クム、クム、クム(双子の男第一章外伝)

 三日前、愚かな男が死んだ。

 男は逞しかった。男は正しかった。男は常に、神と共に在った。神は男と共に在り、男によらずに救われた者はいなかった。

 彼の愛を、社会は認めず、死罪を言い渡した。


 目を開いて、この三日間、自分の身体に巻き付いていた亜麻布を見下ろす。中身だけが消えた亜麻布は、きれいに巻かれた状態で、萎んでいた。墓の中は暗く、じめじめと湿っている。

 墓を閉じている岩を通り抜けて、ぺたぺたと歩いた。目指すはヨルダン川。そこに、彼の愛する者が、黄泉に引き渡されているのだ。あの者を元に戻さなくては。あの者は、まだ生きねばならぬ。これから訪れる歓びに、あの者は触れねばならぬのだ。

 歩きながら、あの者とのやりとりを思い出す。理性の人であり、恋の人であり、律法の人であり、堕落の人であるあの者は、神の救いについてもよく聞かされていて、然るに自堕落な自分を律さなければ、神に愛されず、救いがないと知っていたのだ。弱く、愚かな自分を正そうとして、救いの業から零れる事に怯えていた。

 愛しい愛しい、私の弟子。今あの者は、凍り付くような絶望を抱えて、水底にその長い髪を揺らし、横たわっている。はやくはやく、助けてやらねば。あの者が私を助けようとした時のように、自分も脚に傷を負いながら走る。はやくはやく。あの可哀想な私の弟子を、黄泉から取り戻さなくては。

 これより先にある使命は、決してあの者を安らがせる為のものではない。だから取り戻さなくては。私の下から遠く離れても、私に確かに愛され、選ばれ、救われたのだと言う事だけしか、あれの心の拠り所はなくなってしまうのだから。

 今行くよ。もう少し、待っておいで。お前の受けた傷を、今私も追いかけているから。


 深い川が、静かに流れている。夜の帳に包まれた川の水面には、空よりも多い数の星屑が光っている。止まっているかのように静かなそこだが、さりとて決して、そこは穏やかな場所ではない。この世の終わりに滅ぼされる事への絶望、贖いようのない罪を犯した後悔、惨憺たるこの世の地獄を嘆いた涙と、それでもこの地に生きようとした、私を通して救いを得んと迸った血潮が、渦をいくつも作りながら、流れてきている。

 嗚呼、死して尚、泣いているのか。死して尚、逃れられぬ定めだと嘆いているのか。死の眠りの中で、悪夢に苛まれているのか。涙と血の渦を、一つ一つ踏みつけて壊しながら、その源に歩いて行く。

 一つ渦を壊す度に、千切れて細切れになった涙が、ふわりと解き放たれて私の爪先の間から縋ってくる。一つ一つ指で救って、涙を労ってやると、涙は満足して、私の中へ入って行った。

 この胸が再び創り上げられて最初に感じたことは、この涙の流れた思いだった。最も後に在るものが、最も先に来るのだ。当然と言えば当然であろう。

 最も後ろめたい者が、後に来るのだから。最も遠くに居る者が、最後に辿りつくのだから。

 自信に満ちた者、救いの近くにいる者に、救いは歩み寄る必要はない。

 ―――見つけた。

 腕に罪より重たい岩を抱え、半開きの瞼から、今でも涙が流れている。その瞳は罪に汚れ、清らかで透き通ったあの白い瞳ではない。口からは紡がれていくように、細く、細く、血の糸が流れ続けている。首も胸も腹も、空気は無くなり水で満たされ、大きく膨らみ、肌が裂けそうにまでなっている。服の下半分は、腸から水に押し出された汚物が出たらしく、黒ずんでいた。既に水に入って、三日は経っている。清い魚はこの人を避け、穢れを好む魚が近づいてきている。川はそこを起源として澱みが生まれ、先程歩いて潰してきた穢れの渦が、今も目の前で造られている。

退け。」

 そう私が命じた。すると、岩はしっかりと抱きかかえられた腕から逃げ出し、私の言った通り、この人の隣に退いた。ゆっくりと体が浮かんでくる。膨らんだ身体が水面に出ると、ぐっとした臭いがした。手でその臭いを払いのけ、私は言った。

退しりぞけ。」

 そう私が命じた。すると、この人に満ちていた水は、目頭や耳や鼻や口は勿論、爪の間や股間や尻からも、全て流れて退いた。抱き上げたその身体の、なんと軽い事だろう。あんなにも重苦しかった死体は、今では雨に打たれただけのようになっている。岸に降りて、そっと横たえ、目が覚めた時に苦しくないように寝かせてやる。

「動け。」

 そう私が命じた。すると、止まって小さく縮んでいた臓腑が動き出し、胸が動き始めた。唇が僅かに開き、硬直して丸まっていた指先がぴくぴくと動く。

 もう少し、もう少しで、お前に逢える。目を交わせられる。言葉を交わせられる。

「巡れ。」

 そう私が命じた。すると、枯れた熱泉が心の臓から勢いよく吹き出し、灰色の身体がさっと赤みを思い出す。

 はく…っは、く…っはくは…っ。

 呼吸がまだ不規則だ。指先は赤いのに、震えている。そうか、今は夜だから、寒いのだ。

「おいで、私の鳩よ。火を持って来ておくれ。」

 パサパサッ…。

 私が呼びかけると、一足先に、私のために遣わされた、私の鳩が、オリーブの枝についた火を咥えて来た。よしよし、と、それを受け取ると、鳩はすぐに意味を理解し、もう一度飛び立ったかと思うと、またすぐに戻って来て、大量の柴を持って来た。これで焚火が熾せる。

