ユメ 邂逅

如月 兎

ユメ 邂逅

 その男はきっと知っている。その女性はもう永遠に失われたのだと。そしてその面影を待ち続けるのなら、彼自身もまた、永遠に失われるのだろう。

 それは未来をひたむきに信じる男の美学か、あるいは遠い過去への醜い執着か。

 それは一人を想い続ける心の強さか、あるいは一人を忘れられない心の弱さか。


・・・


 人知れぬ山奥にも、新緑の鮮やかに彩る五月のはじめ。青年は一人、八尾の名のある滝を訪れていた。川倉不動滝と呼ばれるその滝は、木々に囲まれた岩壁を勢いよく流れ落ち、その手前には芸術的な草木を背負った荘厳な大岩が悠然と佇んでいる。滝つぼから少し離れた所には木のベンチが置かれており、青年はそのベンチに滝の方を向いて腰を下ろし、絶えず流れ落ちてくる清水の、勢いよく弾け舞う音に、ただ静寂の耳を傾けていた。時折顔を上げれば、深い木々の間から降る木漏れ日が眩しい。

 しばらく目を閉じていると、自分の左後ろ、ちょうど自分が歩いてきた道から、足音が聞こえてきた。足音はゆっくりと青年の前を通り過ぎ、やがてじゃりっという音と共に止まった。青年が目を開けると、そこには一人の小柄な老人の姿があった。岩の手前でじっと滝を見上げている。


 ああ、この老父も滝を眺めに来たのか。日課の散歩なのか、それとも遠くから観光でもしに来たんだろうか。


 老人は無言で立っていたが、しばらくすると大きなため息とともにゆっくりと振り向いた。青年の目に映った彼はひどく寂しそうな笑みを浮かべながら、青年を、いや、彼のことなどまるで見えていないかのように、どこか遠い目で青年のいる方向を見つめていた。

 二人はしばし無言のまま向き合う。されど不思議と青年に気まずさはなかった。まるで互いが同じ場所にいながら、その実、全然別の世界にいるような、そんな距離感だった。永遠にも続くかのように感じられたその均衡はしかし、はっと見開かれた老人の瞳によって突如崩された。先程までとは違い、老人の目の焦点ははっきりと青年に合わせられている。青年が老人の顔を見てから十数秒の後、ようやく二人は出会った。

 青年はもちろんこの老人のことなど知らない。しかしこの老人にはなぜか、妙な親しみというか、懐かしさのようなものを感じていた。老人も同じ何かを感じていたのだろうか、青年を見つめながらにっこりと微笑んだ。


 「久しぶり、は変かな。では、はじめまして。隣、いいかな」


 そう言って老人はゆっくりと木のベンチに近づき、青年の隣に腰を下ろした。他人と接するのを苦に感じることが多い青年だったが、今回だけは別だった。青年はこの不思議な雰囲気をまとった老人に既に惹かれつつあった。

 束の間の静寂をそっと押しのけるように青年が老人に声をかける。


 「はじめまして。いい天気ですね。地元の方でしょうか。それとも観光で」

 「本当にいい天気だ。地元ではないよ。僕はまあ少し遠い場所から来ていてね。観光というのも、少しニュアンスが違うかな」

 「そうでしたか。自分が言うのもなんですが、それでは、どうしてこんな辺鄙なところへ」

 「恥ずかしい話だが、実は物思いにふけに来たんだ」


 老人は右手で白髪をかきながら、言葉通り恥ずかしそうに笑った。青年には自分が妙にこの老人に惹かれる理由が何となく分かったような気がした。二人の心境は似ているのだ。他ならぬ青年自身もまた、物思いにふけるためにここまでやってきたのであった。青年の心に期待の火が灯る。それは誰とも分かち合えやしないと半ば諦めかけていたこの悩みを、大きな孤独を、この老人となら、あるいは分かち合えるのかもしれないという、例えるなら遠い異郷の地で故郷の同胞に巡り会えたような、そんな期待であった。


 「そうだったのですね。自分もなのです。気持ちが不安に押しつぶされそうでどうしようもなくなった時、ここで心を静めているのです。そう何度も来ているわけではないのですが、ここは本当に落ち着きます。もし差し支えなければ、あなたのお話を自分にお聞かせ願えないでしょうか」


 老人はしばらく黙っていたが、何か小さく呟いてから、いいだろうと笑って頷き、それからぽつりぽつりと語り始めた。


 「恋をしているんだ」


 老人の語りはその一言から始まった。青年は驚いた。しかしそれは決して、齢60は優に超えていそうな老父の口から「恋」などという甘酸っぱい言葉が飛び出したからではない。良くも悪くも青年はこれはこうあるべきだといった固定観念は持ち合わせていなかった。青年が驚いたのは、ひとえに老人の語ろうとしているテーマが、青年自身がここにいる理由と全く同じだったからである。気づけば青年は身を乗り出すような心構えで、老人の声に熱く耳を傾けていた。


