最終話 手紙と決心

 家に帰って自室にこもると、僕はさっき受け取った手帳を机の上に置く。


 「これを……なんで僕なんかに……?」


 不思議でたまらなかった。

 あんなに綾夏が大切にしていたものを、どうして僕なんかに渡すのかが。

 いくらその中身を見てしまったとはいえ、こんなの自分の秘密をどうぞ見てくださいと言っているようなものじゃないか。


 それでも、僕はその中を見ずにはいられず、そっと最初のページを開く。

 すると、そこには便箋のようなものが挟んであって、ひらりと宙を舞い、そして床に落ちた。


 「何だろう……」


 腰をかがめて拾って広げると、それは――僕宛の手紙だった。


 【蓮くんへ

 この手紙を見ているということは、私はもうあっちの世界に行っちゃてるってことだね。

 何だか寂しいな。こんなに早くお別れするつもりじゃなかったのに。

 私も、心のどこかではまだ余命のことを信じることができなくて、本当は夢なんじゃないかって、こんなリアリティのある夢から早く覚めてほしいって、一人でずっと泣いていたりもしてたんだよね。

 鏡に映る自分を見て、それでもまだやれる、生きられるって、そう思い込むことでしか、自分を保つことができなかった。

 恥ずかしいから直接言うことはできないけど、手紙ならこんなこともすらすら書けちゃうのってなんか不思議な感じがする(笑)

 それに、蓮くんとはたくさんおしゃべりしたけど、それでもまだまだ全然話し足りないから、お手紙にしてみました!】


 「何だよそれ……綾夏もそう思っていたんじゃないか」


 あんなに強がる姿を見せていても、やっぱり綾夏にも悲しいという感情は残っていて、それを僕たちに見せないようにしていた。

 でも、それを続けるなんて不可能な話だ。

 やっぱり綾夏は――寂しがり屋さんなんだ。


 【まずは、二カ月という本当に短くて一瞬で過ぎてしまった時間だったけど、私は一生分の楽しさを味わうことができたと思う。

 病院の外ってあんなにも自由な世界が広がっていたんだって。

 いつか病気が治ったらしたいことをあれこれ想像していたけど、実際にそれをやってみたら、想像の何倍も、何百倍も、何千倍も楽しかった。もう楽しかったっていう言葉以外に今の私の気持ちを表すことはできないって思ったの。

 充実して中身の濃い時間を最期に過ごさせてくれてありがとう。本当に本当にありがとう】


 綾夏は、僕たちが君に充実した時間をくれたと言っていたけど、それは合っているようで、少し違う。

 僕も、この二カ月間で、綾夏にたくさんの笑いと思い出をくれた。


 だから、楽しかったのは綾夏だけじゃないんだ。

 僕もあんなに楽しかったと思える時間を誰かと過ごしたのは初めてだった。


 【私、最後に蓮くんにすべてやり切った、もう満足、後悔はないって言ったの覚えてる?

 たしかに、私が蓮くんに言ったやりたいことはすべてできた。

 でも、実は最期までどうしても言うことができなかったことがあって、それを言わずにお別れするのはどうしても嫌で。でも、私の口から言うことはできなくて。

 だから、このお手紙の中で書きます】


 「まだあったの……?」


 恐る恐る次の文章に目を向ける。


 【藤木蓮くん、私はあなたのことが――好きでした。出会ったときから、ずっとずっと好きでした】


 「っ…………⁉」


 衝撃のあまり、思わず座っていた椅子から転げ落ちてしまった。


 「あ、綾夏が……僕のことを……?」


 【出会ったあの瞬間に、なぜか君に運命を感じたの。この人なら、私の願いをかなえてくれるかもしれないって。なんでそれが蓮くんだったのかは、正直自分でも分からない。でも、一旦好きだって思ったら、もうその思いは消えるどころか、日に日に大きくなっていく一方で。

 海だって、蓮くんがドキドキしてくれるような水着を一生懸命選んでみたの。蓮くんが私の水着姿を見て、顔を赤くしながら『すごく似合ってる』って言ってくれたの、すっごく嬉しかった。心臓が飛び出ちゃうくらいに。

 でも、グラマーなお姉さんに目移りするのはどうかと思うな~。もしこの先蓮くんに彼女さんができたなら、その辺りは気を付けないと、すぐにフラれちゃうよ】


 「よ、余計なお世話だ……」


 あのあたりから、綾夏に対する僕の見方が徐々に変わってきていたんだっけ……。


 【あとは、やっぱりカップル限定のドリンクかな。あのときが人生で一番ドキドキしたかもしれない。だって、あんなことは好きな人とでしかできないから。でも、私はもうその時も蓮くんが好きだったから、緊張で緊張で、どんな味がしたのかもあんまり覚えていないくらいだよ】


