エッケ・アマンティウム~双子の男外伝
PAULA0125
先取りの羊(本編前日譚)
嘗て、預言者は見たという。
暁に輝ける子が、空から落ちていって、その栄光をもがれていく無様な有様を。しかしそれはきっと、美しい宝石や光り輝く紫の衣を剥ぎ取られた惨めな男を、ざまあみろと笑っている醜い様を、美しく描写しているだけにちがいないのだ。人とは、そういうものだから。
「はい、じゃあ確かに九十九匹、羊を返してもらったよ。ご苦労様。今日の給金だ。」
「おい丁稚、何で一枚なんだよ。昨日は二枚だったじゃねえか。」
「良く見ろこの乞食羊飼い。昨日とは絵柄が違うだろ。市場に行けば同じ額だ。」
「冗談じゃねえぜ、昨日旦那はちゃんと綺麗な銀貨を二枚くれたんだ。お前、旦那から俺に寄越す給金をくすねたんじゃねえのか。一枚と二枚じゃ、二枚の方が多いに決まってんだろ!」
「うるせえ浮浪者! 羊の血ィお前に引っかけてもいいんだぞ! さっさと帰れ、字も読めないくせに! 明日来なかったら二度とうちの羊は追えないようにしておくからな!!」
監督を任されていた羊が減っていれば、唯でさえ少ない食扶持が、更に減るかもしれない。ぐぬぬ、と、悔しさを飲みこんで、踵を返すしかなかった。手の中に握られた錆びついた銅貨を握りしめ、明るくなり始めた夜空に向けて歩き出す。星は消えかかり、空は覆うものから、暴くものへと変わり始める。夜の羊の番を終え、一人分のパンも買えるか分からない金が、その日の朝食になる。夕食は羊たちと一緒に、羊と同じものを食べる。人並みのものが口に出来るのは、井戸水くらいだ。それにしたって、人に見つからないように汲みに行かなければ、石で追い払われる。
少し揉めたから、恋人を待たせてしまっている。不浄な二人を覆ってくれる闇はもう薄い。いつも羊を監督する自分達が当たる薪が、見えるのだと笑っていたあの場所に、まだいるだろうか。誰か死んだ羊飼いか、誘惑に負けて立ち去った修行者かが建てたあの掘立小屋に、いるだろうか。
羊たちを連れて行った谷川の水の流れる地から、東へ東へと走る。徐々に草は枯れて行き、減って行き、樹は萎れて細くなって、ついには倒れて罅割れる。生き物の到底いられないかのような東の果てに、自分を選んでくれた恋人は待っている。双子の男として、愛し合う男女を見ずに暮らしていた自分を見つけ出した、暁闇の光たるあの人が。
丘に掘立小屋があるのが見えてきた。もうすぐ会える、あの人がそこにいる。逸る気持ちが身体を引きずって、心が焦って汗をかく。小屋が後数歩というところで、そっと扉が開いて―――愛しい恋しい、恋人が姿を見せた。
「お帰り!」
「ただいま!」
扉の中へ押し込む様に恋人を抱きしめ、光が糸のように垂れてくる小屋の中で深く口付ける。
「ん…っん…。」
「ふ…、―――会いたかったよ。」
「わたしも。中へ入って、一緒に食べよう? お腹すいた?」
「ああ、腹ペコだぜ。でも今は―――。」
答えを待つ間もなく、抱き寄せた厚く逞しい背中をきつく抱きしめ、二人の胸の間に潰されている恋人の掌を擽る。熱っぽく指が絡んでいって、指先に操られた唇が動く。もう片方の腕が、ずっと取り替えられていない汚い服を掴み、下へ引っ張って抱きつこうとする。指先を上から握りしめ、手の甲の方から指を絡める。
「…しゅけべ。」
「しゅけべでしゅ。」
「でも今はご飯がいい。どっかの誰かさんが何かやらかしたせいで、わたしはそんな体力がなくなってるんだ。」
「ああ、それじゃあ仕方ない。持って来てくれ、一緒に食べよう。」
軽くくちづけを交わして、まだ暗がりが残る所から籠を持って来て、布を取り払った。パンが五つと、魚の干物が二つ、それに、無花果が一つと、ぶどう酒が小さな壺に一つ分。
「今日は豪勢だね。いただきます。」
「………。あーん。」
「はい。」
パンを千切ると、固くなったパンがぼろりと崩れた。恋人には一口大に千切った方を口元に持って行く。恋人はぱくんと指ごと口に含み、指先に付いた小麦粉まで、ぺろぺろと舐めた。
「………あのさ。」
「ん?」
「そういうことされるとさ。」
「うん。」
「ちんこ爆発する。」
「知ってる。お仕置きだよ、わたしをこんなに待たせたんだからね。」
「今日は手厳しいな。なんかあったのかい?」
「………。」
恋人は何も言わなかった。ただ、もう一口をおねだりしたので、もう一度千切って口に入れた。それを繰り返していると、いつの間にか自分の分のパンは無くなっていた。恋人は、パンを五つも、文字通りぺろりと平らげてしまった。
魚は二つあったので、二人で一つずつ手に取ったが、又しても恋人は、自分の分を千切って寄越すように口を開けた。但し、今度は自分にも、魚を千切って分けてくれたので、漸く朝食にありつくことが出来た。無花果は、一つしかなかったので、一口ずつ齧って分けた。最後に葡萄酒で口の中の食べ物をごっそりと腹に入れたが、自分はあまり腹が膨れなかった。なにせパンは、崩れて地面に落ちたものしか食べていないのだ。
