。なら、随筆から読むのもありなのかもしれない。状態も良かったし、と気紛れもあって迎えた一冊だ。
「随筆なら読みやすいかなぁ……じゃあ、次はこれにしよっかなァ……」
上瞼と下瞼がくっつきそうな勢いで重くなる。眠気が限界値を越えそうだ、と花の指は明かりをぷつり、と消した。
テーブルの上に置いた本は、そのまま朝日を浴びることとなる。
うっすらと差し込む朝日に、題名が浮かび上がった。
『直木三十五随筆集』
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