心に触れる者

 沈静した炎を掻き分けるように、ダーダーが姿を現した。光来はルシフェルをダーダーに向けたが、撃つことはできなかった。シオンの襟首を掴んで引きずり、頭に銃口を当てていたからだ。


「お前がキーラか……」


 抑揚のない喋り方に、全身に寒気が走った。攻撃を受けたことを意にも介さない動き。リムの魔法がまったく効かなかったのか? しかし、ダーダーの脚は火傷により、皮膚が裂け、肉が露出し焼け爛れている。直撃ではなかったにせよ、ブレンネンの炎は、ここまで凄まじい威力を発揮したのだ。

 これだけのダメージを負って叫び声一つ上げないとは、とてつもない強靭な精神の持ち主なのか……? いや、そうではないと、頭に浮かんだ考えを瞬時に打ち消した。

 気力で痛みを封じ込めているならば、凄まじい気迫や眼力が迸り出るはずだ。このダーダーには、それが一切ない。初見の時にも思ったことだが、この男からは、生き物が醸し出す生命力というものがまるで感じられない。

 いったい、こいつは? 本当に生きている人間なのか? 

 少しでも気を緩めると、歯が噛み合わずガチガチと音を鳴らしそうだ。ぐっと奥歯を食いしばり、怖れを噛み砕こうとした。


「聞いているぞ……素早いそうだな。しかし、どんなに早かろうと、この娘の脳天に見舞うより先に撃つのは不可能だろう」

「……なにが目的だ?」

「その娘、リムといったな? 彼女をトートゥで撃て」

「なんだと?」


 まったく予想していなかった言葉に、一瞬、頭が白くなった。


「お前の魔力が見たい。トートゥだ。私も長らく魔法に携わっているが、見たことがないんだ。お前、トートゥを持っているのだろう。自分で精製できるのではないか?」


 光来は衝撃を受けた。トートゥを精製できるのは、光来とリム、二人だけの秘密だ。他に知っている者がいるはずがない。


「……そんなこと、できない」

「ならば、この娘が死ぬことになる」

 ダーダーは掴んでいたシオンの襟首を乱暴に引き寄せ、銃口を押し付けた。

「ルーザの記述に則り、魔法で殺人はできない筈だ」

「ほう、お前がルーザを語るか」


 ダーダーの口元が歪んだ。初めて見せた表情の変化だが、笑ったのか侮蔑したのか、光来には判断が付かなかった。

 落ち着け。考えろ。この状況を打破できる策はないか。奴は俺の魔力を見たがっている。つまり、銃を撃つチャンスがあるということだ。一度リムに銃を向けて、撃つフリをしてダーダーを狙撃する……。再び人を殺めてしまうことになるが、リムとシオン、それにワイズを助けるためだ。覚悟を決めろ。

 如何にも観念したように、ゆっくりと息を吐きながら銃をリムに向けた。

 ダーダーは、ぐいと更にシオンを引き寄せ、冷笑を浮かべながら呟いた。


「試してみるか?」


 その一言は、まるで終身刑を言い渡された囚人のように、光来のすべてを固まらせた。動きも、企みも、何もかもだ。

 駄目だ。読まれている。

 ダーダーの指先に力が掛かった。


「やめろっ!」


 腸が煮えくり返るという表現があるが、腸どころではない。頭のてっぺんから指先まで、煮えたぎった溶岩のような感情の濁流が押し寄せた。光来は、生まれて初めて殺意というものを感じた。そのくせ、延髄の部分だけは冷やされた水滴を垂らされたように、筋肉が萎縮している。

 こうなったら、一か八か……。自分の抜き撃ちの速さに賭けてみるしかない。企てを見破られて、なお、こいつに一撃を喰らわせてやるだけのスピードを、俺は持っている。ネィディ・グレアムと決闘をした時と同じ状況だ。今度はコインによる合図はないが、互いのほんの僅かな動きが合図となる。

