七十四話 温泉の醍醐味
「赤坂さん、大丈夫ですか?」
くらくらとする頭を腕で押さえながら施設内の休憩スペースで横になっていると、七星さんが気遣わし気に覗き込んできた。
その際、しっとりとした湿り気を含んだ彼女の白い髪がたらりと垂れ、ふわりといい香りが漂ってくる。
俺は気恥ずかしさから軽く目を逸らしつつ、「大丈夫」と強がった。
あの後、何を隠そう俺はすっかりのぼせてしまった。
風呂はどちらかといえば好きだが、それでも俺はあまり長風呂はしない。
そんな俺が七星さんたちが出ていくまで湯船にずっと浸かっていたのが良くなかったんだろう。
脱衣室を抜けて風呂上がりの七星さんたちと合流すると、足取りがふらついていたのか心配されてこうして横になっている。
……色々と情けない話だ。
折角七星さんの好意で貸し切りの温泉施設を楽しめるというのに。
なおも心配そうにしている七星さんにあらぬ誤解を抱かれないよう、俺は口を開いた。
「誰もいない温泉が思っていたよりよくて、つい長風呂しちゃったよ」
俺がそう言うと、七星さんは少し安心した様子だった。
やっぱり心のどこかでもしかしたら自分が急に連れてきてしまったから、なんて気を揉んでいたんだろう。
……まさかすぐ隣から聞こえる七星さんたちの気配に身動きが取れなくてのぼせたなんてことは絶対に言わないでおこう。
そうこうしていると、遠くから人が近づいてくる気配がした。
「赤坂様、こちらをどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
現れた笹峰さんが差し出してきた水を受け取ってごくごくと飲む。
その水の美味さといったら筆舌に尽くしがたいものがあった。
水分補給をして少し休んだからか、ある程度気分も落ち着いてきた。
だから、余計なことに意識が向いてしまう。
七星さんも笹峰さんも、当然のことながら風呂上がりだ。
上気した頬。少しゆったりとしたワンピースの隙間から覗く肌は赤く火照っていて、どこか扇状的だ。
――ふと、先程の出来事がフラッシュバックした。
隣からなまめかしく聞こえてくる女風呂の物音と二人の声。
風呂だから当然二人とも裸なわけで――。
……って違う違う違う!
再び熱くなった顔を冷ますようにぶんぶんと頭を振る。
そうしていると、「だ、大丈夫ですか?」とまたしても七星さんに心配されてしまった。
「大丈夫、本当に大丈夫だから。……っ、そうだ、温泉に来たからにはあれをしないと!」
半ば強引に話題を逸らしにかかる。
俺が上体を起こしながら言うと、七星さんは小首を傾げた。
「あれ、ですか?」
「あれだよ、あれ」
俺は二人を伴って再び脱衣所の近くへと向かう。
ジーッと小さな機械音を発するそれに近付く。
温泉施設には必ずある、今はもうここ以外では見ることの少ない容器に詰められた飲み物が売っている自動販売機。
――そう。言わずもがな、牛乳だ。
そこへ近付くと、笹峰さんは納得したような様子で、七星さんはまだ得心が行かない様子で自動販売機を覗き込んでいる。
その様子に俺はやっぱりかと思った。
以前、公園でおにぎりを食べている時、羨ましがられたことがあった。
買い食いをする習慣もないのだろう。
温泉施設には来たことがある様子だが、それでも貸し切りにしているみたいだし、こういう自動販売機で飲み物を買っていなくても不思議じゃない。
俺は自動販売機に歩み寄りながら、得意げに七星さんに言う。
「温泉に入ったらこれを飲まないと温泉の楽しさが半減するんだよ」
「そ、そうなんですか?!」
「そうそう。飲んだらわかるよ。――何飲む?」
懐から財布を取りだしつつ、七星さんに訊ねる。
七星さんは慌てて「そんな、ご馳走になるわけには」と言い出したが、それはこちらの台詞だった。
「ここぐらいは出させてもらわないと、なんというか何かがダメになる気がする」
といっても七星さんに今まで出してもらった額と比べると、それこそ比較にならないほど少額だが。
俺の自己満足に満ちた提案に、七星さんは渋々といった様子で承諾してくれた。
それから自動販売機をひょこりと覗き込み、形の良い眉を寄せた。
「あの、赤坂さん、どれにすればいいんですか?」
自動販売機内には牛乳とコーヒー牛乳、それとフルーツオレが入っている。
「ここは人によってわかれるところかな。俺はいつもコーヒー牛乳を選ぶけど」
「で、ではわたしもそれにしますっ」
「了解」
食い気味に被せてきた七星さんに了承の意を伝えながら小銭を入れて目的の番号を入力する。
ガタンという音と共に取り出し口に落ちたコーヒー牛乳を七星さんに渡すと、彼女は両手で丁寧に受け取りながら「ありがとうございますっ」と微笑んだ。
「あたしはフルーツオレでお願いします」
「……はい」
何故か笹峰さんにも奢る流れになった。
まぁいいけど。
それぞれ片手に牛乳瓶を手にし、向かい合う。
そして、「いただきます」と小さく口にしてからゴクゴクと一気に仰いだ。
俺の姿を真似して七星さんも続く。
ぽかぽかとした体にコーヒー牛乳の冷たさと甘み、そしてごくわずかに存在する苦みが染み渡る。
俺は一息に飲み切ると、プハァッと声を零した。
「うめぇ……」
やっぱり温泉に来たらこれを飲まないとな。
よく大人が風呂上がりに近くの食堂でビールを飲んでいる姿を目にすることがあるが、俺は多分一生コーヒー牛乳を飲むような気がする。
チラリと七星さんを見ると、最初は上品に飲んでいたものの、すぐにゴクゴクと勢いよく飲み始めた。
そして飲み終えると、ほぅと小さく息を吐き出してとても嬉しそうに俺を見上げてきた。
「凄く美味しいです! ただのコーヒー牛乳なのに、普通とは違う味がします」
「七星さんもこの魅力に気付いてくれたようでよかった」
気に入ってくれたようで何よりだ。
「陽菜、このメーカーさんに後で連絡しておいてちょうだいっ」
「はい」
「え」
おかしな会話が聞こえてきた。
……いや、たぶん自宅で飲んでも美味しいとは思うけど、こういうところで時々飲めるから美味しいのであって。
とはいえ、七星さんがとても楽しそうに笑っているので俺はそれ以上の追及をやめておいた。
◆ ◆
その後、七星さんが手配してくれたマッサージを受けたり休憩スペースでのんびりしたり、食堂で夕食をとったり(結局七星さんに出してもらった)しているうちに帰る時間になった。
正直名残惜しいがいつまでもいるわけにもいかない。
すっかり緩み切った空気が流れる帰りのリムジンの車内。
俺は七星さんに改めて向き直った。
「七星さん、今日はありがとう。……いや、今日だけじゃないけど、いつもありがとうな」
試験の結果がどうあれ、自分一人ではここまでやれなかった。
そのことも併せての感謝の言葉。
俺が真っ直ぐに七星さんに告げると、七星さんは小さく微笑んだ。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
一体何の感謝だろう。
俺は不思議に思いながら、ぼんやりと車窓の景色に目を向けた。
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