第3話

 青葉五月あおば さつきは、最初、その滝波信仁たきなみ しんじの一言の意味が、理解出来ていなかった。

「……え?」

 なので、つい、滅多に人前では見せない――占い師としても、ホステスとしても常に営業スマイルを意識している――気の抜けた表情で、思わず信仁に聞き返してしまう。

「え?仕留めたって、え?」

「……間違いない?」

 その五月の顔から、それを見つめる信仁に視線を戻しながら、清滝巴きよたき ともえは信仁に何事か確認する。

「間違いねぇな、確かにありゃ青葉さんだ、「奴」の記憶、はっきりしてきた」

 五月の顔を真剣な眼差しで見つめつつ、信仁が答える。

 北条柾木ほうじょう まさきは、その信仁の一言をきっかけに、蘭円あららぎ まどか蘭鰍あららぎ かじかの二人の気配が変わったのを感じた。何が何だか分からないから説明して下さいと声をかけたいが、それを拒む硬い気配が二人にみなぎる。そして柾木は、自分が逡巡している間に、五月の気配も変わったことを感じる。恐らく、自分と同じように、信仁の一言の意味を理解したのだ。つまり。

 五月の師匠、五月の母親をあやめた相手の記憶を、信仁が持っている、と。


「なんだい、さっぱり話が見えないよ。ねえさん、説明しておくれよ」

 うかつに声をかける事をためらわれる沈黙を、本所隼子ほんじょ じゅんこのぶっきらぼうで遠慮なしな一言がぶち壊した。

「内緒話は止しとくれよ。五月はうちの大事な看板娘、嫁入り前の大事な体をあたしゃ預かってるんだから、話くらい聞かせてもらってもいいだろう?」

 強引な理論のその一言を聞いて、円は、鰍も、息を吐いて肩の力を抜いた。

「……奴って、「奴」?」

 鰍が、隣に座る巴の顔を見上げて、聞く。当たり前の事を、それでも確認するように。巴は、鰍に振り向き、無言で頷く。

「じゃあ、青葉さんの仇って、「奴」だったって事?」

 鰍が重ねた問いに、もう一度、無言で巴は頷いた。

「どういう事か、教えてくれますよね?」

 それを見ていた五月の声は、表情は、硬い。

「……どっから話したもんだか……すんません、確認なんスけど、青葉さんの仇って、平たく言うとチンピラに取り憑いた悪霊、です?」

 硬い表情のまま、五月は無言で頷く。

「ホステスに、最近ヒモが変だからって除霊を頼まれた?」

 信仁が続けた言葉に、眉根を寄せて、やはり無言で五月は頷く。苦々しげに。

 母は、師匠は、今思うと油断していたんだろう。五月は、その時のことを思い出す。五月が高校二年の、春の事だった。学校へ行こうと安アパートの玄関を出る五月に、今日は仕事で遅くなるかも、そう声をかけた、それが五月と五月の母、神那かんなとの最後の会話だった。


 「仕事」に出かけた母が遅くなる事は、場合によっては二、三日帰らないことは、「仕事」の内容からいって珍しい事ではなかったから、その日も五月は、母が帰宅しないことを異常だとは思わなかった。母子家庭で、家事があまり得意でない母に変わって炊事洗濯するのは慣れていたし、母に就いて「仕事」の手伝いもするようになっていたから、場合によっては延長戦・・・になる事も理解出来ていた。そして、「仕事」の邪魔になるから、携帯を鳴らす事も避けるように心掛けてもいた。

 翌日、母が居ない事を除いてはいつも通り――母が居ない事や、居ても疲れ果てていて起きてこない事は珍しくなかったが――に高校に登校した五月は、三時限目と四時限目の業間に、血相を変えた教師に職員室に呼びつけられた。

 職員室で差し出された黒電話の受話器の、その向こうから聞こえてきたのは警察官を名乗る男の声。母の、師匠の遺体が発見されたから、身元を確認して欲しいとの要請だった。

 それからの事は、五月にとって事務的な記憶でしかなかった。教頭に付き添われ、タクシーで向かった先は隣の市の警察署、安置されていた母の遺体に外傷はなく、ただ苦悶の表情だけが残っていたのを覚えている。

