1999 ムーンライト・ロッカーズ
泡野瑤子
1999年3月
残念でした。どうにも人類は滅びそうにありません。
……と、いきなり言われても何のことか分からない人のために手短に説明しよう。
二十世紀末ごろ、日本では「ノストラダムスの大予言」なるものが巷を賑わせていた。大昔のフランス人、ノストラダムスが「一九九九年
二十年経って考えると嘘みたいだが、本当に予言は当たるのかとか、何が原因で人類が滅びるのか(核戦争? 隕石?)とか、たくさんの大人が真面目くさって考えたものだ。
子どもはなおさら真に受けた。
「一九九九年って、あと〇〇年後だね」
「おれたち、大人になる前に死ぬのかな」
「どうせ死ぬなら勉強したって意味ないんじゃ?」
以上、説明終わり。
冒頭の「残念でした」は、
沙和子もご多分に漏れず、小学生のころはノストラダムスの大予言におびえていた。
まだ十七歳、人生これからってときに、恐怖の大王に殺されるの? なんでだよ。大人になって、いい感じのダンナさんと結婚して、かわいい子どもたちに囲まれて幸せに暮らしたいよ。
当時の未来予想図は、教科書を学校に置き去りにしてきたランドセルよりも空っぽだったけれど、それでもやっぱり怖かった。
でも、いつからだろう。成長するにつれて、沙和子はときどき「あーあ、世界滅びればいいのに」と思うようになっていた。
もちろん本気ではない。積極的に「死にたい」なんて全然思っていなかった。家は特別お金持ちではないけれど円満だし、友達もそれなりにいて休日には一緒に遊びもする。楽しい。……けれど、なんとなく生きているのがめんどくさい。
学校、塾、学校、塾、流行りの漫画と音楽とテレビドラマ。それだけの毎日である。沙和子には青春を懸けるに値するものもない。
……違う、なくなった、のだ。
「あーあ、世界滅びればいいのに」で始まる一連の憂鬱は、いつも「青春を(中略)なくなった、のだ」で終わる。思考は毎回同じところで停止する。そしてまた、「あーあ、世界(以下略)」エンドレスリピート。
でも、一九九九年七の月まで、あと四ヶ月。
少なくとも沙和子の目に映る世界は、何にも変わる気配がない。つまり、滅びない。残念でした。
遠くで吹奏楽部のトランペットがパラリラ鳴っているのが聞こえた。すれ違う野球部の男子たちは、どうせ甲子園に行けるわけもないのに丸坊主だ。桜はまだ蕾のままだった。
裏門にさしかかったとき、おととい卒業式を済ませたはずの三年生の男女数人が立ち話をしていた。彼らはまだ受験が終わっていない。第一志望の大学に合格できず、後期試験や試験日程の遅い大学を受けているのだ。進学先が決まるまでは心が落ち着かないだろう。明日は我が身かもと思うと、また例の「あーあ」が脳内再生されそうになる。
「あー、いたいた! おーい、まーかべー!」
けれどもその日は、ちょうどいいタイミングで後ろから淳也が追いかけてきた。息せき切って沙和子に駆け寄り、ばしばし肩を叩いてくる。脳内再生、停止。
「ちょっと、痛いんですけど?」
別に怒ってないけれど、わざとしかめ面で答えた。
ごめんごめん、とへらへら笑っているのは、隣のクラスの
色白で、ひょろっと背が高い。沙和子とは家が近くて、小学生のときから友達だった。とてもそうは見えないが、彼は市長の息子で学年一の優等生でもある。
「真壁、ちょっとこれ見て」
淳也の手には、大きなスケッチブックが握られていた。でも、その中身は絵ではなかった。A4用紙に印刷された楽譜が各ページに糊付けされている。タイトルは「月の光」だが、有名なドビュッシーのではなく歌の伴奏譜らしい。ピアノ譜と一緒に、主旋律と歌詞がついている。
「どう、弾けそう?」
「は? なんで私が弾くの?」
「だって真壁、ピアノ上手じゃん?」
淳也が屈託のない笑みを浮かべる。沙和子の
「……でも、もう辞めたし」
われ知らず声が小さくなる。
沙和子の家にはアップライトピアノがある。沙和子が三歳のとき、娘にピアノを習わせたい母が鼻息荒く買ってきたらしい。言ってみれば親の押しつけだったが、沙和子には合っていたらしく、中学生になるとショパンやベートーベンの難曲でも弾けるようになっていた。
けれども、沙和子は中学と一緒にピアノ教室を卒業した。電車通学で帰りが遅くなるし、勉強も難しくなるから、もういいよね、と辞めた。――「もういいよね」と言ったのが自分だったか母だったかは、はっきりと覚えていない。
「でも真壁なら、ちょっと練習したらよゆーでしょ?」
沙和子は答えなかった。
譜面の難易度だけで判断するなら、よゆーである。初見で上等、練習など、不要。しかしこれは伴奏譜、誰かと息を合わせて演奏するはずだ。
沙和子は訝しんだ。いったい淳也は、私に何をさせる気なのだろう。
「ちょっと俺に付き合って。今日は塾じゃないよね?」
「そういうあんたは、これから塾じゃなかったっけ?」
えへへと笑ってとごまかす淳也を、沙和子は振り切ることができなかった。楽譜から聞こえてきた旋律が、妙にすんなり心に入ってきたからだ。
裏門からバスで十分と少々。都会とは決して呼べないけれど完全に寂れ切っているわけではない、よくある地方都市の駅前に降りる。
まだ空は暗くなくて、大通りにはネオンの光は灯っていない。淳也が通う「啓英塾」もあるが、彼は素通りした。
辿り着いた先は、啓英塾の三軒隣にある「堀ビル」。グレーのちょっと古くさい建物だった。一階が美容室で、二階から六階は住居用マンション。でも淳也は、共用玄関の脇にある下り階段を指さした。
地下の薄暗さに尻込みしそうになる沙和子に、「俺たちの秘密基地だよ」と淳也が微笑む。少し安心した。まあ、淳也が悪いことをするようなやつじゃないってことくらいは知っている。
淳也が階下の分厚いドアを開いたとき、エレキギターの重い響きが沙和子の耳を聾した。
地下室の中には、三人の男たち。赤いⅤ字型のギターを弾いていたのは、ぽっちゃりしたメガネの人。黒いベースを抱えて座っている目つきの鋭い子と、目鼻立ちのはっきりした女子にモテそうな茶髪だった。部屋の奥にはドラムセットとキーボードが置いてある。
「よ、おつかれジュンヤ」
女子にモテそうな子が片手を上げた。
「その子がトラさんの代打?」
「うん。真壁沙和子」
当の沙和子には何の説明もないまま、淳也は男たちを紹介しはじめた。
ギターのお兄さんがホリさん。沙和子や淳也と同じ高校の三年生だった。にこやかでいい人そうだ。
対称的に、じっと沙和子を睨んでいるのがベースのカスやん。隣町の商業高校の一年。
モテそうなのがボーカルのトオル、二年生。近所の私立校のブレザーを着崩している。
要するに、彼らはロックバンドなのだ。ということは、淳也がドラマーなのか。信じられない。こんな細腕で?