 大広間の空気が急速に緊張の濃度を高めていった。まるで時間が停止し、この世に室内の四人しか居なくなってしまったみたいだ。このままでは、水が氷結時に亀裂が入ってしまうように、精神が壊れてしまいそうだった。

 ……思い込みでトートゥに書き換えるのではない。自分の意志でこいつを殺してやる。

 殺意で視野が赤く滲む。光来の精神がどす黒く染まりきる直前、止まった時を再び動かしたのは、リムの細い声だった。


「ここ……」

「リムッ」


 光来は、指先に溜めていた力が抜けるのを感じながら叫んだ。同時に、心を喰らいつくそうと拡大していた憎悪も、その進行を止めた。


「ここを狙いなさい」


 驚いたことに、リムは自分の胸を指差した。


「何を言ってるんだ? リム」

「彼の者は、心の機微に敏感よ。自分の可能性を信じなさい」


 消え入りそうなリムの声から力を感じた。

 これはサインだ。数日間、行動を共にしてきた二人の間だからこそ伝わるサインだ。しかし、言外の意図を汲み取れても、光来には、それに応じる自信がなかった。


「リム。無理だ。君を撃つなんて。魔法を操るなんて。自分を信じるなんて。お……お……俺は」


 ふいに涙が溢れてきた。喉の奥から何かがこみ上げ、声が上手く出せない。


「じゃあ、私を信じて。彼の者でも、自分でもない。あなたの目の前にいる私を信じなさい」


 母親が泣いている我が子を慰めるような温かい声だった。ふと光来の脳裏に遠い日の記憶が過る。森の中で泣きじゃくっていた俺に、救いの手を差し伸べてくれた慈愛に満ちた声……。


「何をコソコソと話している? 撃つのか? 撃たないのか?」


 光来は、精一杯の睨みをダーダーにくれ、歯を食いしばりルシフェルをリムに向けた。何をしても避けることなどできない至近距離。狙いはリムの指示通り、心臓のある位置だ。

 銃口から魔法陣が発生する。呼吸が荒くなり、魔法陣の拡がりに比例して、鼓動が速くなる。

リムの心臓を撃ち抜く前に、自分の心臓が破裂してしまいそうだ。


「トートゥだ」


 ダーダーの無慈悲な声が頭上から降り注ぐ。しかし、その声さえ届かないほど、光来は集中していた。今、光来の頭の中には一つのイメージしか浮かんでいなかった。

 リムを助ける。リムを助けて、また一緒に旅をする。俺達が目指している場所まで二人で辿り着く。

 強くイメージしろ。強く、もっと強く。もっと、もっと、もっとだ。

 意識が遠くなるほどの集中力を発揮している最中、光来は何者かに触られていることに気づいた。いや、触られていると表現していいか判断できなかった。体のどの部分に触れられているか説明できなかったからだ。しかし、確かに触れられている。

 こいつが……そうなのか?

 光来の心の奥底に沈殿していたものが、一気に開放された。

 彼の者……お前が何者か知らないが、心を読み取るのなら俺のイメージを顕現してみろっ。

 ルシフェルの銃口に魔法陣が発生した。それは瞬く間に拡大し、まるで光の盾のように見えた。


「くっ!」


 魔法陣が限界まで拡がると同時に、光来は引鉄を引いた。銃声と共に発射された弾丸がリムの身体を貫いた。発射時と同様の魔法陣が生じ、物凄い勢いで拡がると、弾け飛ぶように砕け散った。凄まじいまでの力の解放だった。圧縮された空気が詰まった容器が破裂したような、圧倒的な魔力の奔流だった。

 彼の者の存在は既になく、光来は自身が光の渦の中に放り込まれたような錯覚に動けなくなった。一秒か二秒か、それとも、もっと刹那的な出来事だったのか……やがて視覚が戻り、室内は元の静寂さを取り戻した。

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