第32話
「それではお
宴もたけなわではございますが、との口上で
「柾木様、それではお部屋までお送りいたします」
するりと玲子は
「ありがとうございます、いつもすみません」
「いいえ。
「え?あ、はい、そうですが」
「では、もしよろしければ、明日もご一緒して頂けませんでしょうか?実は先ほど、
それは、柾木も横で聞こえてはいた。自分の容姿のこともあり、人混みを避ける傾向の強い玲子に対し、妙案がある、と言って環と
「三が日はもう過ぎておりますが、まだご近所の七福神巡りは出来るから、ついでに甘味処にも寄ってと誘われまして。私、大変楽しみですの」
話によれば、
仕事上はお得意様である井ノ頭邸への行き帰りで多少はその付近の土地勘がある柾木は、そんな事を思い出し、玲子に告げる。
「じゃあ、ついでに菊子さんの所もご挨拶に寄りませんか?正直俺、エータの状態も気になりますし」
「まあ、ええ、そうですね。是非そういたしましょう」
玲子は目を輝かせる。それは、ベール越しであっても、柾木には文字通り目に見えるようだった。
「お姫さま、僭越ながら、この時田、一つ提案がございます」
その玲子に、玲子のもう一人の侍従、ガリクソン時田が耳打ちする。柾木にも聞こえよがしに。
「明日もご一緒されるとなりますと、柾木様の送り迎えだけでもそれなりの時間がかかります。ここは一つ、柾木様には今宵、西条の家にお泊まり頂いてはいかがでしょうか?」
「まあ!それは名案です!早速
「は、かしこまりまして」
「いや待って!」
流れるように、柾木の意思を無視して事を運ぼうとする主人と侍従に、柾木は抵抗を試みる。
「そんな、ご迷惑ですし、俺何も用意してませんし!」
「迷惑だなどととんでも御座いません、遠慮はなさらないで下さいまし。お着替えも用意してございましてよ?」
花のように微笑み、余りにも当たり前のように切り返す玲子と、柾木の抵抗をそよ風ほども感じていなさそうな時田の様子から、柾木は一つの仮説を思いつく。
これは、狐と蛇を味方につけた玲子による、事前に準備されていたシナリオである、と。そして、そこから得られる結論として、柾木は「はい」と答える以外の道は残されていなかった。
「それでは皆さん、お気を付けて……あ、そうだ信仁さん、あの……」
スナック「
「はい?なんでしょう?」
間髪入れずに振り向いた信仁に、ちょっとだけ言いにくそうにした五月が、思い切って切り出す。
「……もしよろしければ、師匠、いえ母の事、今度教えてもらえませんか?」
「ああ……俺は構いませんけど、キッツイ話になるでしょうし、そもそもどれくらい正確に思い出せるかは……それで良ければ」
「奴」の記憶の、時間が経っているそれは、加速度的に鮮明度を失っている。そして、「奴」の記憶の大半は見るに堪えないものなので、いかに信仁と言えど普段あえてそれを見ようとはしていない。従って、目的の記憶がどの程度まで綺麗に残っているかは、見てみないと分からない。それでいいかと問うた信仁に、五月も、即答する。
「はい、構いません。じゃあ、都合の良い時に連絡下さいます?」
言いながら、五月はハンドバッグから名刺を取り出し、可愛らしい細身のピンクのボールペンで
「これ、プライベートの方なんで。ラインでくれると助かります……あれ?」
バー「
「……五月、あんた、そういうとこ」
「……話の流れとか、わかっちゃいますけど。目の前でこういう事されると、流石に……あんたも鼻の下伸ばさない!」
「いってぇ!」
引きつった笑顔で言いながら信仁の手から名刺を取り上げた
「……玲子さん、お分かり頂けたでしょうか……」
「はい、皆さんがおっしゃっていた事、ストンと腑に落ちました」
数歩離れたところからそのやりとりを目を点にして見ていた柾木の問いに、玲子も大きく頷いて答える。声に抑揚がない。
「ちょっと、玲子さん」
玲子にまで退かれて、五月は慌てる。
「五月様、どうか少しお控え下さいまし」
「え、そんな冷静に言われるほど?」
「そうですよ五月さん、いずれ『鬼の酒井』がキレます、はい」
多少アルコールで口が軽くなっている蒲田が、五月をダシに酒井の渾名を披露する。
「いや待て蒲田君、別に俺そんな、これくらいでキレないぞ。いやそれより『鬼の酒井』って何だ?」
「はい。先日の取り調べ以降あちこちで、関係の所轄で噂です、はい」
「え?」
先日の
「……俺、そんなおっかないか?」
「僕は全然そうは思わないですが、はい」
いやいやいやいや。酒井が
「はいはい、名残惜しむのはそれくらいにして、とっとと帰っとくれ。終電ももうなくなるし、あたしゃこれから片付けがあるんだよ」
隼子が、一同を追い出しにかかる。終電が無くなる事を心配しつつもそうは聞こえない口の悪さは、名字の通りの江戸は本所吾妻橋界隈の暮らしが長かったせいだろう。
「ああ、五月も今日はもうお帰り。酒井の旦那、しっかり送り届けとくれよ?」
「はい、それはもう」
隼子に強く言われ、酒井は請け合う。家まで送っていく、その場のほぼ全員はそう理解するが、その「家」が隣同士である事を知っているのは蒲田だけである。
そして一同は、三々五々に散ってゆく。各々親友と、肉親と、あるいは恋人と一緒に。
そして蒲田は、挨拶して皆と別れた後、ただ一人、中央線で八王子に向かう。
「わかってはいますが……やはり、寂しいですね、はい、独りは……」
車窓から、明かりの減った外の景色を眺めるその丸眼鏡の奥の視線からは、しかし、蒲田の思いは読めなかった。
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