「どうも、真壁ですけど……」
薄々事情を察しつつ、沙和子はあえて尋ねた。
「あの、なぜ私はここに連れて来られたんでしょうか」
「えっ、ジュンヤくん、何も話してないのかい?」
ホリさんが大げさに目を見開くと、ジュンヤは「あ、忘れてた」と頭を掻く。嘘つけ、と沙和子は内心毒づいた。
淳也の代わりに、ホリさんが説明してくれた。
ホリさんは、この堀ビルのオーナーの息子で、この地下室は音楽好きなホリさんの父親が作った防音室だ。淳也たちはここでバンドの練習をやっているらしい。バンド名は「ホリバンド」、ド直球だ。
「この前キーボードの子が抜けちゃって、代わりを探してたんだ。そしたらジュンヤくんが、『知り合いにピアノが上手い子がいる』って」
「で、私が『トラさんの代打』?」
「そうそう」
ホリさんが頷く。
「キーボードのトラさんことトラヴィスが、突然イギリスに帰っちゃったの。俺たち夏の『ロック甲子園』を目指してるのに、もう困っちゃって」
ロック甲子園。沙和子もテレビで観たことがある。高校生バンドのコンテストだ。歴代の全国大会優勝者の中には、実際にプロデビューしたバンドもいくつかある。
「なるほど、それで……」
いや「なるほど」じゃないだろ、と沙和子は思い直す。いかにも人のよさそうなホリさんのしょんぼり顔に丸め込まれるところだった。
「あの、申し訳ないんですけど私、バンドなんて無理ですんで。失礼します」
「えー?」
淳也が不服そうな声を上げる。
「ピアノ辞めて一年も経つんだよ。だいたいロックなんてやったことないし」
「真壁、よゆーだって言ってたじゃん」
言ってねえよ、と反論する前に、低い声が響いた。
「嫌なら帰れよ」
ベースのカスやんが口を開いた。彼はずっと不機嫌そうに沙和子を見ていた。沙和子は寛大な心で、彼のことを生まれつき目つきが鋭い人なんだろうと思おうとしていたが、どうやら無駄だったようだ。
「別にいいだろ、キーボードなんかいなくても」
「よくないでしょ」すかさずトオルが言った。「ザフクロの『月の光』にはピアノがないと」
「なら違う曲にしようぜ。俺たちはプロ目指してんだ、女子とチャラチャラ遊んでる場合じゃねえんだよ」
沙和子の寛大さは終了した。チャラチャラだと? 自分は淳也に連れて来られただけなのに、なぜこんな不快な思いをしなければならないのか。
「あんた、人間のカスだから、『カスやん』なの?」
「なワケねえだろ」カスが立ち上がる。「苗字が
睨みを利かせながら近づいてくるカスを、沙和子はしかしすたすた通り過ぎてキーボードの前に立ち、「月の光」のイントロを弾いてみせた。しばらく鍵盤に触っていなかったのに、指は滞りなく動いた。楽譜など、不要。さっき見たときすでに暗譜している。実際に弾いてみて、いい曲だなと改めて思った。
みんなぽかんと口を開けて沙和子を見ていた。カスの細い目も飛び出しそうに見開かれている。なかなか痛快だ。
「ま、帰れっていうなら、帰りますけど」
「ちょ、ちょっと待って」
部屋を出ようとする沙和子を、トオルが慌てて止める。
「すごい、すごいよサワコちゃん! ぜひともうちのバンドに入ってよ!」
「いやでも、バンドとか興味ないし」
「そんなこと言わないで頼むよ、真壁」
「正式メンバーが決まるまでのサポートでもいいから!」
淳也とホリさんにもすがられて、沙和子はちょっといい気になった。
「しょうがないなー。塾のない日なら練習に参加してあげてもいいですけど、粕谷さんがなんて言うかな?」
全員の視線がカスに集まる。小さく舌打ちの音が聞こえた。
「……好きにしろよ」
勝った。
「よーし、じゃあアタマから行こう!」
ホリさんが声を上げたとき、沙和子にとって生まれて初めてのバンドセッションが始まった。
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