兇行

 男は、深い夜の闇にそびえる無機質な建物を振り仰いだ。

 二十一時。 じぃぃぃん、と、静寂の粒子の擦れ合う音が絶えず鼓膜を震わせている。


 ──あいつも、俺と別れなければ……。


 男の薄い胸の裡に、無念と同情が共存してわだかまった。

 繁華街から逸れた一円の町。 時刻の如何いかんに関わらず、常に人の絶えたような寂寥せきりょう。 鼻先を掠める、どこかえたような匂い。

 元妻の辿った壮絶な末路を脳裏に浮かべながら、男は建物の外階段を上がった。 人目の無さに安堵する反面、孤独の不安と緊張が頭をもたげていた。


 ──大丈夫。 ただ話し合うだけだ。 、あるはずがない。


 着ていたジャケットの内ポケットに沈む重たいが、心臓の鼓動で肌と触れ合い硬い質感を醸し出す。

 目的の部屋の前で古めかしいインターホンを鳴らすと、ややあってから『はい?』と若い女の怪訝な声がくぐもって聞こえた。


「俺だよ。 久し振り」

『……まさか』


 逼迫ひっぱくし、息を呑む気配があった。


「元気に、してたか? あれから一年経つけど、あいも変わらずか」

『どうして、ここを』

「調べたんだよ。 やりようはいくらでもある」

『……帰って』


 男の意に削ぐわず、怯懦きょうだわずらわしさに塗り固められた反応が返ってきた。


「おいおい。 久し振りに会えてその反応はないぜ。 こっちがどれだけ苦心したことか」

『ふざけないでっ。 あなたと話すことなんて何も無いわ。 そもそも、私たちの関係は一年前に終わってるのよ?』

「一先ず俺の話を聞いてくれ。 離婚してから毎日、それこそ寝る間も惜しんで懺悔ざんげして答えを導いたんだから」

『警察呼ぶわよ』

「呼ぶ度胸があるのか。 隣近所への体面もあるだろう。 俺はなにも、お前を貶めようとしているわけじなないんだよ。 話さえできれば、それで」

『…………』

「お前が出て来てくれるまで、帰らないからな」


 僅かな沈黙の後、プツ、と交渉が途絶えた。

 交渉決裂かと暗澹あんたんたる面持ちで男が場を離れようとしたとき、カタンと扉が開いた。 男は嬉々として振り返ったが、ドアチェーン越しの僅かな隙間から顔を覗かせた、けた頬の女を見て愕然とする。


 ──ああ、お前はこんなにも……。


「ようやくあの子が寝たばかりなの。 やかましいのは勘弁して」

「十分、いや、五分だけでいい。 あいつを起こさないように気を付けるし、話が終わったらすぐに帰るからさ」

「どうせ居座るんでしょ」

「まさか。 一年で身の振る舞いは成長させてるさ」

「…………」


 女は憤懣やる方ない様子で瞳に嫌悪を滲ませ、不承不承男を部屋に招いた。 が、入室の許可が下りたのは玄関口までだった。


「おいおい、俺は部屋の中で──」

「ここで、早く、用件を言ってちょうだい」

「そうカッカすんなってば。 ったく、仕方ねぇな」男は無精髭の生えた顎を撫で、「なあ、やっぱり俺と寄り戻さねぇか? 俺はお前とじゃなきゃ、やっていけない」

「あら、そう? 私はあなたと離婚できて、せいせいしてるくらいなんだけど」

「強がるなって。 俺と過ごしていた時と比べてここらは貧乏クセェ。 華やかさや彩に欠けてる。 お前も、本当は嫌なはずだろう?」


 男が他人の内情を推し量るのを見て、女は鼻で笑った。


「私にはあの子と、楚々とした景色があればいい。 離婚理由は、離婚調停のときも言ったでしょう。 私は、あなたと居るのに堪えられないから、別れたの」

「言ったか? そんなこと。 俺は覚えてないが」

「そう」女は侮蔑の色を隠さず、しかし、僅かに嘲笑の気配を織り交ぜて踵を返した。 「だったら見せてあげるわ。 調停調書、手元にあるのよ」

「なっ」


 リビングの方へ歩いて行く女の背中を、男は土足を脱いで咄嗟に追いかけた。 胸元のそれがひと回り重たくなったような気がした。

 木製のキャビネットから調書を取り出そうとする女の細い肩を乱暴に掴み、こちらを振り向かせる。 女は調書こそ持っていなかったが、煮え滾る怒気を孕んだ双眸が男を射竦めた。


「私はあなたと離れて、ようやく安心を掴めたのよっ……!」


 吐き出される言葉は声量こそ抑えられていたものの、含まれる怨嗟や唾棄は濃密だった。 過去に男が与えた古傷が痛むのか、左腕を右手で支えていた。


「これ以上、私たちに近付かないで。 もし次来たら……そのときは、あんたを殺すから!」

「殺すって、物騒な。 俺のお前に対する愛情に嘘なんて──」


 言葉が途切れ、男の視界に閃光が走った。

 左頬に熱を持った痛みが燻り、男がかけていた眼鏡がフローリングに落ちて転がる。


「もう、いいでしょ。 帰って!」


 女は拾った眼鏡を男の手に握らせ、悄然と立ち尽くす背中を玄関先まで押しやった。 反駁の言葉すら浮かばない男の視界にそのとき、色味を失くしたは自己主張を激しくして映った。


