かみのむすめ(本編後日談)

 悲鳴を上げて、その場に倒れ込む。土が女の股から吹き出した水を吸い、女はその上にがっくりと膝をつき、雄叫びを上げて着物を裂く。悲鳴を聞きつけて、一人の老婆が駆けつけてきた。

「まあ! まあまあまあ! 大丈夫? ひいちゃん! しっかりするのよ!」

「痛い痛い痛い! おかあさまーッ! 痛い痛い! はぁ、はぁ、助けて、赤ちゃん、死んじゃう!」

 のたうち回る彼女の身体を調べ、地面がしとどに濡れていることを確認すると、老婆は思いきって着物の裾を引きちぎった。活きの良い魚が飛び跳ねるように躍動する脚を大きく開かせ、本来何も無い場所が、黒くぽっかりと空いているのを確認する。

「どうした、おひいちゃん! ―――御母堂さま、一体何が…。」

「どうしたどうした?」

 悲鳴を聞きつけて、男達がどやどやとやってくる。老婆は顔を上げ、叫んだ。

「手拭いをありったけ持ってきて頂戴! 足りないかも知れないから、洗ってある着物も持ってきて! 井戸から水を汲んで、今煮炊きしてあるお湯は全て器に入れてこっちへ持って来るのよ! 早く!」

「急げ、お前達!」

 最初に現れた男に命じられ、他の男達は散っていった。その代わり、事態を察したらしい熟年の女達が、既に老婆が師事したものを持って集まってくる。まだ若い女達も、彼女達に釣られてやってきた。

「はぁ、はぁ、はぁ、痛い! 痛い痛い、おかあさま! 死んじゃう死んじゃう!」

「どんと構えていなさい、ここより汚い家畜小屋でだって、元気な子供が産まれたんですからね。―――坊や! 何をぼうっとしているの! この子の頭の方に行って、腕を握らせなさい!」

「え、ええ? 御母堂様、何が―――。」

 言われるが儘に女―――妊婦の頭に移動すると、彼の腕をがっしりと掴み、妊婦が絶叫した。

「産まれる産まれる―――あなた!! 貴方ァァァッ!!」

 股間が冷たいものに吸い取られるような感覚を覚え、男は妊婦の腕をしっかりと掴み返し、頑張れ、頑張れ、と、励ました。女は浅く激しい呼吸を繰り返しながら、男の腕を引き、泣き叫ぶ。

「どうして貴方がいないの!? この子は貴方の子なのに!! どうしていないの、貴方の子が生まれるのに!!」

「おひいちゃん、きっと俺達を見つけて来てくれる、大丈夫だから、だから今は頑張って! ええと…とにかく頑張って! ど、どう頑張るのか知らないけど、頑張って!」

「割れる! 割れる割れる割れる! だめだめだめ、割れちゃう!!」

 妊婦がそう叫ぶので、男は辺りを見回した。妊婦が暴れて壁を蹴り、戸棚が僅かに揺れている。

「おい、お前! そこの戸棚の皿を全部出してどっかやってくれ! 割れるらしい!」

「は、はい!」

 そんな見当違いな事を言いながら、男はしがみついてくる腕を力強く握り返した。ぎらぎらと力強い眼差しは、何か深いものを湛えて男を見上げてくる。

「どうして貴方がここにいないの? 貴方はどこにいるの? この子は間違いなく貴方の子なのに、どうして貴方は抱いてくれないの?」

「おひいちゃん、しっかりするんだ。今は赤ちゃんの事だけ考えて―――。」

「貴方の娘なのに、どぉして貴方がここにいないのよーッ! このろくでなし! ばかばかばか!」

「お、おひいちゃん、痛い…。」

 此処にはいない赤ん坊の父親に叫びながら、妊婦は激しく叫んだ。

「アヴァ、アヴァ! 妃さま!! どうか抱いて下さい、―――貴方の孫です!!!」

 ぎゅっと力が籠もり、そして抜ける。妊婦の顔は青く、最早何も叫ばない。すぐに女が水差しを持ってきて、彼女の口に水を注ぎ込むが、口はだらしなく開かれ、零れている。

「お、おひいちゃん…?」


 ほにゃあ、ほにゃあ、ほにゃあ―――。


 男達がぼんやりとしているのを尻目に、妊婦の股にいた老婆の元に、沢山の手拭いが集まってくる。老婆は手拭いの塊を持って、妊婦の―――母の胸に抱かせた。

「ほら、見てご覧なさい。元気な女の子よ。貴方の娘なのよ。」

「む、す、…め?」

 白くなった指の関節に血の色が戻り、切ったばかりの透明な爪に護られた指先が、真っ赤な手拭いに包まれたモノに触れる。ソレは彼女の両手を広げた掌にすっぽりと収まるほど小さく、緩く曲がっていて、少し大きな、種を多く含んだパンの固まりが、二つにくっついてしまっているようだった。

