第3話

  人間は救いがたいほど愚かだと、蔑んだ双眸で歴史を眺める。


 幾ら彼女がこの世界の女神であっても、何故その愛は無償だと思えるのか。












【3】












 「アシュリー様、そろそろ淑女としてのお勉強を始めましょう。本邸の図書室までご案内いたします」


 身支度を終え、朝食を済ませたアシュリーへの優しい提案に頷く。感情を現すことのない彼女の口許が微かに綻んでいるのを見て、メイアはほっとして微笑んだ。


 本来なら貴族の令嬢として淑女教育を施されるのが通常なのに、いない者として扱われている今は亡い敬愛していた主の忘れ形見が不憫で仕方ない。その想いの深さよりも更に深い憎しみをメイアはずっと抱き続けている。


 ───最愛の妻の命を奪って産まれたと思い込み、こんな朽ちかけた別館へ放置して一度も顔を見せない表面上の主、アルド公爵閣下のことを。


 脳内で何度殺したかわからない。


 何度呪いの言葉を吐いたかわからない。


 本来なら沢山の愛情を受けて育てられれば、彼女はこんな無感情に育つこともなかっただろうに、と思えば、唯一の肉親である公爵の憎しみと己の不甲斐なさに唇を噛んだ。




「ママ、行かないの?」




 はっと我に返り、メアリは彼女の髪をそっと撫でる。数えきれないほど繰り返した憎しみの渦に飲み込まれていたようだ。そっとメアリのお仕着せのスカートを握る小さな手が愛おしい。




「申し訳ございません。アシュリー様、僭越ながら私は語学には自信がございますので、一通り本が読めるようにお教えいたしますね。さぁ、参りましょうか」




 手を引いて歩きだせば、彼女は大人しく着いてくる。


 今この時間なら公爵閣下は仕事で王宮へと登城しているはずだ。五歳違いの嫡男であるインガルは、二年前から王立学園の寮に入っているため、本館に残っているのは古参の使用人ばかり。


 全員ではないにしろ、ほとんどが亡き公爵夫人を慕っていた者ばかりなため、アシュリーを不憫に思いあの日から今日まで陰ながら助けてくれている為に図書室へ連れていき本を選ぶ時間くらいはあるはずだとメリアは計画していた。


 別館の裏口から出て、本館へと向かっていく景色は森のようで、季節を彩る花々を彼女に見せられないのが残念だ。帰りに窓から見せられるだろうか、と思いながら視線を向ければ、人形のような整った無表情の中に仄かな喜びを見つけられて思わず微笑んだ。




「今日は語学の本数冊と…建国史を借りましょうか?」




 声をかければ、少しそわそわと目線だけで周囲を見ていたらしい鮮やかな緋色が向けられて。




「建国史はいいわ。遺された歴史は真実ではないもの…」




 ぽつり、と。


 寂しそうなか細い声に、メアリは内心首を傾げた。何度かこの国の歴史を寝物語に語ったことはあるが、建国史に書かれているような本格的な話は出来ないし、この国の民であるならば記された歴史は真実でなければいけないのだ。きちんとした教育もされていない、自分以外に吹き込むような人間と接触する機会すらない彼女は何故そのように言うのだろうか。


 不安のような、言葉にならない感情が胸に過る。


 問いたいのに何故かそれを憚れるものを感じて、曖昧に頷くに留めた。










 別館とは比べ物にならない本館の裏口から入り、無駄に長い廊下を渡ると瀟洒な玄関ホールへと出る。中央階段より二階に上がったところに立派な額縁に飾られた姿絵の前で足を止めて膝を折って彼女の両肩にそっと掌を乗せて小さな声で説明した。




「アシュリー様、この方がお嬢様の母君───エヴェリン様ですよ」




 十年ぶりに見たその嫋やかな美しく穏やかな笑みを浮かべる姿に、メアリの心に懐かしさと癒え切らぬ心の痛みに声音が滲む。


 お仕えした日々は本当に幸せだった。


 これ以上ない、できた主人であった。


 そんな公爵夫人を看取り、侍女に託したアシュリーを数多の協力を得ながらもここまで育った姿を見せられたことに胸にこみあげる想いがあった。心残りは、その腕にアシュリーを抱かせて差し上げられなかったことだ。




 …エヴェリン様、アシュリー様はこんなにもお可愛らしくお育ちになりましたよ。




 記憶の中のエヴェリンにそう心で呟いた時、黙って肖像画を見上げていた彼女がメアリの顔を覗き込んで。




「ママもお母様が死んでしまったのは、わたくしのせいだと思う?」




「そ…そんなわけございません!アシュリー様は母君を大変大事に育てておられました!」




 傍で見守っていたからこそ判る、公爵夫人の彼女への愛情は本物だった。いつも膨らんでいくお腹を撫でながら、『貴方が男の子でも女の子でも、ずっと愛しているわ』と優しく語りかけていた姿を知っているからこそ、本当の親からの愛情を得られない彼女に誤解されたくも、これ以上傷ついてほしくもなかった。


 その時。




「そこで何をしている」




 低い、不機嫌そうな声に、メアリは身を強張らせた。


 何故まだ屋敷にいるのだろう。とうに登城しているのではなかったのか。まさか一番鉢合わせさせたくない人物に見つかってしまったことに冷たい汗を背中に感じながら視線を向ければ、最後に見た時よりも窶れ、過ぎた年月を思わせる老いを感じさせるアルド公爵が睥睨していた。


 まるで氷のように冷たい双眸はアシュリーに向けられていることに危機感を覚え、彼女を庇いながらメアリは忸怩たる思いを抱えつつ深く頭を下げた時。




「貴方は…どなたかしら?」




 アシュリーは張り詰めた空気も、押しつぶさんばかりの威圧感も無視して首をかしげて公爵を見上げて言い放つ。怜悧な双眸を瞠り、開きかけた唇を引き結んだ。


 見捨てたにせよ、愛した妻の遺した我が子からの思いもよらぬ言葉に、公爵は立ち竦んでいるように見えてメアリは見えないように頭を下げながら口許に嘲笑が浮かぶ。




 ───ざまぁみろ。




「アシュリー様、図書館へまいりましょう」




 メアリは彼女の意識を向けさせ、殊更優しく話しかけると初めて見た男のことなど興味もないように頷いて手を引かれて廊下を歩きだした。


 あの様子では、普通の幼子として威圧的に傷つけようとしたかもしれない。まるで政敵にするかのように。だが、アシュリーは同年代の令嬢とは違う。


 親であるくせにそれすらも知らず、実の娘に認識すらされていない父親である男の表情を思い出しては暫く笑いが止まらなかった。


















 


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