女神神殿の幼子

 うん? どうしたんでえ、オバサン。用があるなら、ちょいと待っててくれ。俺の先生に食事を届けなきゃなんねえんだ。何か用意するものがあるならついでに聞いとくが? …ない? あっそ。じゃ、その辺にでも座ってて。

 ………。あれ、まだいたの? ああ、待っててって、俺が言ったんだっけか。悪い悪い。先生は今メシアひこばえさまの書を書いててね。今は生きておられたころのメシアひこばえさまを知ってる人しか近づけたくないってんで、俺が侍女の真似事をしてるのさ。で? いったいなんのご用件で?

 ………。瞻仰せんぎょう? ああ、まあ、知ってるよ。兄君である前に仕事仲間でもあったからな。

 …え、昔の話? 瞻仰せんぎょうの? 俺と瞻仰せんぎょうの話? うーん、話していいのかなあ………。え、秘密なら知ってる? 本当の死因も知ってる? …それならいいかな。いいよ、話しても。その代わり、御国で俺が瞻仰せんぎょうにどつき回されないように取りなしてくれよ?


 今も昔も、ギリシャやローマってのは憧れの地で、逆にそこから先生さまや職人の師匠なんかが来たもんさ。俺の師匠もそのクチでね。だから、お偉いギリシャの皆々様は、故郷を恋しがって、神殿を建てたんだ。でもまあ、神さんの話ってのは、どこもある程度似たようなもんさ。イイトコだけとて、あっという間にエジプト人好みになっちまった。

 まあ、ぶっちゃけアノ習慣が、ギリシャ経由なのか、それとも元からエジプトに、いやいや、世界中にあったのかまでは知らないよ。俺だってそんな理由で神殿が出来たって知ったのは、身請けされた後なんだ。あの頃は名前なんて大層なもん、誰も持ってなかったさ。馴染みの客が、勝手に名前をつけて、その晩限りその名前になる。だけど、彼は『鉤鼻かぎばな』っていう名前が、いつの間にか皆に使われてたな。驚くほど滑らかな肌で、特に尻なんて体毛がないみたいだ。客相手に仕事して、香油を肌に塗ったなんて日にゃあ、陶器よりも滑らかで、撫でてるだけで、せっかちな奴はさっさと仕事じまいって程だった。

 あの子が来たのは六歳かそこらだった。目鼻立ちがはっきりとしていて、はっきり言って美少年だったよ。でもその時から、どこかぽっかり穴が空いたような顔をしてはいたね。具体的にいうと、まあ、だった。神殿に来たときだって、そこで何を売るのか、理解してるようだったよ。薄気味悪さを通り越して、いっそ可哀相だった。

「ねえねえ。ここには香油ってないの?」

「こーゆ???」

 ありゃ確か、あの子が神殿に来て、ええと…数えると、二週間くらいの時だった。その頃にはこの輝くような少年、いや、子供のことは、『鉤鼻かぎばな』と皆呼んでいたよ。

「皆、仕事をするときに、香油を使ってないね。胸元に塗ってるのも女だけ。臭いで分かるよ。」

「こーゆってなんだ??? おいババア、知ってるか?」

 神殿娼婦達のうちで、一番年季の入った、それでも何故か客足の引かない熟女に聞いてみた。フム、と、熟女は妖しく笑って、崩れるように鉤鼻かぎばなに向き直って聞いた。

鉤鼻かぎばな、どこでそんなもの知ったんだい?」

「前のご主人が、ぼくと遊ぶ時、いつも塗ってたんだ。あれを塗ると気持ちいいんだって。でもここの人たちは、皆苦しそうな顔して仕事してるね。なんで使わないの?」

「………。」

「………。」

 なんともはや、それで全部、鉤鼻かぎばなの過去がわかったってもんさね。まだ六歳だぜ? あんまりじゃねえか。顔を見合わせて、こりゃどうしたもんかって思ったよ。

 香油なんて大層なものはない。時々にうるさい奴が、蜂蜜酒…の、失敗した奴を持って来ることならあった。それを使うと、もう後片付けが大変なんだが、確かに楽と言えば楽だった。特に俺達みたいな、元々蜂蜜を持っていない連中なんかは、それで怪我も減ると来たもんだ。

 だけども、てらてら光って、体温で香りが薫る香油なんて高価なもので、蜂蜜酒の失敗作の役割をさせようという金狂いは、流石にいなかった。香油を酒の代わりに使うなんて初めて知った。

