第075話●太田さんとミーティング
「16階は初めて入ったなあ。」
原稿が一段落して伸びをしながらそんなことを思っていた。
大崎エージェンシーは地上20階地下3階の自社ビル、大崎エージェンシービルディング、通称大崎ビルを構えている。
太田さんのデスクがあるのは11階で「マネージメント事業部マネージャルーム(アイドルセクション)」という名称が付いている。
所属するまでの打ち合わせに使っていたのは2階から4階の会議室フロアで、外部の人が入れる数少ない場所になっている。外部の人は社内用エレベーターとは別の導線にある会議室・子会社用の専用エレベーターで入る仕組みになっている。
一方、所属してから太田さんとの打ち合わせで使っているのはマネージメント事業部用のミーティングルームで、これは7階にある。
いま俺がいるのは16階。大崎ビルの17階から19階はすべてレッスンルームになっており、16階にはレッスンを受けるタレントが着替える更衣室が整っている。更衣室のエントランス部分が大きなオープンスペースとなっていて、タレントの休憩室も兼ねているのだ。未亜によると前は20階にもタレントの休憩スペースがあったそうだが、いまは工事中で立ち入り禁止になっている。
太田さんによると大崎は所属のタレント数が多く、多岐にわたっているため、3フロアをレッスンルームにしていても足りず、日中はすぐ近くにある大崎の子会社「大崎スタジオ&アカデミー」が経営しているレッスンスタジオを使うケースも多いとのこと。ちなみにレッスンスタジオのある10階建ての大崎スタジオビルディングは、もともと大崎エージェンシーの本社が入っていた自社ビルの旧大崎エージェンシービルディングだそうで、大崎エージェンシーの規模の大きさがよく判る。
そんなビルの16階にある休憩スペースはさぞかしにぎわっているのかと思ったけど、ほとんど人はいなかった。考えてみれば、タレントはこの中で仕事することはほとんどないわけで、こんなところで時間を潰しているくらいなら自主レッスンでもするんだろうな。
「雨東さん、交代だよ。」
「ああ、早緑さん。呼びに来てくれてありがとう。今日のレッスンは?」
「18階だよ。じゃあ、着替えてレッスンしてきちゃうね。」
「ああ、がんばって!」
「うん、ありがとう!」
更衣室へ向かう未亜を見送るとそのまま7階へ降りる。さっきのミーティングルームを見ると太田さんはノートパソコンで仕事を進めているようだ。
「改めて今回は本当にありがとうございました。」
扉を開けると同時にまずはお礼から入った。
「……いえいえ、どういたしまして。とりあえず、キャンセルした仕事の件だけど、皆さん、事情を斟酌して下さって、違約金といわれたケースはゼロだった。」
「……太田さんのおかげですね。」
「いいえ、皆さんおっしゃっていたけど、先生の誠実さのおかげ。締め切り前に原稿を提出する、校正はきっちりあげてくる、読者の評価も高い。キャンセルせざるを得なかった原因は先生には一切非がない。落ち着いたら改めて依頼したいというありがたいお話ばかりだったわよ。」
「……そうですか……。本当にありがたいですね……。」
ちょっと泣けてきてしまった。
「本当にね……。あと報道によるデマに関しては法務から声明を出してからはテレビとかは止まった。週刊スクープはその後もやっていたけど、PVが稼げなくなってきたのか昨日くらいには書かなくなった。もちろんデマに関する訂正は出されていないんだけど、昨日も話したとおり、世論の動向を見ている限り、信じている人が少数派だから、いま裁判にすると奴らの売名に手を貸すだけなので、いったん様子見としている。」
「こればかりはどうしようもないですよね……。」
「正直、裁判に勝っても賠償金として取れる額は余りに少ないし、訂正広告も奴らの誌面上と新聞の片隅を使って目立たない形でやられるだけ。効果的な打開策が正直今のところはないに等しい。ただ、あの週刊誌がうちのタレントを攻撃した記事としては、初めて、完全なねつ造を多数含ませてきたのに疑問を感じているの。」
「そうなんですか?」
「ええ。いままでは明かして欲しくない事実が公表されることはあってもねつ造は含まれていなかったのね。だから、向こうの社内で何かが起きていて、その流れの中でやったんじゃないかってうちの社内では分析している。」
「もしそうだとしたらいい迷惑ですね……。」
「そうなのよね。もし向こうで何かが起きているのであれば、どこかでぼろが出るはずだから、大崎としては、デマの発生源である週刊スクープの今後の動向を注視することになっている。先生には本当に迷惑を掛けて申し訳ないのだけど、この件はちゃんと継続して対応にあたるからいまは私たちを信じて、待って欲しい。」
そういうと太田さんは深く頭を下げた。
「そんな頭を下げないで下さい。これだけお世話になったんですから今更信じないなんてことはないです。引き続きよろしくお願いします。」
「ごめんね、ありがとう……。」
太田さんの目が少し潤んでいるような気がする。
「……よし、それじゃあ、次は今後のことを話してしまおうかしら。」
「……2つお願いがあります。」
「私に出来ることなら何でも。」
