七十三話 露天風呂

 平時であれば人で賑わっている更衣室には人っ子一人いない。

 すみませんと言って着替えている人のすぐ横を通り抜けるやり取りもなく、極めて快適と言える。


 もちろんロッカーも全て空いているので選び放題だ。

 胸程の高さのロッカーを開けながら、俺は先ほど笹峰さんから受け取ったトートバッグをすぐ傍の丸椅子に置いた。

 シャツを脱ぐと、微妙に汗の臭いがしてくる。


 ……着替えがあってよかったな。


 中学の時の水泳の授業の時、脱ぐ時は気にならなかった服の臭いが着る時はやたら気になったときのことを思い出した。


 誰も利用していないから床も濡れていなくて快適だ。

 俺は服とトートバッグをロッカーに入れ終えると、タオルを手に更衣室を後にした。


 だだっ広い浴場は閑散としていてお湯の流れる音だけが聞こえる。

 七星さんの家で風呂に入った時もそうだったが、個人の風呂と公共の風呂とではやはり感じ方が変わってくる。

 物凄く偉い人になったんじゃないかという感慨すら覚える。


「ま、偉いのは俺じゃないんだけどな」


 今すぐにでも湯船に飛び込みたいが、ここはジッと堪えて先にシャワーへ向かう。

 髪を洗いながらぼんやりと思う。


「髪、切らないとな」


 少し目にかかるぐらいの長さだが、もう夏で暑苦しいし、何より七星さんの誕生日パーティーの件もある。

 最低限身だしなみは整えておかないと。


 体を洗い終えて入湯の準備ができると、俺は目の前の浴槽ではなく、露天風呂のエリアへと足を向けた。

 冬場なら一度室内で温まってからだが、夏場なら大丈夫だろう。


 ガラガラとガラス張りの扉を開けて外に出る。

 もう夏だというのに、外の空気が少しだけ涼しく感じられる。


 俺は露天風呂の中でも一番広い、檜風呂にゆっくりと入る。

 タオルを額に乗せ、浴槽にもたれかかるようにして上を見上げた。


「ふぁああ~……」


 じんわりと体の内側から何かが抜けていく感覚がする。

 手足の感覚が少し曖昧になる。


 誰もいない、静かな露天風呂。

 水音と風が木の葉を揺らす音だけが耳朶をくすぐる。


「これが貸し切り、か……」


 絞り出すような声でポツリと零す。

 七星さんが貸し切りにしたと聞いて、人がいると休まらないなんて金持ちらしい考え方だなと若干思ったが中々どうして悪くない。

 人が入ることで不規則に湯が揺れることもないし、話し声も聞こえない。

 本当に山奥の露天風呂に浸かっているかのような感覚になる。


「後で整うってやつもやってみるか……」


 サウナに入り、水風呂に入り、外で寝転がって、またサウナに入る。その繰り返し。

 体に悪そうだと思っていたけど、人もいないんだし試してみるのも悪くない。


 頭の中からすっかり試験のことは抜けきって、この贅沢な時間をゆっくりと楽しんでいた。

 ――と、その時。


 ガラガラガラ、と。

 柵と木々で覆われた隣のエリアから扉が開く音が聞こえた。


「わー、やっぱり露天風呂はいいわねっ」

「アリス様。人がいないからって走らないでくださいね」

「走らないわよ!」


 扉の音に遅れて二人の女性の声が聞こえてくる。

 というか、七星さんと笹峰さんだ。


 それまで湯船に浸かってぐでーっと溶けていた全身が一気に硬直する。

 反射的に水音を立てないように固まって耳を澄ませていた。


 対照的に隣からは二人が湯船に浸かる水音が聞こえてくる。

 ふわぁ~という気持ちの良さそうな声まで零れている。


 半ば現実逃避気味にどうして隣から――と考えて、すぐに気付いた。


 男湯の隣には女湯がある。それがこの世の真理だ。

 普段は喧騒の中で掻き消えてしまう音も、貸し切りで誰もいなければその限りではない。

 つまり、今この状況では女湯の音は筒抜けということになる。

 それは逆もしかりだ。


 一層全身を強張らせて音を立てないようにする。

 いや、男湯に入ってるだけなんだから別にこそこそする必要ないだろうとは思うけど、理屈じゃない。理屈じゃないんだ。

 なんか普段聞こえない女湯の音を聞いているのは覗きをしているみたいでバレたくない。


 俺は息を顰めながら頭の上のタオルを目元に被せ、二人が露天風呂を出ていくまで心を無にして過ごした。

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