第2話
古から伝わる神々の時代から、人の営みを見守る美しい女神。
愚かで、粗暴で、残酷で、綺麗なものだけではないその中にある確かな愛を愛しんでいたのに。
女神は緩やかに倦んでいってしまった───。
【2】
彼女は十年前、ウォルツタント帝国アインホルン公爵家の長女として生を受けた。
当時奥様付きの侍女であったメイアは、産気づいた公爵夫人であるエヴェリンの世話をしながら不安に何度も唇を嚙む。陣痛に苦しむエヴェリンの汗を拭き、頃合いを見計らって水分を摂らせ、新しいタオルを取りに行ったり、落ち着かない感情を振り払うようにひたすら動き回った。
エヴェリンは元からあまり体が丈夫ではなかった。
五年前に長男であるインガルが産まれ、愛妻家であるアルド・フォン・アインホルン公爵は次の子を望むようなことはしなかった。しかし、時を経て宿った命を祝福するもののエヴェリンの体が出産に耐えられるかどうか、と医師に告げられた。アルドは何度も諦めるように説得したが、エヴェリンは頑なにそれを拒んだ。
───どうか産ませて。せっかく女神さまが授けてくださったのですから。
悪阻で食事も受け付けず、血の気のない面は痛々しくもあったが、たおやかに微笑むその姿には凛とした強さがあった。
おっとりとした、優しい女性。白に近いプラチナブロンドは美しく、翡翠の眸はまるで陽光に透ける新緑の木々を髣髴とさせる鮮やかさ。小さな唇は常に周囲を和ませるような微笑みを浮かべた可愛らしい女性。そんなエヴェリンを心から愛していたヒルドブランドは、どうしてもまだ見ぬ子よりも妻を惜しんだ。
『頼むから、諦めてほしい。私たちにはイングがいるのだから。君にもしものことがあったら私は───』
日毎、夜毎、悲痛な面持ちで少しずつ痩せていくエヴェリンに懇願するその言葉はまるで呪詛のようだった。所詮産むのは女性であり、日々育っていくのを感じることのできない男の身としては目先のことに囚われてしまうのは仕方ないとしても。
『ごめんなさい』
淡く笑んで、エヴェリンは宝物のごとく育っていく命を守り、今日を迎えた。
メイアの不安は仕えるエヴェリンが母子ともに無事に出産を終えられるか、産まれたその新しい命をアルドが長子のインガルと同じように愛情を注いでくれるかどうかだった。幾度も話し合われた夫婦の話し合いは平行線を辿り、堕胎ができない月以降からアルドはエヴェリンから距離を取るようになってしまったからだ。
愛する妻の命と、愛の結晶である赤子の命。
主人がどれほど懊悩したのか、仕えている者たちには解っている。
解ってはいても、誰にも口を挟める問題ではない。
愛する妻の余命宣告にも似た月日は過ぎていくのに、顔を合わせるたびに繰り言しか紡げない関係からアルドは逃げたのだ。
昨夜から降り続く雨足は強くなるばかり。
窓打つ雨音に紛れるように、長い時間の果てに弱々しい産声が上がった。
「───奥様!無事お生まれになりましたよ!愛らしいご息女です!」
赤子を取り上げた年嵩の侍女の一声に、張り詰めた空気が歓喜に変わる。祈るように見守っていた侍女たちはそれぞれが涙を滲ませる中、産湯を済ませた子を柔らかなタオルに包んで、疲労からか血の気のない虚ろなエヴェリンに見せた時。
「…ああ、女神様のような子ね…なんて可愛らしい…」
まるで花が綻ぶような、それは美しい笑顔を浮かべた。
───その数日後、エヴェリンは神の許へと召された。
それから十年、アルド公爵は一度も彼女に会っていない。
理由は、エヴェリンの命を奪って産まれたことと、澄んだ紅い眸が両親に似ていなかったから。
名前は命の灯を絞らせていくエヴェリンが侍女に伝え、「アシュリー」と名付けられた。
エヴェリン亡き後、追いやるように敷地の奥にある朽ちかけの別館へと移された。当時まだ十八歳だったメイアが未婚でありながら彼女の乳母として名乗りを上げたのは、偏に仕えていたエヴェリンへの想いからだった。
メイアは没落した男爵家の次女で、婚姻する前のエヴェリンと面識があった。実家であるマイヤー伯爵家とメイアの実家であるシュミット家は家格差はあるものの、遠い縁戚筋で家業の関係で交流があったからだ。
初めての出会いは幼すぎて覚えてはいないけれど、物心ついてからは姉のように慕い、よく面倒を看てくれた。その延長線でシュミット家が破産し没落した際に嫁ぎ先のアインホルン家の侍女として雇ってくれるようにしてくれた恩は死ぬまで忘れないだろう。
だが、調度品や家具など揃ってはいるものの、乳飲み子と未婚の乳母だけでの生活基盤を整えるまで、苦労は並大抵ではなかった。昔の友人に頼みこんで母乳を分けてもらっていたが、住み込んでもらうわけにもいかず間繋ぎに与えられる限界が山羊の乳だった。
自身の食事に関しては厨房のシェフが余った材料を持ってきてくれたので、こっそりと教えられた料理の基礎から長い時間をかけて彼女の食育が始まるまでに研究を重ねた。
メイアは、腕の中で眠る彼女を心から愛しんだ。
亡き母の命を奪った子供という認識ではなく、愛されて生まれてきたのだと。
そして、淑女でありながら身一つで生活する術を身につけさせようと。
この子を立派な淑女に育て、惜しみない愛情を注げば簡単に見捨てた父親など必要ない。
どんな未来が待っていても、最後には必ず幸せになってくれるならこの身など幾らでも捧げてみせる、と───。
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