「年の近いのはお前さんくらいなんだし、お前さんが教えてあげなよ。」

「エーッ!? やだよババア、鉤鼻かぎばなの奴、こんなちまっこくて俺よりぜってぇ頭いいんだぜ。」

「オヤ、そりゃいいことだ。道端で取るワケじゃなし、神殿娼婦たるもの、神さんの事くらい理解するオツムがなきゃね。鉤鼻かぎばなは出世するだろうねェ。」

「なら尚のことヤなこった。俺の客が減る。」

 すると、ずっと黙っていた鉤鼻かぎばなが言った。

「? でも、苦痛を押しながら働いてたら、回復に時間がかかって、結果として遊ぶ時間が減るんじゃない? ここは、一緒に遊ぶとお金が貰えるんでしょ?」

「聞いたかいババア! こいつぁぜってぇ六歳じゃねえぞ。ぺらぺらと難しい言葉並べやがって!」

「ひがむのはお止し。あれだろ、ほら、ピラミッド造りの親方か何か。もうそろそろ雨季になるから、金が余ってたんだよ。…しかしねえ、そんな事を覚え込ませたなら、尚のことが良くて、手放すようなことはしないもんさ。イチから教えるよりいいんだからね。況してや物覚えの良い、頭の良い子なら尚更だ。そんな上玉、そもそも売りに出されないからねえ。…ねえ、鉤鼻かぎばな、お前さん、よっぽど具合が悪かったんだろうねえ?」

 そう言われると、鉤鼻かぎばなは何故か押し黙った。当時の俺はそんな事にも気付かず、ゲラゲラ笑ってからかった。

「そりゃ仕方ねえよ、ババア! のは良くても、のだけは、お前の体じゃ仕方ねえもんなあ? ヘヘッ、大きくなるまで待ってもらえなかったんだな。ヨチヨチ、かわいそかわいそ。」

「うるさい包茎。」

「ほ…っ!?」

「アッハハハ! 一手取られたねえ。確かに鉤鼻かぎばなはこの年で包茎じゃないからねえ、まあ、仕方ないさ。お前さん、童貞だしねえ。」

「うっせえな! 客の中には女だっていらぁ! 俺が女に買われてるトコ、見てんだろクソババア!」

「うんうん、見てるよぉ? その後の銭勘定の音で、お前さんがどんなだったのか、ぜーんぶ分かる。鉤鼻かぎばなはそれを言ってるのさ。」

「うん。」

 間髪入れず鉤鼻かぎばなが同意しやがった。ただでさえ男としての見せ場のない人生だったんでね、そりゃもう凹んだよ。…って、悪ィ悪ィ、年取ったからって女にするような話じゃねえな。ここは飛ばすべきだった。………え? 聞きたいから聞いてた? あっそ。

 とにかく、そんな感じで、鉤鼻かぎばなが香油の話をしてな。娼婦共の中には、若くても知ってる奴がいたし、若くなくても使って貰った事の無い娼婦が結構いたよ。いや、香油って塗るものだけど、大体女どもは胸元に塗るからさ。それ以外の所に、塗る香油とか知らなかったんだよ。況してや香油を使わなくてもつやつやぴかぴかの鉤鼻かぎばなが、必要だって言うなんて思わないじゃん? だけど鉤鼻かぎばなが、あんまりにも香油を使ったらどれだけ具合がいいか、どれだけせびれそうかって、話すもんだからさ。娼婦共の間で噂になったってワケ。

「ねえアンタ、アンタってば、そこの男妾おとこめかけ!」

「あ? なんだよ。」

「お前さん、香油塗っても全部流れちまう体なんだしさ、情夫に言い寄って、香油を貰っとくれよ。」

「は? ケツに塗る用の?」

「ケツだって! あはは、そりゃそうだね、アンタはケツしかないもんね! でもアタイらは違うのさ。香油があれば遊び方が増えるんだ。鉤鼻かぎばなが教えてくれてね。」

 あのクソガキ、と思ったね。こうして俺からも客を取って、最終的にはメス犬たちのおこぼれだったものを、自分の皿にいつの間にかでんと盛り付けるつもりなんだって。六歳だからって侮った俺も悪いのかも知れないけど、あの頃は学がどれくらいの武器になるのかなんて、知らなかったんだ。だって、学より額の世界だったからね。…今の、上手かったろ? …え、だめ? そんなあ。

 で、まあ、鉤鼻かぎばなが仕事から帰って、川で一浴びしてる夜を見計らって、こう、拳大の石をな、両手に持って、がつんって投げてやったんだよ。泣かせてやろうと思ったのもそうだし、顔に傷がついちまえば、価値も無くなるって思ったんだ。…なんだよ、その眼。アンタも知っての通り、未遂だよ、未遂。目を潰してやろうと思ったんだけどな、ごいんと髪の毛の生えてる、こめかみのちょっと上辺りに当たったんだ。すげえ音で、思わずタマがきゅんとなったくらいだった。

