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メグ
俺と歯医者デビュー【1】
「歯医者なんて行かないもん」
もう何度目かになるやりとりに、俺は思わずため息をついた。
六歳になる俺の娘、彩香は、居間のソファーの上でふくれ面をしてクマのぬいぐるみを抱きしめている。
実家から徒歩十分とかからない築十年の2LDKのアパートは、大人一人と小さな子どもが住むには広い。それでも二人掛けの食卓に併設するように、ソファーとテレビを置けば、少し手狭だ。ソファーは彩香のお気に入りで、気に入らないことがあれば、その上で膝を抱えて不貞腐れることが定番になりつつある。そしてそうなれば、てこでも動かないのはすでに学習済みだ。
だからといってこのまま放っておくわけにもいかないんだよな。
俺は彩香がもらってきた学校の歯科検診の用紙を思い出した。あれには御丁寧に、歯医者で証明の印鑑をもらう欄がある。歯科医院を受診した証明を、学校に提出しなければならない。
明日は土曜日。宅配業者に勤める俺の休みは、シフトの都合で不規則である。今回はたまたまそれが彩香の休みと重なり、俺は迷わずその日に予約を入れた。しかし彩香は、先程から「歯医者には行かない」の一点張りだ。夕食後の機嫌がよい時間を選んだにも関わらず、これではため息もつきたくなるというものだ。
「なんでそんなに嫌がるんだよ」
「まえに行った時、すんごくこわかったもん」
涙を堪えるようにぬいぐるみに顔をうずめてしまえば、肩先まで伸びた髪が輪郭を覆い、彩香の表情はうかがい知れなくなってしまう。
それほどまでに嫌なのか。そういえば三歳児健診でも歯科受診を進められた時があったんだっけ。あの時は、お袋に頼んだはずだ。
その時のお袋の言葉を思い出す。いい子に治療できたって言っていたのは嘘だったのかよ。でもこういう状況じゃ、またお袋に頼むわけにもいかないよな。母親がいればもっとうまく対処してくれるんだろうけど。だが残念なことに、俺はその選択肢を持ち合わせていない。
「ああ、もう!」
なんで死んじまったんだよ、優香。
俺は首から下げた二つの指輪に手を当てた。やり場のない怒りとも悲しみともつかない
感情が心を満たしている。俺の叫び声を聞いた彩香は、恐る恐るその顔をあげた。そしてどうやら俺のその感情は彩香にも伝わってしまったらしい。彩香の腕のなかでさらにきつく抱きしめられたクマのぬいぐるみは、いたく苦しそうだ。
「パパ……」
「彩香を怒ったわけじゃないよ」
この感情の大部分は、失ってしまった優香と不甲斐ない俺自身に対するやる瀬なさだ。彩香は悪くない。彩香の方こそ俺に対して怒ってもいいくらいだ。だけど彩香は、そのことで決して俺を責めたりしない。その事実がさらに俺の劣等感を刺激した。
「パパ、悪い子の彩香が嫌いになった?」
「いんや」
「じゃあ、悲しいの?」
心配そうに見つめ彩香の瞳がそこにある。
「彩香はやさしいな」
「彩香はパパが悲しいのは嫌だよ」
ああ、もう、ほんとに俺はこんな小さな娘に心配させて何やってるかな。
くしゃりと額に手をやって、そのまま上を向く。自分は今どんな表情をしているのだろう。たぶんきっと情けない。何かが込み上げてくるのを懸命にやり過ごして、俺は彩香に向き直った。
「パパも彩香が悲しいのは嫌だよ」
「一緒だね」
「そうだな」
彩香と顔を付き合わせて笑い合う。ひとしきり笑うと、先程までの鬱々とした気持ちは晴れていた。俺も彩香と同じ思いだからこそ、俺には果たさなければならない父親の義務がある。それを決して放棄するわけにはいかないのだ。
「なあ、彩香、パパと一緒に歯医者さん行こう?」
彩香は困ったように俺を見た。
「パパと?」
「そう。パパは歯が痛くなって悲しむ彩香を見たくない」
ちょっとずるいやり方だけど、他にいい方法が思いつかなかった。だがその言葉に嘘はない。それでもほんの少しの後ろめたさがあって、俺は「それに」と言葉をつけ加えた。
「彩香がちゃんと治療受けたら、彩香のお願いを一つだけ聞いてあげるよ」
「ほんとっ!」
迷いのあった彩香の表情が瞬時に輝く。その表情を見てしまえば、後ろめたさも吹き飛んでしまうのだから、現金なものだ。
「ああ、ただし、治療が必要な歯を全部治したらだからな」
結局俺は彩香には勝てない。俺はいつも、そう思わざるを得ないのだ。
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