第26話
「父さん、が?え?何?」
話が戻った事は、頭に血が上ったあたしでも理解出来た。でも、言っていることは分からない。
「だから。
「どういう事?なんで知ってるの?」
「いや、俺が聞きたい……姐さんまさか、どうやったか知らない?」
「……知らないわよ。知ってるわけないじゃない!」
「……親父さんの名前、
混乱している上にそもそも頭に血が上ってるあたしは、どんな顔したらいいのか解らないけど、父さんと母さんの名前については、頷かざるを得ない。
「分かった……姐さん、大事な話がある」
「……何よ」
完璧にいつもの調子に戻った、どころかいつも以上に冷静に言った信仁に、あたしは、不機嫌極まりない声で答えた。感情の整理がついていない上に、あたしが知らないことがいっぱいあるという不快感。何より、信仁がスパッと切り替えて冷静になってるのが腹立たしい。
「なんて言うべきか……とにかく大事な話っす。だから姐さん、頼むから逃げないで聞いて下さい」
「……わかった」
口調も、いつもの信仁のに戻ってる。つまり、感情的になるような話じゃないって事か、あたしもそう理解して、これは聞くべきだと、聞いておかないといけないと感じ、必死に頭を切替えようとした。
「
ソファに並んで座り、深呼吸してからだしぬけに言った信仁のその一言で、そこに出てきた姫の名前を聞いて、あたしは、心臓が口から飛び出すくらい驚いた。
「な……なんで……?」
それ以上言えないあたしに、頷いて、信仁が教えてくれた。
「俺の中に、「奴」の記憶が、残ってるんです」
「……え?」
あたしは、その一言が、瞬時には理解出来なかった。
しばらくして、徐々に、その内容と、それが意味する深刻さが、分かってくる。
「……待って、「奴」は……」
「意識みたいなものは感じないけど、痕跡というか、「奴」の抜け殻的なもの?そいつが、残ってるんです、俺の中のどっかに」
ぞくりと、その怖さがあたしの中に染み込んでくる。「奴」は消滅していない可能性がある、それは、恐ろしい。潰す好機が去った今、隙を見て改めて反撃されたら太刀打ち出来るかどうか、怪しい。
「ま、残ってるそれが悪さしないかどうかは、そのうちに
さらっと、信仁は知らないはずの情報ベースの一言を口にする。
「……こういうのも、「奴」の記憶です」
肩をすくめて、信仁が問われる前に答える。きっと、あたしは凄い目つきで見ていたんだろう。
「大丈夫なのあんた、「奴」が残ってるって……」
「大丈夫だとは思います。「奴」が生きてる気配はない、と思う。さっきも言ったけど、恐怖で廃人、っていうか完璧に自閉しちゃってる感じですかね、生きてるとか、自我があるとか言えないレベルって感じです」
信仁は、そうあたしに説明する。
「そう……なら、いいんだけど……」
「ま、何かあったら困るから、姐さん一生俺の隣で見てて下さい」
「やめて、そういうふざけ方」
「……ごめんなさい……でも、「奴」の記憶の一部が見えるってのは本当です。これが「奴」の仕掛けって事もあり得るけど、「奴」にとって情報ダダ漏れで不利になりすぎるから、可能性としては考えなくて良いんじゃないかって思います。トラップだとしても、「奴」にとってリスクが大きすぎる気がするんで」
「そういうもの?」
「トラップだとしたら、こんな事を俺が姐さんに言うのをほっとくとは思えないし。だから、多分大丈夫です。で、俺、「奴」目線で、姐さんの御両親がどうなったか、何をされたか、知っちゃったんです……とんでもねぇ置き土産っすよ、「奴」目線っすからね、見るに堪えなくてざっとしか見てないですが……」
そう言って、信仁は肩をすくめる。
あたしは、ため息をつく。
「……そう……あたし達の事、全部知っちゃってるんだ」
「「奴」目線だから、全部じゃあねぇすけどね、だから、例えば掟って奴の中身も知らねえ、「奴」がそこに興味持ってなかったらしいんで。ただ、姐さんの親父さんが人狼じゃないってのは、「奴」もそう認識してるし、実際あの時……」
信仁は、そこから先の言葉を濁す。きっと信仁には、父さんと母さんの死に様が見えているんだ、「奴」の記憶として。
「……今は、聞きたくない」
あたしは、信仁が言わなかった言葉の先を想像して、言った。
今聞くのは、単純に耐えられないし、多分、その絵面に信仁の顔が重なっちゃうだろうから。
「……とにかく。話戻すと、普通の人間である姐さんの親父さんは、どうにかして
「……そんな話、婆ちゃんから聞いてない」
「言えない理由でもあったのかな?」
「どうでもいいわよ、だからなんだってのよ」
不機嫌に、あたしは答える。その事は、あたしだって考えたことはある。婆ちゃんに聞いたことだって。
でも、教えてくれなかった。
いつか話すわよ……あんたが、聞くのに相応しくなった時に。
婆ちゃんはそう言って、だからあたしも二度と聞かなかった。聞かずに、無かったことにしていた。
