羊の子守歌~神を愛した男外伝

PAULA0125

ただ一度の勝利

 ………ん?

 あらまぁ、こんなところに来はって、行くとこ間違えたんと違はります?

 …え? 瞻仰せんぎょうはん? ええ、知っとりますけど。なんや、うちと名前似てて、えろう苦労かけてしもたみたいやなあ。うちは間違ったとは思っておへんけど、未だにに拒まれるさかいに、未だ仰山ぎょうさん赦せへん、せまぁい聖人さま義人さまがおらはるんでひょうな。ああ、別にいけずなんて思ってへんよ。こうなることは、メシアさまから知らされておったやさかい、この時間のない空間で、ただ時を待ってればええだけやし、なんも不自由してへんねんで。メシアさまもしょっちゅう、うちを訪ねて来てくらしゃりますからねえ。

 ………ん? 聞きたいこと? ええよええよ、どうせメシアさま以外誰も来ぉへんから。寧ろうちと話してってほしいわあ。

 でも、ええのん? あんたはん、ここに来た事がばれたら、おもんない聖人さま義人さまがたーくさんおりゃしゃんせ? うち、メシアさまのとこまで、送っていかれへんよ? …ええ? あ、そう。

 さあて、ねえ。あんたはんが知りたいような瞻仰せんぎょうはんのことなんて、あったかいねえ……。

 いやいや、仲悪ぅなんてなかったよ。うちも瞻仰せんぎょうはんも、仲は寧ろかったんじゃないやろか。なんや、数字のことはなんも興味無かったから、確かに喋ること少なかったけど、元々うち、あん人らの間で、あんま良ぉ思われてへんかったし…あ、そうそう、そういえば。

 うちと瞻仰せんぎょうはん、拳闘して、メシアさまを護ろうって、鍛えあっとったんです。と言うても、うちがいつも伸してしもて、いつも一方的にどつくみたいやったんけど………。

 一度だけや。たった一度だけ、瞻仰せんぎょうはんが、うちのほっぺた殴ってな、うちをめためたにして、地面がぐわんぐわん言った事があったわいねえ。

 その時の事で良ければ話すけど………。その前に、あんたはん、瞻仰せんぎょうはんとどんな関係? お答えによってはお話でけませんなあ。瞻仰せんぎょうはんに絞られてまうわ。

 ………。………。………。

 へえ、あのお人に、あんたはんみたいな人が出来るようになるなんて………。なんや、非道い死に方しはったって聞いたけど、そう悪い人生でも無かったみたいやねえ。

 ほな、話しまひょ。あんたはんは知る権利が在る。知っても瞻仰せんぎょうはんは怒らんでっしゃろ。


 そもそもうちが瞻仰せんぎょうはんに出会ったのって、結構初めのほうやったんや。あの頃だぁれも経理の類が出来る人がおらんくてねえ、うちが立候補したんや。今まで誰も、パンも魚も葡萄ぶどう酒も、数えたことがない言うて、まさかとは思ったんやけど、ほんまやってん。暫く帳尻合わせに苦心したもんやわ。

 メシア様の起こした、おべんとの奇跡、知ってはる? ほれ、パンが増えただの、お魚増えただの、そんな奴。あれねえ、結構な頻度で起こってたんよ。っていうのも、その増えたおべんと、一人で食べる言うよりも美味いちゅうて広まってなあ。折角メシアが出してもろたおべんとや、腐らせたら世のお母はんお嫁はんたちが可哀相やろ? せやから、うちがおべんとの管理もしてたんや。みぃんなに、みぃんなのお母はんお嫁はんが、大事な息子旦那に作ったおべんと、配ったんえ。

 でもまあ、そんなんだと、治安も悪うなるんです。

 要するに、普段乞食も禄に出来ひんような、辛抱たまらんような奴がわらわら依ってきて、おべんと、かっ攫いよるんよ。まあ、かっ攫われてもおべんと配れるんやけど、何や、メシア様のお話聞いて、健やかぁな気持ちになって帰って欲しいんに、ささくれた事があるのも嫌やろ? パリサイ人や律法学者につけいられる切欠にもなるもんや。それでなくても、メシア様はほんに、ほんに、敵の多いお人やったからねえ。うち、瞻仰せんぎょうはんに拳闘を持ちかけたんや。

 表向きは、メシア様をお守りする戦士の一人や二人、十二人もおるんやったら、正統派戦士が必要やろってことで。本音を言うとまあ…。…あー…、うん。まあ、うちもうちで、瞻仰せんぎょうはんに惚れてたんやろなあ。もっと一緒にいてみたかったし、一緒に話してみたかったんや。その頃はまだ、お互いの運命なんて、メシア様から聞いてなかったんでなあ…。うちと仲良ぉしてしもたこと、後悔してるんやろかねえ。


