第16話
「何よこれ、何がどうなってるの?」
西側通用門から学校外に出ようとしたところで、
……やっぱり、出られないか……
あたしは、その少し後ろで、
このタイプの、「協会」の用語であたし達が「夢時空」と呼ぶ、いわゆる「結界」。強力な夢魔が、複数の犠牲者を一度に取り込む目的で、中心となる犠牲者の悪夢を現実世界の一定範囲に拡大投影する形で展開されるという点で、一般的な魔法陣や護符を使う結界とは異なっている、のだそうだ。
だから、この夢時空は「逃がさない」結界であり、中から外に出るのは非常に難しい。「協会」の、夢に出入りする力を持つ専属ハンターならともかく、その力を持たないあたしは、自力で出る事は基本、出来ない。
残念ながら、愚かしいことに、その時のあたしはそう思い込んでいた。
今のあたしなら、出来る。というか、何の躊躇も無く、「ゆぐどらしる」で斬りに行く。力負けしない限り、全体はともかく、一部を短時間なら、斬れる自信はある。
けど、この時のあたしは、結界を、形の無いものを斬れるとは思っていなかった。いや、そもそも形の無いものを斬るという発想、概念自体、持っていなかった。
そのくらいに、その頃のあたしは、自分の力に自信を持てていなかったんだ。
「実に興味深いわね。どんな気象変動が起きたらこんな現象が起きるのかしら……うふふっ、この元科学部部長、
結界の、夢時空の端、現実世界との境界に手を触れて、そのゴムのような弾力を確かめながら、結奈が呟いていた。
夢時空の中から結界の外を見ると、その景色はモノトーンで、コントラストの強い白黒写真のように見える。まさに、悪夢の中の曖昧な世界、そんな感じだ。その現実世界と、こっちも一応現実世界ではあるけれど、夢時空の中を隔てる境界は、中の者を容易には外に出さない、強固で、しかし多少の弾力のある透明な隔壁で仕切られている。例えるなら、子供の遊具のバルーンハウス、あんな感じだろうか。
「熱も流れも無しに空気が凝縮している?ここだけ局所的に気圧が高まってるのかしらね……
状況が理解出来ていない――いや、ある意味別の理解はしているみたいだけど――結奈が、メチャクチャ嬉しそうな顔であたしに振り向く。
ああ、結奈にとっちゃ、超常現象は科学的分析の対象でしかない、むしろ大好物だっけ。その事を思い出しながら、しかしあたしは、ほっこりするのとは程遠い気分で、胸ポケットから自分の生徒手帳を、
静電気が走るような小さな衝撃と、張りつめたゴムの幕に刃物を通すような抵抗感。その抵抗感がふっと消えると、生徒手帳のまわりに、人の顔ほどの大きさの穴が空く。結界の向こうが、外の景色が、本来の色と形で、見える。
「え?何?何をしたの?」
興味津々で、結奈が寄って来る。あたしは、生徒手帳を結界から引き抜く。打ち込まれた楔を抜かれた結界が、ゆっくりとその穴を縮めていく。
「生物は通らないけど、非生物なら通るって事?」
あたしの行動を独自に解釈した結奈が、自分の生徒手帳で同じ事をしようとする――通らない。
「どういう事?」
自分の生徒手帳を見ながら、結奈が考え込む。
あたしも、自分の生徒手帳を見ながら、考える。
この手帳の裏表紙に挟み込んである護符は、妹の
ただ、その力そのものは、大したことは無い。本来は、軽い「
今こうして使ったから、きっと、鰍にはここで何か良くないことが起こっているというのが既に伝わっている。この結界は携帯の電波すら遮断しているが、この護符の霊波的な何かはきっと伝わっている。
だから、いずれはここに援軍が来る。これをやったのは間違いなく強力な夢魔だから、あたし一人で対抗するのは難しそうだけど、何とかしのいで援軍を待つ手はある。けど。
ここには、結奈がいる。他にも警備員とか居残りの当番教師とか、数名の一般人が居る。その人達を、なるべくなら脱出させたい。
とはいえ、あたしに出来る事は少ない。多分、今すぐに出来るのは、結奈を外に出すこと、それだけ。
決断する。今すぐに出来る事を、今すぐにやる。多くは求めない。あたしに出来る事は、あたしの力は、決して大きくないから。決断して、念じる。あたしの念を、護符に込める。
「結奈、聞いて。これを持って、ここから出て」
封念した護符を生徒手帳ごと結奈に押しつけて、あたしは言った。
「上手く説明出来ないけど、ヤバイ事が起きてる。あたしは調べてくるから、あんたはとにかくここを離れて」
「どういう事?」
結奈が聞き返す。そりゃそうだろう。でも。
「今は説明出来ないし、してる暇もなさそう。何も聞かないで、お願い、逃げて」
そう言ったあたしの顔と、押しつけた生徒手帳を交互に見た結奈は、大きく一つため息をつくと、言った。
「元風紀総番長、巴御前のお願いだ、聞いてあげるわ……ただし。貸し一つよ、後でちゃんと説明して」
「……説明出来るようになったら、必ずするわ。その生徒手帳を当てれば、通れるくらいの穴は空くはずよ、行って」
あたしは、結奈を促す。もう一度ため息をついた結奈は、渡された生徒手帳を結界に押し当てる。ぱちん、うっかりコンセントをショートさせたみたいな音がして、結界に直径二メートル程の穴が空く。
一時的にバッテリー過充電みたいな状態にした護符、鰍があたしに合わせて調整してくれているから、あたしでも念じるだけでこれくらいの事は出来る。あたしは、妹に感謝すると共に、それが出来てしまう妹を誇らしく思い、同時に、明確に能力で自分を上回られてしまった妹に、ちょっと悔しさも感じる。
結界の外も内も、既に同じように結構な勢いで雨が降っていた。雨音にかき消されて、それ以外の音はほとんど聞こえない。そんな中に、教室棟西側ピロティの、天井のある空間から結奈を追い出すのは、少しだけ気が引けた。ごめんね。折り畳み傘をかざして駆け出す結奈の背中に、あたしはそう呟いた。
雨音に紛れて、結界の外を走るバイクの音が小さく聞こえた。
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