「いままで契約関係以外は、私と担当者で直接やりとりしていましたが、KAKUKAWAの白子さん以外とのやりとりは全部いったん太田さんを経由してもらえれば、と。」
「うん、判った。」
「あと、基本的にマネージメントは全部おまかせしたいと思います。」
「それならスケジュール管理もこちらでやるわね。あと執筆関係の細かい話も直接会ってやりとりするときはできるだけ立ち会うようにする。」
「……あっさりですね。」
「だって予想していたから。」
「……太田さんには本当にかなわないです。お世話になりっぱなしで……。」
「それは前からいっている通りよ。それに二人っきりだから暴露しちゃうけど、大崎としても今回の諸々は、打算もあってのことだからそんなにかしこまられると困ってしまうのだけどね。」
「もちろん、判ってますよ。早緑さんの今後、ですよね。」
あえていままでのように打算の対象が自分ではないという話をして体裁を整える。でも太田さんはまっすぐこちらを見ている。
「……先生、私の前ではもう作らなくていいのよ?」
この人の前ではちっぽけな取り繕いもすべて見透かされてしまう。
「……太田さんの眼はごまかせませんか。」
「もちろん。一応この世界は長いから。最後のピースが埋まったいまなら先生のことはだいぶ見えているわよ。いま先生がもがいているのもね。」
この人にはかなわないなあ……。
「いや、これはもう性分です。」
「あまり無理すると良くないわよ……。」
「こうできるのも太田さんと早緑さんのおかげですよ。息切れしても頼れる人が両親以外にもいる、どんな状況になっても自分が犯罪を犯したのでなければ守ってくれる組織があるっていうのは精神的な支えになっています。それがなくてこの状況なら、もしかしたらもしかしたかもしれないって自分でも思います。」
「そこまで言ってもらえるのは嬉しいけどね。」
「それに打算とはおっしゃいますけど、打算だけでここまでやって下さる方はいないですよ。」
「……打算っていうことにしておいて。」
やはりこの人はすごい人だ。せっかくの機会なので、少し雑談をする。
「そういえば、太田さんって早緑さんの前はどなたの担当をしていたんですか?」
「私?私はランの担当だったのよ。」
「えっ!?鶴本ランさん!?」
「そう。彼女を
「どうして鶴本さんの担当を外れたんですか?」
「一つは私のアシスタントをしてくれていたマネージャが成長して任せられるようになったこと。もう一つはランが私は美愛のマネージメントに注力するべきだっていってきたこと。」
「えっ、鶴本さんが!?」
「彼女は美愛の才能をすごく評価したの。実は美愛って、オーディションでは、最初演技力の問題で不合格だったのよ。」
衝撃の事実に俺は固まるしかなかった。
「そんな話聞いていいんですか?」
「ああ、安心して。いましている話は美愛本人も知っているからする話だから。それでね、不合格とはなったんだけど、私は彼女の歌と表現力に光るものを感じていた。なんとか出来ないかとデスクでオーディションの映像を見ながら考えているときに既に大崎の看板になっていたランがちょうど顔を出してね。映像をしばらく見たあとで『この子はライバルになる』って。だから私は『この子、不合格よ』っていったのよ。そうしたら『この子を逃したら大崎はすごい損失ですよ、太田さんが全面的にマネージメントすれば絶対に大崎の看板タレントになります、私も一緒に説明しに行きますよ』って。それで、彼女が推薦をしたから美愛は逆転合格して、ついに大崎のアイドルとしては7番手のランクまで来た。」
「鶴本さん、自分のライバルになるかもしれないのにそんなことを……。」
「彼女はね、そういう子なの。いつもまっすぐで、曲がったことは嫌いで、いいものはいいって素直にいえて。本当に江戸っ子なのよね。」
「すごいですね。」
「……だからね、ランに助けてもらったように私もすべてを一人で完璧にこなしてきたわけじゃないの。大学出てこの会社に入って13年半、楽しいことはもちろん辛かったことも苦しかったことも危なかったこともたくさん。いっぱい失敗して、いろんな人に迷惑を掛けて、
太田さんの過去語りだと思って聞いていたけど、これは俺へ向けたメッセージだったのか……。
「多分誤解があると思うけど、マツノキの件は私だけの力ではないから。美愛や西脇取締役に白子さんもそうだし、みんなが一丸となって成し遂げたことよ。先生は関わった人たちにとって、『この人を救いたい』と思うくらいの存在なの。特に大崎としては、会見に出てくれた二階堂さんも含めて、組織を挙げて守るべき存在だと思っている。そこに会社としての打算が含まれているのは否定しないけどね。もちろん、まだ週刊スクープの件は片付けられていないから道半ばではあるけど、その件に限らず、いつでも私が窓口になって会社としてバックアップ出来るから気軽に頼って欲しい。」
「……はい。」
励ましへのお礼を言いに来たのがさらに励まされてしまった。でも俺の心の奥底にある何かが確実に少し小さくなった感じはした。
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