 愛する女に愛想を尽かされ、あまつさえ頬をたれた哀れな男。 話の一つもまともに聞いてもらえず、一方的に押し付けられた拒絶。

 胸裡に沸き立つ愛情は嘘偽りの無い真物ほんものだが、女は歯牙にも掛けない。

 その事実が男の心を酷く擦り潰し、惨めさだけが頭上に降り積もった。


「俺は……愛しているんだよ」


 口の中で呟き、男は無彩色のを鷲掴んだ。 既に理性という概念は吹き飛び、衝動で空いた隙間を埋めたのは、男にも手懐けられないたかぶりだった。


 ──使うはずじゃ、なかったのに。


 胸元から小型のナイフを取り出し、寝室へ戻ろうとした女の背中へ鈍色に光る切先を掲げた。


 ──愛されないのならせめて。


 男が戻って来る気配に振り向いた女は、まなじりを切り裂かん勢いで眼を見開いた。

 そして──。



 男の荒い息遣いが、物音と生命の絶えた室内に響いていた。

 眼下にたおれた女は背中から黒々とした血液を垂れ流してピクリともしない。 数秒前まで生きていた肢体は次第に熱を失い、それと共に男の理性が舞い戻ってくる。 女を死に至らしめた得物に茫然と視線を注ぎ、男は喉元まで迫り上がった慟哭どうこくを僅かな理性を掻き集めて呑んだ。

 代わりに溢れたのは、か細く掠れた声だった。


「殺すつもりじゃなかったんだ……殺すつもり、なんか……」


 全身に生暖かい血液を浴びながら無意味な詫びを捧げる男の耳に、


「──おかあさん?」


 舌足らずな幼い声が届いた。 弾かれるようにしてその出所を見遣ると、寝室で寝ぼけ眼を擦る女児が濁った視界に映った。


 ……見られ、た? いや、まさか。


 女児は眼前の惨劇に気付いていないようだった。

 あの幼い頭で全てを理解し、事態を正確に把握するのは不可能だろう。 であれば、わざわざ重ねて罪を犯す必要はないはずだ。 が、このまま生かしておくのは、掛け忘れた家の鍵を放置しておくような心許なさがあった。

 迅速に決意を固めなければ、泣き喚かれる恐れがある。

 男は逡巡の末、女児に刃物を──。


 プルルルル。 プルルルル。


 キャビネットの上に置かれた固定電話が、けたたましく音を鳴らした。 思わず落としそうになった刃物を握りしめ、「誰だよ」と苛立ちを露わに着信音が止まるのを待つ。

 ところが、三度、四度、と着信は止むことなく繰り返され、一刻も早く現場を離れなければならない男の焦燥を掻き毟る。


「くそッ!」


 男は女児の殺害を諦め、刃物と自分のいた痕跡を可能な限り素早く片付けた後、慌てて現場を離れた。 心臓は猛々しく暴れ回り、激しい鼓動が全身を支配していた。

 闇にひっそり佇むSUVに乗り込み、ジャケットに包んだ血塗れの物証を助手席に放る。 運転席のシートに誤ってもたれないよう注意を払い、血に濡れていない指を使ってエンジンをかけ、すぐさま発進させた。


 車の往来が少ない道を選び、ヘッドライトに浮かぶ夜道を走り抜ける。 焦燥に比例する速度によって視野が狭窄きょうさくするのもいとわず、男は現実から逃れるようにアクセルを踏んだ。

 脳内では女を殺害した瞬間の映像が際限なく繰り返され、ステアリングを握る掌は柔らかな肌を突き刺した触感で包まれていた。


「どうしたら……俺は……」


 恐慌に陥りかけながらも、男の脳は冷静な思考を働きかけていた。

 無事に帰宅できたら、早急に物証の処分と車内の清掃をしなければならない。 幸いにも明日は不燃ゴミの日だ。 前夜に捨て置くのは気掛かりだが、自宅付近の住民はさしてゴミに頓着しない。 清掃に関しては、血痕は闇に紛れて見えないだろうから、朝一につぶさに検めながら綺麗にするしかないだろう。

 こなすべきタスクを並べながら、不安が渦巻いてぎりぎり痛む胸元を握りしめた。


 しばらく街灯だけの乏しい道が続き、やがて葉のこんもり生い茂る街路樹が車道の両脇に連なり始める。 樹葉は黒い塊のかげとして夜闇やあんの空を切り、兇行きょうこうに及んだ目には禍々しい。

 にわかに女の怨念が忍び寄ってくる錯覚が冷えた背筋を撫で、アクセルペダルに乗せた足に力を込め──僅かに顔を出した横信号の灯が見えた。

 男はそこで、微かに違和を覚えた。


「なんだ……?」


 捕らえかけた違和の正体はするりと思考の合間を縫って零れ落ちる。 自動車は速度を減退させないまま直進を突っ切る。 徐々に迫る交差点。 違和は右へ左へ脳内を暴れ、思考は加速に追い付かなかった。


 ──突如、男の左頬を強く眩い白光が照らした。


 反射的に顔をそちらに向けた直後、鼓膜をつんざく破壊音と全身を揺さぶる衝撃に包まれた。 視界は回転運動の渦中に葬られ、シートベルトによって締め付けられた上半身から骨の礫音れきおん叫喚きょうかんする。


 まさか俺は──。


 事態の把握に指先を引っ掛けた瞬間、男の意識はぷつりと途絶えた。

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