「少し小さいけど、女の子なら多分、これくらいよ。私は男の子しか産んでないし、手伝った人も男の子だったから分からないけど…。とても元気に泣いてるわ。」

「赤ちゃん…。あのひとと、わたしの…。」

 ぽろ、ぽろ、ぽろ、と、妊婦で無くなった女の右目から、母になったばかりの女の左目から、涙が交互に零れてくる。ほにゃ、ほにゃ、と、弱々しく、しかし太く泣く赤子の臍はまだ出張っていて、老婆の手で臍の緒が切られて結ばれていた。赤子の様子を観察しようとする右目が赤子の様子を見ていて、左目は何か透明に大きく膨らんだものに押し出され、ただただ、涙を流していた。

「こんにちは。」

「ほにゃ、ほにゃ…。ほにゃあ!」

 言葉をかけると、赤子は頭を左右に動かして、答えた。老婆に目配せをされ、膝枕をしていた男が、そっと彼女を抱き起こす。

「さあ、お乳をあげて。」

「で、でも、御母堂さま…。こんな小さな口で、入るかしら。歯もなくて、舌も小さいわ…。」

「大丈夫よ。頑張って産まれてきて、お腹が空いているから、飲ませてあげなさい。」

 母は頷いて、臍の上に赤子の尻を置き、片手で乳房を出した。赤子はすぐにそれに気付くと、子犬のように鼻先で乳首を見つけると、もちゃもちゃと口に含んだ。母親の親指ほどしかない小さな掌でもう一つの乳首を掴むと、その指の間から、乳白色の液体が滲み出てくる。じゅう、じゅう、と、乳首の中にある乳を吸われると、張って痛みを持っていた乳房が、ほうっと溜息をつくように軽くなる。

「お乳を飲み終わったら、綺麗にしましょうね。血だらけだから。」

「はい、御母堂さま。」

「この後、後産っていって、この子を包んでいた肉の揺り籠が出てきます。貴方はそれを食べて、お母さんとしてこの子を育てる力にするのです。」

「肉の揺り籠…?」

「…ちょっと、生臭かった気がするわ。」

 老婆がそういうと、熟女達がくすくすと笑った。私の時はどうやって食べたっけねえ、などと和やかに会話している姿が、萎んだ腹に詰め込まれそうになっていた不安を取り除いていく。

 と、ハッとして母は我が子を見た。

「御母堂さま…赤ちゃんが、もうお乳を吸わないわ!」

「えっ。」

 すわ大事か、と、肩を抱いていた男が覗き込む。その顔があまりにも母の乳房に近かったので、老婆はその頭をぴしゃりと叩いた。

「何やってるの、この坊やは。他人様の妻よ!」

 老婆はそっと乳首を退けて、赤子の口元を手拭いで拭いた。しゅぴ、しゅぴ、と、変な音が赤子の頭から聞こえる。

「吸わないんじゃないわ、満足して眠っちゃったのよ。私の子も、ちょっと飲んだらすぐに寝てしまったわ。…さあ、今のうちに産湯をしてしまいましょう。皆さん、準備を手伝ってくださいな。お母さん、貴方は後産に備えて、しっかり呼吸をして、水を飲んでいるのよ。少し眠っているのもいいわ。」

「はい、御母堂さま。」

 あとは彼女に任せておけば大丈夫、と、母は微笑み、ふぅ、と溜息をついて、花が開くように眠りについた。


 赤子は皇女ひめみこと名付けられた。彼女が大王の子孫であり、その嫡子賢王の子孫であるからである。彼女は成長すると、熟したオリーヴのように黒い肌を持つくらいに外で跳ね回るようになった。彼女の祖母である妃は、自分の愛した男にそっくりな、ふさふさの硬い髪の毛を撫でて、涙を流した。皇女ひめみこの祖母は、エフェソに越す事は望まず、エルサレムに戻った。恐らくエルサレムの共同体を支えるように、彼女の主が望んでいると告げられたのであろう。