 瞻仰せんぎょうはん、動きそのものは悪くなかったんえ。相手がうちやったのがまずかったくらいや。

「うわっ!」

「はい、一本。」

 瞻仰せんぎょうはんの打ち方には、ちょっと癖があらしゃって、親指の付け根で、相手の鼻を狙うんです。せやから、『先の先』なんて読まんでも、すぐに手首捻って、ひょいと転がせたんですわ。初めのうちはそこそこ粗がありましてん、うちも手間どったんやけど、段々練度が上がるだけ、こう、型にはまりきった打ち方しか、してこぉへんくなりましてなあ。教わる姿勢としてはそれが正しいんやけど、うち、ちょっとおもんなくなって、つい、ホントについ、冷やかしてしまったんです。

「はぁ…。瞻仰せんぎょうはん、ちいとこの頃、伸び悩んでんねえ。何や、心配事でもあるん?」

「そうか? 別にそんな事は…。漸く基本がカタに入ってきた所だからじゃねえの。」

「寧ろ今まで、どうやってひこばえさまをお守りしてたん? 綺麗なお顔やさかい、色仕掛けやったらひとたまりもなさそうやし、毒婦相手になら今までもよかったかも………。」

 うちは確かに、メシア様に特別選ばれた十二人やったけど、だからといって何か他の人と大きく優れた場所があったかといいましたら、そんなもん、否やとしか答えられまへんわ。ただ、謦咳けいがいはんあたりよりかは、人の気持ちや表情は見れてる自信はあります。これでも商売人やったんやからね。瞻仰せんぎょうはんが顔を隠すように背中向けてしもて、慌てて追いかけようとしたんです。

「あ、せ、瞻仰せんぎょうはん、うち―――ぐっ!」

 目の前が一瞬真っ暗になりましたんや。凄く固くて小さな何かが、うちの鼻っ柱に叩き込まれて、鼻の中が切れました。何をぶつけられたのかわかんなくて、眼ぇがちかちかきらきら、しとりましたら、瞻仰せんぎょうはんの右手の甲が、うちの鼻血で汚れておりました。裏拳ていうやつやったんやと思います。

「………。」

 瞻仰せんぎょうはんは無言無音で、うちの目前に向き直って迫ってきて、汚れた方の手でうちの耳を掴みました。引っ張るとかではありません。根元までがっしりと、握りこんだのです。そのまま顔を更に近づけさせられて、反対の手でうちの頬を殴りつけました。拳闘とは全く違う、なんというんやろか、相手を徹底的に動き―――というより、攻撃でした。

 頬を強かに殴られて、耳が千切れそうなほどに引っ張られて、音がキィーン言いました。あんまりに勢いよく殴られたもんで、耳から手が離れて、今のうちに跪いて謝ろうと思ったんえすけど、それより前に前髪掴まれて、瞻仰せんぎょうはんの膝に、鳩尾から飛び込ませられました。

「が…っ! げほっ! げほっ、ま、まっ、悪か―――。」

 とにかくとんでもなく怒らせてしまいましたんえ、何とか謝ろうとしたんやけど、瞻仰せんぎょうはんはよっぽど鶏冠とさかに来たらしゅうて、よろめいたうちの首に、強烈な肘落としを見舞われて、とうとううちは地面に突っ伏して、動けなくなってしまいました。顔の中身がぐるぐる渦巻いていて、本当にこのままだと殺される思いました。

「…別に、ぼくは相手がどんな奴であったとしても、ヒコを虐めるようであれば、この程度はお見舞い出来る。」

「ぐ…っ、げほっ。」

 ものは言えんようになってしもたんえ、うちは何とか腰を引き上げて、瞻仰せんぎょうはんの足下に突っ伏して手を添えました。

「すいません、失礼な物言いをしました。」

「二度と言うなよ。ぼくは色仕掛けとか、そういう話が大嫌いなんだ。」

 許してくれたのかくれなかったのか、今でも分かりまへんなあ。少なくともあの当時は、もう怒ってないと思ってホッとはしました。けどうちがここに来てから、なんや、瞻仰せんぎょうはんの人生のあんなことやこんなこと、知るようになってから思うのは、うちはあまりにも罪深い事を言うたと後悔するばかりや。この時も、突っ伏しているうちに、手を差し伸べてくれたから立ち上がれたようなもんや。立ち上がると尚更ぐらぐらしとった。あの時、瞻仰せんぎょうはんどんな顔してはったんやろ。覚えてない、というより、見た記憶があらへんのや。それくらい、自分が受けた衝撃、大きかったっていうたら、まあ、瞻仰せんぎょうはんの腕っ節の証明になるんやろうけど、そうやなくて、単にうちが自分の事しか考えてなかっただけやろね。