「………?」

 だけども鉤鼻かぎばなは、ぼちゃんと派手な音を立てた石の方に目をやるばかりで、頭からだらだらと滴る血に気付いてない様だった。元から水浴びしてたし、夜だったから水面に血が落ちてるのなんて見えねえし、今となっては当たり前だったんだけど、あの頃はびっくりしたよ。夜目でもぶつけられるくらい近くに居たんだ、俺にだって血が吹き出す影が見えてた。あんなにぶっしゃあと吹き出してたら、大の男だって痛くて泣き叫ぶさ。でも鉤鼻かぎばなが、あんまりにも平然と水浴びしてるもんだからさ、俺は化け物だと思って、大慌てで神殿に駆け戻った。

 まあ、別に化け物でも何でも良いんだよ、俺の客を取らなきゃな。だけどもあんまりケロッとしてるもんだから、俺は仕返しが怖くて、普段絶対入らない、祭司達が籠もるような所まで駆け込んだんだ。エジプト人祭司にも客はいたよ、正直な話。穴があったら埋める、そりゃ生き物だったら当然さ。況してや金持ちなんか、胃袋以外の胃袋を満たすために金をばらまく。俺達の客は、そういう奴らだった。だけどその時の祭司は、客にならないような、生真面目な男だったもんでね。

 まあ、穢れを持ち込んだってんで、死ぬほどどつかれて、解放された頃なんて地平線が明るかったよ。血がダラダラ流れててさ。その頃には、鉤鼻かぎばなは化け物じゃなくて、カミサマだって思ったね。カミサマを殺そうとしたから、殺されそうになったんだ、このまま何も償いをしなかったら死ぬんだ、とさ。だけども償いをすれば、助かるかもしれない。俺は文字通り体を引き摺って、あの川へ行こうと思った。

「きゃあ! どうしたの!?」

 ところが、あいつってばケロリとした顔をして、神殿に戻ってて、ババア共に頭の傷の手入れをされてた。元々蹴っ飛ばされて漏れてたから問題なかったけど、ちびった。だってよ、今も目の前で、じわじわじわじわ、ぼろきれにされた古着がどんどん血に濡れてくんだぜ。なんでそんなきょとんとして、どころか立ち上がって俺の方に走ってこれるんだよ。一人大災害になってる位の大怪我だった。明るいところで見たぐるぐる巻きの鉤鼻かぎばなは、血を流して色が白くなって、朝焼けの光に照らされても、尚白かった。それなのに大きな瞳は、純粋に驚いていて、純朴に心配してきた。俺はその時初めて、たった六歳の子供に嫉妬して怯えて、なんて事をしたんだと思ったよ。

 片腕で抱きしめて、ごめんって何度も謝った。その間にも鉤鼻かぎばなの血は溢れていて、俺のほっぺたも二重に濡れてった。ババア共はそれでなんとなく察したみたいで、俺の頭にどっさりと、水と血を吸った古着を被せてきた。

「おやおやまあまあ、こんな所に重労働が出来そうな男がやってきたよ。丁度良い、血を漱ぐのに疲れてきてたんだ。お前がやれ。」

「見ての通り、大分治まったけど、まだ少し滲んでくるんだよ。頭の怪我は怖いからね。神殿で死体が出ると面倒だから、死体にしてやるなよ、しっかり手当てしろ。」

「あー、疲れた疲れた! あんまり疲れたから、アタシらは皆寝ることにするよ。後のことは二人で宜しくたのまぁ。はー、寝よ寝よ。店じまい直前に抜か六に駆け込まれたってのに、ツイてないねえ。」

 四の五の言ってねえでさっさと消えやァれ、と追い払って、俺はもう一度│鉤鼻かぎばなに向き直った。鉤鼻かぎばなはいつの間にか、俺の頭にどっさりこと被せられた布を一枚取って、俺のあんまり感覚の無い掌を撫でていた。手当てしてくれていたんだ。自分が誰に傷付けられたのかも知らないで、馬鹿な奴。

 まあ、その、なんだ。そんな懐の広さというか、図太さというか、なんかこう、そんな間抜けな姿見てたら、カミサマだとかどうとか、どうでも良くなったな。ただまあ、鉤鼻かぎばなが思ったよりも俺をバカにしてないことだけは、分かるには分かったってカンジ。結局、俺をバカにしてたのは、俺自身だったってオチだよ。

 それからかなあ。俺も名前なんて、身請けされるまで終ぞ決まらなかったけど、鉤鼻かぎばなはそれでも、俺を俺として認識してくれてたみたいだったな。一番仲の良い男娼だったと思うよ。鉤鼻かぎばなが買われてった後は、しばらくささくれたね。…でも、まあ、なんだ。あの後色々な事を聞いたら、俺なんて本当に幸せもんだったんだなって、思ったよ。


 『鉤鼻かぎばな』時代のことでめぼしい話って言ったら、俺にはこれくらいだけど、どうだった? 十分? そりゃ良かった。じゃ、達者でな。

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