「お腹、いっぱいにならなかったよ。」
そう言ってむくれると、恋人は深々と口づけて、自分の腰骨の上に跨った。服の上から、お預けを喰らって期待ばかり焦る身体を撫でて、悦に入るその顔が、僅かに太陽の光で浮かび上がる。
「あとちょっとの間しか、恋人でいられないから。だから、わたしがお腹いっぱいにしてあげる。」
「そりゃ楽しみだ。ずっとお預けだったからね、朝日が全部出るぎりぎりまで、いっぱいにしてくれ。」
「うんっ。…だいすきだよ。」
「俺もだよ。愛してる。―――俺を見つけてくれて、ありがとう。双子の男に生まれて、君に出会えて、本当に良かった。」
「どうしたの? 改まって。」
「君がいつもと、何だか違うからさ。今言っておかないとって、思ったんだ。」
「………。」
恋人の表情は、雲に隠れたらしい太陽の所為で、何も見えなかった。
「わたしも好き。ずっと好き。ずっとずっと、大好きだよ。」
自分の愛の言葉を飲みこんで、恋人は擦り付けるように自分を抱きしめた。
「ふ…は、ん、んんっ…。」
夢中になっている恋人の腰帯を解き、誰かに見られてもいいように、自分の胸と腹に接するところだけを肌蹴させる。首を絞めるように触れる恋人の掌は震えていて、何かを堪えているようにも、愛欲に飢えているようにも感じられた。後者だと勝手に受けとり、触れ合う下腹部に手を伸ばす。もう熱く濡れていて、本当に長い間、我慢させたのだと身体で訴えていた。
「今日、積極的なのは、待たせたからかい?」
「他に何があるっていうのか、心当たりがあるなら、聞いてあげるけど? ―――早くして。」
「そうだね、野暮なことを言った。」
「ん、うー…っ、………!」
いつもより激しく触れてほしい、と、恋人が強請って、掌を重ねてくる。虹のように溢れてくる想いを叫ぶことなど出来ないけれど、ただ意味を成さない呼吸を、嗚咽のような喘ぎ声の理由だけは、真実だった。
溺れた漁師のように
ただ、夜の間だけ恋人でいられる二人が、朝の気配に怯えながら、愛し合っていた。
朝焼けに、遠くに現れた羊たちの和毛が光る。草木の少ない荒野に、今日も神の愛が降り注ぐ。産毛に
「ねえ、ねえほら、起きなよ。」
腕の中の恋人の頬を撫でる。もう外が明るいから、その唇に触れる事は出来ない。その唇が、自分の口髭に当たってはならない。
「ん…キス、してくれなきゃ起きない。」
けれども恋人は、そんな事はお構いなしに背を伸ばし、額を自分の口髭に押し付け、頭を揺り動かした。自分にとって物足りないまま終わった愛撫の続きを施してくれるわけでもないのに、この仕草をされると胸が切なくときめく。
「我儘をお言いでないよ、もう仲間が来る。」
「今ならわたししかいないよ?」
「…もう、仕方のない子羊だね。」
恋人の唇に、口髭がそっと押しつぶされる。けれども決して、毛の根元に薄い皮膚が触れる事はない。それでも恋人は、満足そうに笑って、そして物足りなそうにも笑って、自分の唇を子供がするように押し付けた。
夜の間だけの恋人達は、日の出とともに、人の目が触れるとともに終わりを告げ、次の夜を待つ。けれど自分の上着に塗れた草を払い落して、彼への未練も恋慕も断ち切らなければならない。
愛しい人の幸福な生を、誰よりも望むから。
「ああ、ねえ、そう言えば。」
「どうしたの?」
上着を取り、肌をするすると布の中に隠す。少しも躊躇わず、恋人は言った。
「結婚の日取りが決まったんだ。」
何も言えなかった。
数日後、とある羊飼いが、羊飼いでありながら羊を犯して周り悍ましい愛を叫んだので、石で殴り殺される刑を下された。
ある日、イスラエル王国ガリラヤ地方漁村ベツサイダの会堂での説教に曰く。
人の妻と姦淫する人、すなはちその
当代の言葉に置いての戒めの曰く、
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。云々。女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。云々。このような悪事をあなたがたのうちになくするためである。男がもし、獣と寝るならば彼は必ず殺されなければならない。あなたがたはまた、その獣を殺さなければならない。女がもし、獣に近づいて、これと寝るならば、あなたは、その女と獣とを殺さなければならない。彼らは必ず殺さるべきである。その血は彼らに帰するであろう。云々。
―――レビ記二〇章より。
『双子の男Ⅰ 後朝の二人』へ続く
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