 「僕には恋人がいてね。彼女とは本当に気が合い、まさに最愛の人だった。しかし、二人の時間がなかなか合わなかったことや、僕が幼すぎたのもあったんだろうね。彼女の心は次第に僕から離れていった。直接言葉にされたことはなかったけど、彼女のさりげない言動や態度、それから文のやり取りもしていたんだが、その文面からもその冷めゆく心情は容易に想像できた。そしてとうとう、まあ必然と言ってしまえばその通りなのかもしれないが、僕たちは別れることになったんだ。」


 青年はますます目を丸くした。老人の辿った道は青年のそれととてもよく似ていたのである。もちろん深堀りすれば細かい違いはあっただろう。例えば青年はまだ彼女と別れてはおらず、その瀬戸際で思い悩んでいた。しかしながら、愛が失われていく過程や、文のやり取りをしていることさえ、青年と老人は同じだった。老人は言葉を続ける。


 「それでもね、彼女は言ったんだ。これからもずっと友達でいようねと。文のやり取りだって続けようと。そして時間が合うときには、また一緒に山里を訪れて清流を眺めようとね。その言葉に僕は本当に救われたんだ。もしもう二度と会えないなんて言われてしまったらきっと僕は絶望に打ち拉がれていただろう。だけどまだ希望は残されている。僕たちは何一つ諦めなくていいんだ。」


 青年は大きく相槌を打った。青年のこの頃の日常は悲惨だった。会いたい人に会えない日々の中でただひたすらに自問自答が繰り返されていく。自分の在り方はどうだったのか、どうするべきなのか、相手は今どんな気持ちでいるのか、これから二人はどうなっていくのか。不安、恐怖、怒り、後悔、諦め、開き直り、許容、そしてふいに湧き戻る絶望。様々な感情と思考の波が彼を襲っていた。

 そして今まさにその荒波の中で必死になにかに縋り付かんとする青年にとって、老人の愛したその女性が口にした言葉の価値やそれを聞いた老人の気持ちは痛いほどよく分かったのである。


 「その方はきっと優しい方なのでしょうね。それで、今もその方との文のやり取りは続いているのでしょうか」

 「ああ、もちろんだとも。今は次にいつ会えるか、その返事の文を心待ちにしているところなんだよ。最近は少し遅れ気味だが、まあ、それを待つのもようやく心地いいと思えるようになってきたかな」


 老人は照れくさそうに笑った。その純真無垢な笑顔に青年は羨ましくも微笑ましい気持ちになった。


 「それは素敵なことですね。実は自分にも恋人がいて、それが今別れるかどうかの非常に危なっかしい局面に立たされていまして、いや、こちらとしてはここからまたやり直したい、今度こそ彼女を幸せにしたいと意気込んでいるのですが、何分、送った文もろくに返事が来ないような有様で、それで、気分を紛らわすためにこうして一人滝を眺めに来たのです。ここには人もほとんど来ないし、自然の中で自分の時間を過ごすには本当に良い場所ですから。それにしてもあなたの話を聞いていると、境遇こそ自分と似てはいますが、真っ暗な場所に取り残されている自分と違い、あなたはちゃんと光に照らされているように思えます。あなたは物思いにふけに来たとおっしゃいましたが、それは自分が考えているよりもずっと明るいものではないでしょうか」

 「言われてみればたしかにそうかも知れない。最初は君のように返事が来ないことを嘆いたり、自分の過去の言動を悔やんだりばかりしていたが、最近は文を心待ちにしたり、会ったときに何を話そうか考えたり、なるほど、君の言う通りだ。物思いにふけに来ていたつもりが、気づけば明るいことばかり考えるようになっていたようだ」


そう言って老人はまた幸せそうに笑った。青年も笑った。二人の笑い声が滝の流れ落ちる音と混じり合い、深い山の静寂を彩る。笑いながら青年は悟った。やはり自分の悩みや孤独を分かち合うことはできないと。それを為すには、この老人はあまりにも明るい場所にいると。それでも落胆の感情は微塵もなかった。それどころか、青年の心には新しい光さえ灯っていた。この先、たとえどんな未来につながろうとも、きっと笑っていられる。そんな明るい未来になる、と。

老人は微笑みをたたえたまま、ふいに青年に聞いた。


 「そういえば君も恋人と文のやり取りをしているんだったね。返事が来ないことを気にしているようだったが、どれくらい待っているんだい?」

 「もう半月余り届かないのです。お恥ずかしながら、あなたのように心待ちにできるほどの余裕はまだなくて。でもそれじゃあ駄目なんですよね。彼女もきっと迷っている。それなら信じてあげなきゃ。僕は彼女を愛しているし、最後まで愛し抜くと決めたのですから」


 青年は右手で頭をかきながら、笑って答えた。それから自然な、水が上から下に落ちるのと同じくらい自然な流れで老人に聞き返した。


 「あなたは一体どのくらいその女性からの返事を待っているのですか」


 老人は変わらぬ笑みのまま、何気なく答えた。


 「僕が前に手紙を送ったのはたしか20の後半だったから、かれこれ40年ほどかな」


・・・


 人知れぬ山奥の鮮やかに彩る新緑のもとで、老父は一人、古びた木製のベンチに腰掛けて微笑んでいる。懐かしい隣人はもうどこにもいない。ただ滝の轟きのみが、いつまでもいつまでも老人を包み込んでいるのであった。

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