 それから色々な事を聞かれたはずだが、その内容はもはやいちいち覚えていない。ただ、「仕事」の先で何らかのトラブルがあり、母が急死した事、その現場に居合わせた、母に除霊を頼んだ依頼者であるホステスも錯乱状態である事、そして依頼の対象であるヒモ、チンピラ男は行方不明である事は分かった。状況からして事件性がある為、検視及び場合によっては司法解剖が行われる為、その許可の書類にサインをした事は覚えている。あとは、気が付いたら家に、安アパートのリビングの、食卓の椅子に座っている事に、すっかり暗くなってから気が付いた。

 今回の仕事について母は、「男がおかしくなったってホステスからの依頼があったんで、除霊を頼まれた」という、よくある話レベルの事しか聞いていなかったので、警察にもそう説明した。警察は、重要参考人としてそのチンピラ、ヒモを捜しているとの事で、他方、錯乱しているホステスは、とても事情聴取の出来る状態ではないようだった。

 翌日から学校を休み、さりとて何をどうしていいのか全く何も分からない、何も手に付かない五月の元に、母の知り合いだという僧侶が訪ねてきたのはその日の午後の事だった。いずれ戻って来る母の亡骸の為に葬儀の手配をし、五月の知らない母の知人に――といってもその数はたかが知れていたが――連絡を取ったのもその僧侶だった。

 数日後、死因は急性心不全、その原因は不明という検死結果と共に戻って来た母の亡骸は、その僧侶によってささやかに弔われた。錯乱していたホステスは、結局正気に戻らぬまま衰弱死、重要参考人のチンピラは、身元は確保出来たが嫌疑不十分で逮捕には至らず、真相は分からず仕舞いだった。

「……仇を、討ちたいか?」

 初七日の法要の後、その僧侶が、ぽつりとそう五月に問うたのを、五月はよく覚えている。

「仏門として、仇討ちを勧めはしない。だが、人の心はそれを求めるというのもむべなるか。その為の力を付けたいというなら、手ほどきはしよう。修行しながら、その間に、自分は本当に何をすべきか、よく考えるのも良かろうよ」

 そう言って、その僧侶は、望むなら学校も、生活の面倒もわれらのいおりで世話しよう、どうか?と問うた。バイトこそしていたが、それだけでは到底生活出来ない事は理解出来ていた五月に、選択の余地はなかった。

 そうして、青葉五月あおば さつき、本名を葵五月あおい さつきは、高野山の麓にある別院の一つに身を置く事になった。


「……って事は何?青葉さんって、高野聖って事?」

 問われるともなく、五月は身の上話を、最初はぽつりぽつりと、進むにつれて熱を持って話し始めていた。伏し目がちに。

 その話の、五月が一呼吸置いて唇を湿らそうとしたその隙に、蘭鰍あららぎ かじかが問うた。

 その問いかけに、少し恥ずかしげに、同時にやや自嘲気味に片方の口角を上げながら、五月は答える。

「そんな立派なものじゃないわ。私は、尼に成れなくて山を下りた、ただの根性無しよ」

 そう自分を卑下し、ビールの半ば入ったグラスを唇に寄せようとした五月は、ふと、視線を感じて顔を上げる。

 見れば、自分の斜め後ろから、手持ち無沙汰だったのか、それとも日本酒に合う肴でも作ろうと思ったのか、いつの間にかキッチンに入っていた本所隼子ほんじょ じゅんこが、責めるでもなく、蔑むでもなく、表情を読む事に長けた五月にも読み取れない微笑で自分を、五月を見つめていた。

「……そうね、私、やっぱり仇が討ちたかったの。そんな殺意をもったまま、仏門に居るわけにはいかないと思ったの……だから、山を下りたの」

 そう言って、五月はなんとなく振り向いて、隼子と視線を合わせる。なにがしか包丁を使っているらしい隼子は、ただ、小さく頷いただけだった。

 今思うと、その頃から私は、心に鬼を、復讐の鬼を住まわせていたのだろう。寺の者は、あえて強く私を引き留めなかった。それは、私の心の鬼が見えていたから、だったのだろう。

「それで、二年前だかに、その仇ってのを見つけた、って事かい?」

 隼子が、手元に視線を落としたまま、五月に聞く。五月は、頷いて、話を続けた。


 幼い頃から母に、師匠に手ほどきを受けていた事もあり、五月はわずかの間に類い希な力を身につけていた。そのまま山に残る選択肢もあったが、しかし五月は、自分がどうしても仇討ちをしたい心を捨てきれていない事を理解していた。だから、五月は山を出て、野に下る事を選んだ。

