第20話 富士山
「おお……」
展望タワーの最先端。
バンジージャンプの飛び降り台のように突き出た場所から、富士山を臨む。
山に感動するという体験を、俺は生まれて初めて味わった。
圧倒的な存在感、均整の取れた円錐形のシルエット。
美しい、という言葉は富士山のためにあると確信させるほどの、ただただ純粋な『美』が目の前にあった。
美しい、凄い、デカい、やばい、なんだこれ……。
たくさんの語彙と感情が溢れてきて止まらない。
オレンジ色に染まった澄んだ大空と相まって、その光景はまるで幻想的なファンタジー世界のようだ。
いつもなら、この時間帯は放課後補修を受けている。
無機質な黒板に描かれていく淡白な板書を、睡眠欲と格闘しながら必死にノートに写していた。
そんな、息が詰まりそうな時間は今や昔。
深く息を吸い込むと、冷たく新鮮な空気が胸を満たす。
肺にこびりついていた汚れを剥がすように一気に吐き出すと、身体の底から痺れるような解放感が湧き上がった。
……ドバドバ出てるわ、セロトニン。
七瀬に揶揄われないように、心の中だけで呟く。
時を忘れて、しばらくぼうっと富士山を眺めていると。
「今日は大当たりの日だねー」
福引で特賞を当てたような声で、瑠花さんが言った。
「当たり外れとかあるの?」
「そりゃそうだよ、天候によって見え方が全然違うからさ。今日は大当たりも大当たりの日! 宝くじで3等当たるくらい運がいいよふたりとも!」
「良いのかどうか微妙でわかんねえ!」
でも実際、最高のタイミングだったんだろう。
こんなにも空が澄んでいて、夕陽とのコントラストも最高で、これ以上に望むものがあるのか。
いや、ない。
「……ああ、そうだったのね」
俺が頭の中で反語を唱えていると、ぽつりと、隣で七瀬が呟いた。
今までのどこか凍ついた声ではなく、温もりを感じさせる声。
「どうしたんだ?」
「気づいたのよ」
「何に?」
七瀬がこちらを向く。
珍しく持ち上がった口角をさらに上げて、七瀬は言った。
「私、夕陽が好きだったみたい」
淡く、柔らかい、今まで見たことのない笑顔が夕陽に照らされキラキラと輝く。
どこからか吹いてきた一迅の風が、長い黒髪をふわりと靡かせた。
いつも誰かを睨んでいて、不機嫌そうに口をへの字にする七瀬涼帆はどこにもいない。
綺麗な景色を見て感動する『ただの女の子』がそこにいて——。
視線が、正面の富士山よりも横の七瀬に強く吸い込まれてしまった。
「……なに顔赤くしてるの?」
「は、はぁっ? してないし! 夕日が反射してるだけだし」
小学生みたいなリアクションをしてしまった。
「……ふーん?」
新しいおもちゃを見つけた子供みたいな目を向けてくる七瀬。
「夕陽のオレンジと、高橋くんの顔の赤は色彩が一致していないように見えるけど?」
「マジレスするなよ察しろよ」
「ようするに高橋くんは、私に見惚れていたという事で良いかしら?」
「察した内容をわざわざ言わないで!」
「ふーーーーーん?」
ニヤニヤ。
七瀬が勝ち誇った笑みを浮かべる。
コイツ、完全にわかっててやってんな。
どうも七瀬にはマウント癖というか、他人よりも優位に立とうとする癖がある。
多分子供の頃から他人に競争で勝つ事を強いられてきた結果、ナチュラルにそのマインドが育ってしまったのだろう。
「なるほど、つまり高橋くんは、私に異性的な魅力を感じているという事かしら?」
ニヤニヤニヤニヤ。
七瀬の追撃が止まらない。
……なんか、やられっぱなしも癪だな。
ここで言われるがままなのは男のプライドというか、何かが廃る気がした。
「ああそうだよ、悪いか!」
「へっ?」
俺が認めるとは思わなかったのか、七瀬が虚を突かれた顔をする。
「学年一の美少女って言われてる自覚あんだろ! 俺もそう思うし、事実お前は可愛いよ。だから……つい、視線が行ってしまったんだよ」
「……そ、そう……そうなのね?」
おや? 七瀬の様子がおかしい。
「それなら……まあ、仕方がない、のかしら……?」
満更でもない様子で、髪の毛をいじいじ。
まるで、うぶな乙女のようだ。
まさか七瀬、褒められるのに慣れてないとか?
わざとらしいニヤニヤ顔を作って、七瀬に尋ねる。
「なに顔赤くしてんの?」
「は、はぁっ? してないわよ! 夕日が反射してるだけ!」
「どこかで聞いたような返しだな?」
「白昼夢よ」
「ふーん?」
「……何よ?」
今度は俺が、新しいおもちゃで遊ぶ番だ。
「夕陽のオレンジと、七瀬の顔の赤は色彩が一致していないように見えるが?」
「〜〜〜!!」
日本語じゃない何かを発して顔を隠すように逸らす七瀬。
なんだこれ。
超楽しいぞ。
いつもは言われっぱなしの俺だが、やるときはやるのだ!
ふははは!
ゲシッ!!
「痛ってえ!? お前! 武力行使は反則だぞ!」
「うるさい! 調子乗らないで!」
ゲシッゲシッバキッ!
二発の蹴りと一発のパンチを入れて、七瀬は「ふんっ」とそっぽを向いた。
グーはいかんだろグーは!
「さっきからあーしは何を見せられてるんかなー?」
「知らん、俺が聞きたい」
「わかった! 痴話喧嘩だ!」
金髪ギャルが何か言ってるが、拾ったら面倒くさくなるのでスルーの方向で。
「(でも、意外だったな……)」
非の打ちどころのない美少女、七瀬涼帆の弱点。
褒められて胸のあたりが擽ったくなる気持ちはわかるが、あれほど動揺するのは思わなかった。
……もしかすると、七瀬には今まで褒めてくれる人がいなかったのかもしれない。
ちらりと、横目で七瀬を見る。
端正過ぎる横顔に、子供っぽい、喜色混じりの笑顔浮かんでいた。
──どくんっ。
不意に、心臓が不自然な高鳴りを見せた。
なんだ、さっきの。
そう思っていると。
「はるちーのばかーーーーーーーー!!!!!」
突然、瑠花さんが叫んだ。
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