「まあ、なんだ。拳闘のやり方では勝てないのかもな。こういう荒削りな戦い方なら知ってんだけど。」

「凄い逞しいお兄やわぁ。せやけど瞻仰せんぎょうはん、武術言うのは、手加減が出来て初めて一人前や。今のやり方やと、女子供が襲いかかって来た時、調べる前に殺してまうで。」

「まあ、奴さん方が、いつでも逞しくて強いムキムキ男ばっかりを送り込んでくるとも限らねえわな。潜入してくるようなのもいるかもしれない。」

「子供に今の攻撃なんかやったら、泡吹いて膨らんで死んでまうわ。女子や子供やったら、金に釣られて脅されてることだってあり得るんや。」

「わかったよ。このやり方は男限定だ。それも武器を持ってるような奴。非力な男や女子供には、ちゃんとした拳闘で伸す。それでいいんだろ?」

「まあ、せやけど…。」

「その意味じゃ、ぼくはまだまだだな。飲み物かパンか何か、ないか聞いてくるから待っててくれ。」

 そう言って、瞻仰せんぎょうはんが背伸びをしたところに、いそいそと誰かがやってきました。蘖さまでした。瞻仰せんぎょうはんは出鼻を挫かれて、ばつが悪そうに眼を反らしゃりました。

「お稽古は終わったかい?」

「アラ、ひこばえさま。それ、態々うちらに?」

「勿論。…ああ、なんてことだ、鼻血が出ちゃってるじゃないか。兄ちゃん、やり過ぎだよ。」

 そう言ってひこばえさまは、手拭いと釣瓶を瞻仰せんぎょうはんに渡して、裸の指でうちの鼻周りの血を拭ってくだしゃりました。…ええ、もちろん、それで血は止まりましたえ。当たり前や、お着物に触れるだけで、十二年続いた流血が止まるんでごじゃりますからね。

「はあ…。お前ね、今三人しかいないから言うけど、いい加減人前で家族内々で居るときみたいに呼ぶのは止めろ。先生サマなんだから、せめて『兄さん』と呼べ。」

「? なんで? 兄ちゃんは兄ちゃんだよ。」

「なんでって、あのね………。」

 がっくり、と、瞻仰せんぎょうはんは項垂れて、大きな大きな溜息を吐かはれました。

「人間てのは、見てくれに騙されるもんだ。お前が指導者らしい立派な言葉使いなら、頭が謦咳けいがい以下でもついてくる。頭が良くて、きんみたいな奴を世話する人なら、きんまさにはより高尚なラビの話を聞かせたがるものさ。市井で使うような言葉じゃダメだ。お前の説教は子供っぽいのに、子供向きじゃない。そんな不均衡な演説じゃ、いずれ人はついてこなくなるぞ。」

「えー? でもいつも使ってる言葉で説明した方がわかりやすいじゃない。ねえ、そう思うよね?」

「ねえと言わはれましても。」

 うちは正直、口調とか言葉選びとか、そんなに気にしていまへんでした。だって、メシア様の御言葉を伝えるのは、結局伝えられた群衆であって、その群衆が理解できていれば、極端な話、うちらが理解しておらへんでも、伝わるのです。いえ、高弟十二人、弟子数百人、それぞれひこばえさまの直弟子がきちんとお伝えするのが一番ではあります。一番ではありますけど、それが絶望的に見込めなかったので。ええ、はい。うちを含めて、弟子どもは揃いも揃って、実のつけない無花果いちじくそのものでありましたえ。無駄に大きくて、無駄に場所をとって、それなのに一つも甘みがなく、一代限りで枯れる巨木。まあ、うちなんかは努力を寧ろしないことで、永代覚えられることになってしまった訳ですが、少なくとも当時のうち自身は、自分が無花果いちじくである自覚はあったので、まあ、その辺が謦咳けいがいはん方と違う所やないんかねえ。


 瞻仰せんぎょうはんはずっと、メシア様の弟子である以前に家族でありゃしゃりました。それは良い意味で、メシア様の人間性をよく知っていたということです。瞻仰せんぎょうはんからみたら、メシア様はどこまでも弟御やったんやろうねえ。だからといって眼が曇っていなかったのは、偏に、やろうと、うちは思います。

 うちが話せるのは、これくらいやねえ。なんや、お役に立てはった? ………それはおおきに。

 他に瞻仰せんぎょうはんと親しくやっとったことと言えば、聖書の話とか、律法の話とか、歴史の話とか、みぃんな答弁なんよ。瞻仰せんぎょうはん、あの一団の中では、偉う頭良ぉて、うち、話し相手に困らんかったわ。今でも聞いたら、その辺りのこと、ようく喋ってくらはるんやないの? ましてあんさん、瞻仰せんぎょうはんにとって特別みたいやし。

 いいええ、いいええ。こんな嫌われ者でもお役に立てたら嬉しいわあ。ほな、道中気をつけて。時々変な輩がいるのは、ここも現世も変わらへんからね。

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