第54話 ひとりで、大丈夫

 俺のスマホがバイブレーションを奏で始めた。

 発信主は母親。


「出なさい」


 対応を決める前に、七瀬から強い言葉が放たれた。


 視線を上げる。


 切ったら許さないと言わんばかりの、強い双眸。


 圧に気圧され、通話ボタンを親指でタップする。


「……もしもし」

『翔、翔! 無事なのね……!?』


 5日ぶりの、母さんの声。

 まるで遺伝子にプログラムされているかのように、心に安堵が広がる。


『翔! 今どこにいるの!? お母さん、本当に心配したのよ……!!』


 言葉の通り、心の底から心配している声だった。


 小学校の頃、俺が不注意で車に轢かれそうになった時も、こんな声だったっけ。

 胸の中に、申し訳ない気持ちが広がっていく。


「ごめん……本当に、心配かけて」

『ううん、いいの、いいの……』


 通話口から、頭を振る気配。


『お母さんも強く言い過ぎたわ……お父さんも、ごめんって……』

「うん……」

『とにかく、早く帰ってらっしゃい。翔の話、どんな事でもちゃんと聞くから……ゆっくり、話し合いましょう』

「うん……そうだね」


 そうした方がいいのは、百も承知だった。


 でも。


 ちらりと、七瀬の方を見る。


 その口元には、優しげな笑みが浮かんでいた。

 それだけではなかった。


 母親に置いて行かれた子供のような、今にも泣き出しそうな目を……。


「母さん、ごめん、また電話する」


 後ろ髪を引かれつつ通話終了ボタンを押す。


 改めて見ると、七瀬は表情に様々な感情を表出させた。

 もう、読み取れないくらいたくさんの、感情を。


 何か言わないと。

 

 何をだ? 


 ダメだ、思考がまとまらない、クソッ……。


「高橋くんは、家に帰るべきよ」


 代わりに、厳しい口調で七瀬が言った。


「高橋くんには……待っててくれる家族がいるんだから」


 それは、優しい拒絶だった。


「私はひとりで、大丈夫」


 ……何が、大丈夫なんだよ。

 七瀬の浮かべた表情を見て、心の中ではそう思う。


 なのに俺は……やっぱり何も、返す事ができなかった。


「明日、また話しましょう」


 明日の話し合い次第で、この旅は終わる。

 事実上の宣告だった。


 私を説得できるものなら説得してみなさい。

 そう言ってるような気がした。


 その後は、中身のない時間が過ぎた。

 必要最低限以上のやりとりも、会話もなかった。


 七瀬から漏れ出す話しかけるなオーラが凄まじかった。

 一人で考えろ、という事だろう。


 朝、行こうと決めていた鰻屋にも行かなかった。


 最寄りのコンビニで夜ご飯を買って食べた。

 今までで一番、味気ない夕食だった。


 日課の、ヨーチューブの編集もしなかった。

 そんな気分になれなかった。


 今までの楽しかった5日間が幻だったかのような、乾き切った時間だった。


 シャワーを浴び、着替えて、いつもより早い時間にべッドに身を横たえる。


 時折後ろで聞こえてくる衣擦れの音に七瀬の存在を感じながら、いろいろな事を考えた。


 七瀬が明かしてくれた過去のこと、七瀬と過ごした日々のこと、親のこと、学校のこと。


 自分はどうするべきなのか。

 そもそも自分は、どうしたいのか。


 答えは多分、出ていた。


 だけど、旅行したいという欲求と、それをするには相応の覚悟が必要だという理性がせめぎ合って、結論は出なかった。


 結局のところ俺は、勢いで行動するくせに、自分に大きな覚悟が必要になる場面では一歩踏み出せない、口だけ野郎なのだ。


 改めて思い知った。

 自己嫌悪で胃袋がひっくり返りそうだった。


 胸底に溜まった臆病な部分と折り合いをつけられないまま、俺は意識を手放した。


 夢は、見なかった。
























 翌日、目を覚ますと、七瀬が部屋から消えていた。


 七瀬が寝ていたはずのベッドに、二人分のホテル代と、置き手紙があった。


 手紙には、綺麗な字でこう書かれていた。


『さようなら』


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