「くるくる。」

「おや、懐かしいのかい?」

「くるくるる。」

「そうか。でもまだ駄目だよ。まだ、呼吸が落ち着いていない。」

「ぽう。」

「そうせかすでない。お前の考えていることなど、既に考えている。」

「ぽう…。」

「火をもっと焚いておくれ。この子が寒くないように。」

 鳩はとことこと焚火に近づいて行った。入れ違うように、私が隣に座る。私が水に退けと言ったので、髪も服も乾いている。それでもこの人は凍えている。人のぬくもりを誰より求め、そして罪が暴かれるのを誰よりも恐れている。

 かわいいかわいい、私の弟子。

「ふ…。む。」

「んん…こほっ。」

 大きく息を吸い込み、唇を合わせて息を吹き込む。吹き込めば吹き込むだけ、胸が膨らみ、腹が膨らむ。唇を離すと、音を立てて湿った息が逃げていく。否、自然に還って行くと言うべきか。

「ふ…っ、ふー…。」

「はー…す、はー…す、…」

 それでも徐々に、身体が呼吸を思い出してくる。私の息が、彼を生き返らせていく。

「すー…、ふぅー…っ。」

「ふ、…ふ、…ふ…っふあ…」

「すー…、ふぅー…っ。」

「う…ん…っ。」

「そうだよ、もう少しだ。思い出してご覧。」

「む…ん。」

「………やれやれ。じゃあ、思い出すまでやってあげようね。すぅ、…ふー…。」

「ん…んんっ、ぐ、かはっ!」

 林檎の芯が飛び出すかのように、大きく噎せる。身体はだらりと地面に伸びて、顎が反り、胸が大きく開いている。腹の傷口に触れ、この傷を負った時の気持ちをすくい取るまま、まだ匂いのしない胸に顔を埋める。小さく、規則性もまだ不安定なその音は、確かに私が命じた通り、動き、巡っていた。

 私の言葉を聞き入れるのに、私の言葉を受け入れなかったこの頑固さを、私は愛おしいと思う。

 私の奇跡を受け入れるのに、私の救いは信じられなかったこの弱さを、私は愛しいと思う。

 そして、私の行動を信じるのに、私の予言を聞き入れられなかったこの脆さを、私は愛すると誓う為に生まれたのだ。

「戻っておいで。誰もお前を裁かない。私も、天の父でさえも、お前を裁かない。」

 戻っておいで。戻っておいで。戻っておいで。

 胸に頬擦りして呼びかける私の背中に、熾ゆる炎の着物を下げて光る鳩が留まる。指に乗せ、彼が望むままに、この人の頭に近づけた。鳩はこの人に口付けようとしたが、自分のくちびるが硬く鋭い事に気付くと、嘴の先から涙を落とした。友に口付けるくちびるさえ失った私の鳩を胸に抱きしめ、よしよしとその嘴を撫でて、くちづけた。

 しばらく鳩は、どうにかして友を抱き締められないか、触れられないかと試みたが、翼になった腕は短く、羽になった指は柔らかすぎて、舌も短く、声は賛美の歌しか囀れなかった。いまだけでも、と、乞うように見上げられたが、駄目だよ、と、私は首を振った。

「もうすぐ目が覚めるだろう。喉は息を思い出し、心臓は労働の恩を巡らせ始めた。あとは見守っていよう。ずっとこの人に触れていたいのは、やまやまだけどね。………くしゅん!」

「くるっぽー!」

「ああ、すまない。私が全裸だった事を忘れていたよ。お前、ちょっと私の胸にいて、ぬくめてくれないか。焚火があっても、まだ寒い。おお寒い。」

「くるる。」

 鳩を胸の前に引き寄せた両膝の上に乗せ、膝ごと鳩を抱きしめる。鳩は私の冷たく冷えた肌に、ぷるりと震えたが、すぐに逆に温かくなってきたようで、うとうととその場で鳩歩きをし始めた。時々大きく頭を垂れて、また起きる。その繰り返しだ。あまりにもおかしくて、私は言った。

「良いよ、柴を集めて疲れただろう。ゆっくりお休み。私の為に働くには、休まなくてはならない。今、お前は休むべきで、そしてこの人はこれから働きに行く。ただそれだけなのだから。」

「くるくる。」

 鳩は笑って、心成しか私の胸に項を擦り付けて目を閉じた。


 愛しい我が神の子よ、目覚めなさい。その憧憬を、現実にする力が今ここにある。

 光の方へ、私の使いが導く光の先へ至りなさい。私はそこにいる。


 三日前、愚かな男が死んだ。

 男は逞しかった。男は正しかった。男は常に、神と共に在った。神は男と共に在り、男によらずに救われた者はいなかった。

 彼の愛を、社会は認めず、死罪を言い渡した。

 パチパチと音がする。ゲヘナの炎だろうか。否、ゲヘナの炎が弾ける音がこんなに小さい筈がない。重たい瞼を開くと、焚火の炎の向こうに、中年の男が座っていた。何故か全裸で。腕の中に、白い鳩が、火に怯える訳でもなく、心地よさそうに眠っている。

「ああ、気が付いたんだね。気分はどう?」


 『双子の男Ⅰ 暁闇の二人』へ続く 

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