第32話 優しさ
「てやー!」
威勢の良い子供の声が、突如として天守閣に響き渡った。
振り向くと、幼稚園児くらいの男の子がチャンバラ刀を手に走り回っていた。
今や国民的超人気漫画となった、『酢飯の刃』の主人公、寿司郎(すしろう)のコスチュームをしている。
「10年前の高橋くんかしら?」
「確かに、あんな感じだったわ」
「予想通りね」
気のせいだろうか。
男の子を眺める七瀬の口元が、微笑ましげに緩んだように見えたのは。
「マグロの呼吸 八ノ型 大トロ三昧!」
多分もう100回くらい聞いたであろう技名と共に、男の子が刀を大きく振りかぶる。
地を蹴った次の瞬間。
「あっ……」
男の子着地に失敗して、ずてーんと豪快にすっ転んだ。
「う……うえ……」
先程までの威勢はどこへやら。
男の子が目に涙を浮かべて嗚咽を漏らす。
見ると、膝からじんわりを血が滲み出ていた。
「大丈夫?」
俺が動くより前に、七瀬が男の子の元に駆け寄っていた。
膝を突き、男の子と目線を合わせて傷の具合を見ている。
「擦り傷ね。手当てしてあげるわ」
七瀬がショルダーバックから、消毒液や絆創膏を取り出した。
流れるような動作に、されるがままの男の子。
「ちょっと沁みるけど、頑張って」
「い、痛いの、やだ……」
涙目で訴える男の子に、七瀬が頭を振る。
「ごめんなさい。だけど、必要なことなの」
「でも……」
今度は男の子が、いやいやと頭を振る。
七瀬は嫌な顔一つせず、優しい声色で言った。
「寿司郎だって、魚人に攫われた妹を助けるためにたくさん痛い思いしてきたけど、頑張っていたでしょう? だから、君にも頑張って欲しいの」
七瀬の言葉に、男の子がハッと息を呑んだ。
それから決意したように、瞳に強い意志を灯してコクコクと頷く。
「さすが男の子ね」
消毒液を含ませたガーゼを、擦りむいた膝に優しく当てる七瀬。
男の子の表情に一瞬、悲痛の色が浮かぶも、七瀬はすぐさま傷口に絆創膏を貼った。
「はい、おしまい。よく頑張ったわね」
ぽんぽんと、七瀬が小さな頭を優しく撫でた。
男の子の表情に安堵が広がる。
そのタイミングで、母親らしき女性が慌ただしく天守閣に登ってきた。
「隆太! お母さんと離れちゃダメって言ったでしょう……って、どうしたの!」
男の子の涙と膝のカットバンを見るなり駆け寄る母親。
俺が事情を説明すると、母親は七瀬に何度もお礼を言って頭を下げた。
「ごめんなさい、この子、目を離した隙にどこかに行ってしまって……ほら、隆太、お姉ちゃんにありがとう言いなさい」
「う、うん……ありがとう、おねーちゃん」
ぺこりと、男の子が頭を上げる。
「どういたしまして」
再び、七瀬は男の子の頭を撫でた。
「あくまで応急処置をしただけなので、傷口を下の公園でよく洗ってあげてください」
「色々とありがとうございます……ほら隆太、行くよ!」
ぺこぺこと二人して頭を下げながら、親子が下に降りて行く。
そんな二人を、七瀬は申し訳程度に手を振って見送った。
「知ってたんだな、酢飯の刃」
「流石の私にも耳に入ってくるわ」
いつもの表情に戻った七瀬が、どこか一息つくように言う。
「子供、好きなのか?」
尋ねると、七瀬はゆっくりと首を傾げ、眉を寄せ、じっくりと考え込んだあと。
「わからないわ。でも、気がついたら、身体が動いてたの」
「なるほど」
本人も自覚していなかった一面、というやつだろうか。
兎にも角にも、確信を持って言える七瀬の性質を、俺は口にする。
「優しいな、七瀬は」
「そうなのかしら……それも、よくわからないわ」
「優しいよ、めちゃくちゃ」
俺の言葉に、七瀬はぱちぱちと目を瞬かせたあと、頬をじんわり苺色に染めてそっぽを向いた。
それから、照れ臭そうに髪を弄りながら言う。
「客観事実としては、そうなのかもしれないわね」
「客観事実って」
相変わらず素直じゃないな……と思ったところで、気づく。
七瀬は単に、物事を深く考えすぎているだけなのではないかと。
「ああ、でも」
思い出したように、七瀬は言った。
「ありがとう、って言われるのは、悪くなかったわ」
口角を控えめに持ち上げ、嬉しそうに微笑む七瀬を見て、俺は思った。
──ありがとうって言われて嬉しいのは、優しい証拠だろ、と。
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