「結局、高野山にお世話になったのは二年くらい、高校卒業と同時に山を下りて、それからしばらくは近畿に居たけど、割とすぐにこっちに出てきました」

 仇の事は、あの時母が誰から依頼を受けて、誰の憑き物を落とそうとしていたかは、母のメモや警察の捜査資料から一応分かってはいた。だが、当時高校生だった五月には、それを手がかりに足取りを辿る事も、ましてや仇を討つ事など無理な話だった。

 高校を卒業し、一応は問題無く働けるようになってから、五月は水商売のバイトと、母から、師匠から引き継いだ形の拝み屋をなんとか両立させて生計を立てていた。仇の事は忘れたわけでは無かったが、時間も経っていたし、相手が立件されていなかった事もあって足取りを掴むのもままならなかった。そんな中で、わずかに得た手がかりから仇のチンピラが関東に移ったと知り、頃合いを見て自分も関東に移住したのだった。

「師匠の伝手はあったし、高野山の関係者との繋がりもあったから、全く孤立無援って事もなかったんですけど、それでも駆け出しの青二才が食べていけるほどは、そっち・・・の仕事はなくって。今もですけど。だから、夜のお仕事はずっと辞められなくて。だから、最近、昼間は隼子ママのお店を貸してもらえるようになって、少しそっちの依頼も増えてきて、本当、凄くママには感謝してます」

「そりゃあ何よりだよ」

 五月に笑顔を向けられた隼子は、さらりと作った酢の物の小鉢をいくつかカウンターに載せると、冷や酒の瓶とコップを持ってキッチンから出てきた。

「何よりだけどさ、でも、そっちの仕事が増えたからって、お店は止めないでおくれよ?最近じゃ、あんた目当てで来る客だって居るんだからさ」

 自分と円と酒井の前に一つずつ、残りはテーブルに小鉢を置いて、隼子はカウンターのスツールに腰掛けつつ、五月にそう声をかける。

「あら、そうなの?ちょっと酒井君、うかうかしてらんないじゃない?」

 隼子の言葉に載っけて、円が酒井をからかう。五月が酒井に好意を持っている事、酒井もまんざらではない事は、ここに居る全員が知っている。さすがに、住居が隣同士である事まで知っているのは、当人達以外は蒲田だけだが。

「いや、えっと、参ったな……」

 否定するわけにはいかない、さりとて、真っ向から肯定するのもまだ踏ん切りがついていない。酒井は、実に難しい局面が急に発生した事を、ややアルコールの回り始めた頭で感じ取り、必死に言葉を探した。

「なに、心配要らないさね、五月にいい人がいる、それも相当頼りになる、ってのはお店じゃ公言してるからね、それでも粉かけるようなもの好きは、この辺にゃあ居ないさ」

 ……まあ、そりゃそうでしょう。小声で、こちらも少々アルコールが回り始めた北条柾木がつぶやく。酒井さんはともかく、ここいら界隈の顔役である隼子ママに相当気にいられてるらしい五月さんに手を出そうなんて命知らずは、居たらそりゃモグリってもんだ。

「なんか言ったかい?お兄さん?」

 耳ざとくその呟きを聞きつけてしまったらしい隼子が、首を伸ばして・・・・・・柾木に問いただす。

「あ、いえ、隼子さん、相当五月さんをお気に入りなんだなって」

 悪びれる事なく、柾木は本音を口にする。それを聞いた隼子は、

「ああ、そうだねえ、あたしゃこの子を娘みたいに思ってるよ。娘、持った事ないんだけどね」

 優しく微笑みながらそう答え、隼子は今度は五月に首を伸ばして軽く頬ずりする。

「何しろあたしゃ、こういう・・・・もんだからねえ、承知の上で添い遂げてもいいって言ってくれる男も居たけど、ややこはあれっきり授からなかったねえ」

 隼子の身の上話は、柾木と玲子と五月は聞いた事がある。だが、聞いた事のないはずの巴、鰍、そして酒井、蒲田、信仁の男衆も、その物言いから、何事かあったのだろうというのはピンと来ているようだった。そして、隼子とつきあいの長いらしい円は、どうやらより詳しく経緯いきさつを知っている雰囲気だった。

「子宝なんて、長生きしてたって来ない時は来ないモノよ」

 だからだろう、円が、幕末には既にろくろっ首に成り果てていた隼子が「ねえさん」と呼ぶ蘭円あららぎ まどかが、何でもない事のように飄々とそう言い切った。

「可愛けりゃなんだっていいのよ、子供なんてそんなものよ」

 その一言と、その瞬間に円が孫に投げた眼差しを見て、柾木は、そこにいくつもの言外の意味が含まれている事を感じ取った。

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