第一部・完 雲のある空の下で5

 頭の上を風が吹き抜け、雲が東の方へ流れていく。

 誰もいない屋上で僕はまたイーゼルを立てる。

 そして上三分の一が空白だったキャンバスを立て掛けた。

 今日は日曜日だけど、うちの学校は休日も校舎を解放している。

 せっかく雲が戻ってきたことだし、書きかけだったこの絵を仕上げたかった。

 すぐに色を付けようかとも思ったけど……そのまましばらく待つことにした。

「どうして色を付けないの?」

 この前と同じように背後から声を掛けられた。

 椅子の背に手を掛けながら夏樹が、僕の肩越しにキャンバスの中を覗き込む。

「まだ空が青いからね。海とのバランスが悪くなる」

 夏樹は唸りながら僕の絵を吟味した。

「……そうだね。夕方近くの空が似合うと思うよ」

「うん。だから少し待ってるんだよ」

 空の色はゆっくりとだが刻々と変化する。

 過ぎていく“いま”の中で移ろい、様相を変える。

 人も世界もまた変わる。辛い現状だって打破できる。

 そう思えば希望も持てる。夢見ることもできる。

 色褪せない絵画がないように、変わらないものなどないのだから。

「昨日の絵……美月ちゃんに贈ろうとおもうんだけど……」

「うん?」

「『夢(ゆめ)見(み)月(づき)』って名前にしようと思うんだ」

 美月ちゃんが楽しいことを夢見られますようにという願いを込めて。

「いい名前じゃない。ふふ、師匠から弟子へのプレゼントね」

「あー……まぁそうなるのかな……」

 にやけた笑みを浮かべる夏樹に僕は頭を掻きながら答えた。 

 昨日、あの後で美月ちゃんに絵の描き方を教えてほしいと頼まれた。

 僕に教えられるほどの腕があるかはわからないけど、それで少しでも美月ちゃんの心を軽くすることができるなら悪くないと思った。

 彼女の入院はまだ少し続くらしい。

 でも、退院したとしてもそれで僕らの“繋がり”が消えるわけじゃない。

 あとで聞いた話だけど、春花さんは美月ちゃんの身元引受人になるつもりのようだ。

 ソシャネ病流行後の対策として、非感染者の相互支援の枠組みは充実している。

 すでに昨日、美月ちゃんにそのことを提案したらしい。

 美月ちゃんが受けるかどうかはまだわからないけど、もしそうなれば美月ちゃんは退院後は夏樹たちと暮らすことになる。

 そうしたら一緒にいる時間もぐっと増えるだろう。

 一緒に過ごす時間の中で彼女に絵を教えるのも悪くない。

 でも……まずはその前に……。

 僕は一呼吸置き、真っ直ぐ夏樹に向かい合った。

「僕さ……覚悟決めたよ。母さんと向き合おうと思うんだ」

 僕の言葉に、夏樹が息を呑むのがわかった。

「現実から目を背けてたのは僕も同じだった。母さんがあんな状態なのになにもしないでただ逃げてた。美月ちゃんだって諦めずに歩き出そうとしているのに、師匠の僕が諦めるわけにはいかないよ。どうすればいいかはまだわからないけど、せめて描いた絵を見せるぐらいはしたい。あの母さんの心を揺らすような絵を描きたい」

「それは……辛いんじゃない?」

 夏樹は心配そうな顔をしてそう言った。当然だろう。

 無駄だったときのことを、拒絶されたtきのこと考えるとやっぱり怖い。

 もし拒絶され続けたら、僕だって美月ちゃんのように耐えられなくなるかもしれない。

 そういう不安は確かにある。

 だけど……それでも向かい合わなきゃなにも変えられない。

「僕なら大丈夫だよ。僕には夏樹たちがいる。だから大丈夫」

 傍に“誰か”がいてくれればそう簡単に心は折れない。

 美月ちゃんだって、もっと早く僕らのような人間に出会えていたなら心が折れることなんて無かったと思う。

 もし心が折れそうになったら、みんなで遊んだりバカ騒ぎしよう。

 みんなから元気をわけてもらう。

 そしてみんなが苦しいときには元気をわけよう。

 そうやって元気をフルチャージすれば、また全力全開でぶつかっていける。

「だから、つまりその……心配しないで」

「……はぁ……」

 夏樹は溜息を一つ吐くと僕の背後へと回った。

 そして僕の両肩に手を置くと思いっきり体重を掛けてきた。

「あの……重いんだけど……」

「まったく……何が心配しないでよ。そんなの無理に決まってるでしょ」

「それは……そうかもしれないけど……」

「ホントバカみたい。勝手に自分だけ前に歩き出そうとしちゃってさ」

 不意に肩の重みが消えた。振り返ると夏樹が背中を向けていた。

「なんか止まってるあたしがバカみたいじゃない」

 振り返った夏樹はやわらかな笑顔を浮かべていた。

「美術部のメンバーがあたしたちを除いていなくなって、絵を見てくれる人もほとんどいなくなってしまったから……あたしは絵を描くことができなくなった。同じ絵を見て同じように画家を目指していたのに、あたしは絶望の中で筆を置いてしまった。部長のあたしが筆を置いてしまったから美術部は潰れて、誠一は美術室にいられなくなった。それなのにあんたは描くことを止めなかった。美術室を追い出されてもここで描き続けた。あんたを横で見ながら内心は複雑だったわ。それができるのはあんたが強いからで、それができないあたしは弱い人間なんだと思ってたから」

「それは違うよ!」

 僕は思わず声を荒げた。

「僕は……強くなんかない。それしか知らなかっただけだよ」

 それは強さなんかじゃない。描くことに逃げていただけだ。

 母さんのこととか、辛い現実から目を背けていただけだった。

「そうね……そのとおりだった。誠一だって弱さを抱えていたのよね。あたしと条件はまるっきり一緒だった。そしていま……あんたは歩き出そうとしている。置いてかれるのは性にあわないわ。だからあたしも歩き出そうと思う」

 スカートを翻しながら夏樹はその場でくるりと回り、最高の笑顔を浮かべた。

「手始めに美術部を再建しようと思うの。潰したあたしがこんなことを言うのはおかしいってことはわかってる。でも……あたしも覚悟を決めたから」

 夏樹は僕に向かって手を差し伸べた。その瞬間一陣の風が吹き抜けていった。

「だからお願い、力を貸して」

 夏樹の真っ直ぐな眼差しを受けて、僕はイスから立ち上がった。

 答えなんてすでに決まっている。

 僕は夏樹が差し出した手に自分の手を重ねた。

 穏やかな春の風に吹かれながら見上げた空は良い感じの色に染まり始めていた。


(第一部完)

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