 或いは、エルサレム近郊の穢れの谷に、彼女の夫が打ち捨てられている事を知っていたのかも知れない。正しい神の許へ召し出されたとしても、二人の愛は変わらないのだから。

「かあさま、かあさま! お客様がいらっしゃいましたわ。」

 終ぞ現れないだろう皇女ひめみこの父―――夫を想って、屋上で祈っていると、お転婆に育った娘が、一人の老人を連れて走ってきた。

皇女ひめみこ! またお前は、一人で街道まで行って!」

「だってかあさま、『呼ばれた』のですもの。迎えに行って差し上げなくては。―――さあどうぞ、旅のお方。今夜は我が家にどうぞお泊まりになって下さい。」

 また勝手にそんなことをして、と、母は溜息をつきながらも、客人を持て成す為に階下へ降りた。

 顔を見て、母はすぐにその旅人が、ダマスコで奇跡に逢ったという、元パリサイ人であることに気付いた。彼は奇跡に遭遇して神に逢い、改心した小人であった。

「まあ、貴方がダマスコで奇跡に逢った人ですね。お噂はかねがね…。」

「エフェソに、他の人々の信仰の灯明になる素晴らしい女性がいると聞き及び、是非こちらにお伺いする導きが在るように祈っておりました。初めまして、姫君。」

「まあ! そんな呼び方、どこでお知りになりましたの? 懐かしいですわ、もう御母堂様も被昇して久しく、私を姫と呼ぶ者なんて…―――。」


 ひいさん、ひいさん、おひいさん!


 嘗て、不器用に、自分を誰よりも愛してくれた夫を思い出し、涙ぐむ。ぷい、とそっぽを向いて袖で涙を拭い、すみません、と言って、台所に走った。

 台所には一人しか立てないので、皇女ひめみこは客人の元へ戻り、一番熟した葡萄ぶどう酒を持ってきた。旅人の前に杯を置いて、彼女は瓶を頭より高く掲げ、言った。

「主、願わくは 我らを祝し、また主の御恵みによりて我らの食せんとする、この賜物を祝し給え。我らの主神と共に居られる御子インマヌエルによりて 願い奉る。御言葉通りになりますように アーメン《。」

「―――その祈り、どこで! その、今祈った言葉だ。なんと素晴らしく簡潔な祈りであろうか。その祈りの文言を考えた者は、さぞや敬虔な我らの兄弟に違いない。」

「んんん? そんなに変なのかしら。私はかあさまとおばあさまから教わったわ。でも、かあさまは、おばあさまから教わったんじゃないのですって。」

「では誰が。」

 すると皇女ひめみこは、ちらりと台所を見てから、答えた。

「悪霊ですわ。私は悪霊に嫁いだ、かあさまから産まれたのです。」

「お父上が? 何故悪霊などと。私は主の霊に会って話をしました。あの霊は聖なるものです。お父上は聖なるものと一つになって、現れたはずなのです。悪は分裂を呼ぶ者、善を欠如した不完全な善。神との一致や共同体と一致するための祈りは唱えられません。」

「おとうさまは、主を騙ったのです。御母堂さまのことを、私は覚えてはいませんけれど、御母堂さまは私のおとうさまのおかあさまではないのです。私はもう一人の神と共に居られる子インマヌエルの娘なのです。」

「まさか、貴方はそんな穢れに染まっているようには見えません。こんな目の悪い老人でも、貴方が神の光に護られているのが分かります。もし貴方の事を悪霊の娘だと言う者がいるのなら、それこそ貴方という一人の主の花嫁のことを見ていないのです。」

旅人は彼女の手を握り、宣言するように言った。

「貴方のように、罪を被せられた女性がいるこの共同体は、最も天の門へ近いでしょう。貴方方のような人々こそが、神の国を継ぐのです。今、天の門はこの共同体に最も大きく開かれているのです。貴方のように虐げられ、無辜の罪を着せられた人々は、ローマ皇帝の元これから続々と出てくるでしょう。故郷を持てないような人々、故郷の分からない人々、貴方は父親という故郷を知らない人々の為に祈っておられる。誇りなさい、天国は貴方のような人のものです。そのような時代が来るのです。」

 ―――やがて貴方は女神という偶像に貶められるだろう。それは貴方が『インマヌエル』の娘だからに他ならない。しかし、貴方はそのように産まれるべしと神に望まれ、産まれた。神によって、神を誇れ。我らに誇れるものは、他に何も無い。我らは等しく、空しい者だから。

 

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