つまりあたしは、それを聞くのに相応しい力の無い、未熟で半端な存在なんだって、その時わかってしまったから。
だからあたしは、つい、感情的になって、信仁に食ってかかってしまった。
そんなあたしに、信仁は、静かに、でもきっぱりと、返した。
「つまり、俺にも勝ち目があるって事さ」
「
あたしには絶望的に思える条件を、嬉しそうに笑顔で信仁は語った。
「バカじゃないの?」
あたしは、何度目かの同じセリフを繰り返した。
「あんた、婆ちゃんのこと知らないからそんな事言えるのよ。いい?婆ちゃんは、あたし達が束になってかかってもまるで敵わないのよ?あんたがどれくらい知ってるか知らないけど、体術だってあたしの比じゃないし、術だって使うのよ?勝てるわけ……」
「術って、射程はどれくらい?」
「え?」
あたしの抗議をいなして、信仁がするりと聞いて来た。あたしは、そのあらぬ方向からの質問に、戸惑う。
「……知らないわよ、滅多に見たことないから」
「そうか……他に飛び道具は持ってるのかな?」
「鉄扇持ってるわよ、射程は知らないけど」
「人狼なんだから、鼻は利くんだよな?」
「当たり前じゃない!」
あたしは、ついそこまで答えて、気付いた。
信仁が、何事か考えながら質問していたことを。
「あんた、まさか勝てるつもり?」
あたしは、鼻で笑う。
「冗談じゃないわよ、あんた程度で勝てるもんですか。なめんじゃないわよ、あたしの婆ちゃんだよ?」
「……研究して準備すりゃ、勝てない相手は居ないよ」
静かに、信仁は言い返してきた。床に目を落としたまま。
「条件は厳しい、研究して準備する事と勝つ事がイコールじゃないってのもわかってる、そもそも準備も出来るかどうかも分からねぇ。けど、万に一つでも勝ち目はある、なら、研究して準備する価値はある、どんなに厳しくても、な」
信仁が、顔を上げた。
「姐さん、頼みがある。手を貸してくれ。特に、情報が欲しい」
「……何言ってんのよ」
「恩に着るから、頼む。そしたら、勝っても負けても、俺の一生を姐さんにくれてやるから」
「……ふざけないでよ」
「ふざけちゃいねぇよ。こりゃ命をかけるのに値するヤマだ……勘違いすんなよ?俺は、命を捨てる気なんざ、ねぇ。けど」
ソファのあたしの隣からあたしの前に回り、膝をついた低い目線から、信仁があたしの顔を覗き込む。
「姐さんを諦めるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだって位には、俺は本気なんだ。だから、頼む」
「……やめて」
聞きたくない。聞けば、胸が痛むから。
「何もしないで諦めるなんて、俺には出来ねぇ。俺のことだ、姐さんだってわかってるだろうけど、多分、姐さんの協力無しでも、俺はいずれ同じ事をしでかすだろうよ。その程度には、俺は俺の事をわかってるつもりだ。だから、頼む、今、可能性を高めさせてくれ」
ああ、そうだろう。
そんな事を、ふと考えてしまう。心が、揺れてる。決断が、決意が、揺らいでる。
あたしの膝に、信仁が手を置いた。あたしは、顔を伏せる。
「俺のことを大っ嫌いでも構わねぇ。でも、俺のことを死ねって思ってるんじゃないんなら、頼む、手を貸してくれ」
それは、殺し文句だった。こうなることを避けたいから、あたしは逃げようとした。自分の心を認めないうちなら、あたし自身が逃げ切れると思ったから。でも、逃がしてくれなかった。コイツが傷ついたり、最悪死んだりするのを避けたかったのに、逃げる事を許してくれなかった、逃げ切れなかった。
多分、もう二度と逃げるチャンスはないだろう。逃げても、絶対に追ってくる。
少しでも信仁が怪我したり死んだりする可能性を低くするためには、あたしが協力する以外に選択肢が、ない。こいつはいつも、そうやってあたしを自分のペースに巻き込みやがる。言わされてしまう。本当に、酷い奴。
「……
あたしは、呟いた。
「……死んじゃえばいいのよ。婆ちゃんと勝負して、やられちゃえ。こんなに、こんなに……」
胸が詰まった。言葉が、上手く出ない。
「こんなに、辛くして……酷い。酷いよ。大っ嫌いだ、
涙が、溢れていた。気付かなかった。あたしは、上半身裸の信仁の両肩に置いた両手で、爪をたてていた。
「すまねぇ。でも」
中腰になり、あたしの背中に手を回しながら、信仁が囁きやがった。
「俺は、姐さんが大好きなんだ……手、貸してくれるな?」
あたしは、信仁の首筋に腕を回し、今度はもう我慢せずにしがみついて爪をたて、その首筋に歯を立てた、食い破らない程度に、でも、歯形がつくくらいに。
そうしていないと、体の震えが止まらないし、嗚咽が漏れてしまうから。
そして。
噛みついたまま、あたしは一度だけ、頷いた。
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