 「それは僕も同じだ……綾夏みたいな可愛い女の子と一緒のドリンクを飲むなんて、人生初だったから」


 それに、僕の心臓も異常なほどに大きく跳ね上がっていた。


 【夏祭りだってそう。少しでも蓮くんの気を引きたくて、勇気を振り絞って浴衣を着てみたの。一緒に着てみたら、もうお揃いって感じで、言葉はなくても私たちって本当の恋人見たいって思えて、とっても嬉しかった。

 花火のときも、思い切って腕も組んじゃってみてさ……実は蓮くんの心臓の音が伝わってきて、とっても鼓動が早かったから、作戦大成功だって思ったよ】


 「まさか綾夏がそんな大胆なことをしてくるなんて思いもしていなかったからだよ。それに、心臓の鼓動の速さは君のも僕に伝わっていたよ。僕よりもずっとずっと早かったじゃないか」

 

 【あとは、合宿。夜中に砂浜でおしゃべりたとき。私が泣き過ぎてそのまま寝ちゃったよね。それを聞いたときはすっごく恥ずかしかった。でも、好きな人の膝の上で寝れるなんて、なんて幸せなんだろうって思ったんだ。

 もう一度蓮くんの膝に頭を乗せていい夢を見たいな……なんて思ったけど、それもできそうにはないので、あのときの思い出を私はずっと持ち続けることにするね】


 その瞬間、脳天から何かが突き刺さるような感覚に陥った。

 最初は何とも思っていなくて、むしろ不思議な言動をする女の子だな、くらいにしか思っていなかったのに。


 文芸部に入部して、一緒に過ごすことが多くなって、綾夏の表情をたくさん見るようになって。

 ちょっとした仕草に胸が高鳴って、少し身体が触れ合うだけで緊張して、たった数日顔を見ないだけで心配になって……。


 この手紙を読んで思い返すと、間違いなくそう思う。

 僕も――綾夏のことが好きになっていたんだっていうことに。


 「なんで……なんで気付けなかったんだ」


 綾夏の字の上に、ぼたぼたと、大きさの異なる染みが次々と広がっていく。

 もしかしたら、自分の心の変化には気付いていたのかもしれない。


 だけど、綾夏が病気だと知って、この先長くはないと知って。

 それを伝えてしまったら、離ればなれになってしまったとき、僕は前に進むことができなくなってしまうのではないかと、思ってしまったのではないだろうか。


 後悔なく最期までやりきりたいという彼女の願いに、陰りを生み出してしまうのではないかと思ってしまったのではないだろうか。

 それなら自分の気持ちを伝えることなく終わろうと、そう思ったのではないか。


 しかし、それは綾夏も同じことを考えていた。

 つまり、僕たちはお互いを想っていたけど、それを言葉にすることができなかったのだ。


 口にしないで、あとで真相が分かったときほど悔しくてたまらない気持ちになったのは初めてだった。

 何であのとき言わなかったのだと思ってしまうけど、そのときに戻る術はなくて、時は無慈悲にも前の身を向いて進み続けるのだ。


 手紙も残り少なくなってきた。

 僕はそれを握りしめるようにして読んでいく。


 【蓮くんの気持ちを確かめることはもうできないけど、少しでも私の想いが蓮くんに伝わっていたら、私はそれだけで嬉しいな】


 「バカ……綾夏のバカ……」


 僕も好きだ。

 涼野綾夏が好きだ。

 明るくて活発なところが好きだ。


 わがままなのは、自分の意見を曲げない強さがあるから――。

 ふとしたときに弱音を吐くのは、それまで強く辛抱してきたから――。

 すぐに泣いてしまうのは、それだけ感受性が豊かだから――。


 そんな綾夏が――僕は好きだ。


 手紙の最後はこう締められていた。

 

 【私がいなくなって、きっと蓮くんはセミの抜け殻みたいになっているだろうね。でも、それを私のせいにするのだけは勘弁してよね(笑)

 文集、絶対に完成させてね。私の最後の、本当に最後のお願いだから。

 だから、蓮くん。足を踏み出して。外の空気を吸って。あの丘から見える景色を見て。そうすれば、きっと何かが変わるはずだから。

 それでもまた寂しくなったら何回でもこの手紙を読み返して、そしてまた私とおしゃべりしようね。ずっと待ってるから。

 顔を見て話すことはできないとしても、心が繋がっていれば、きっと思いは伝わると思うから。

 蓮くん、ありがとう。

 どうか私を忘れないで。私と過ごした時間を絶対に忘れないで。

 綾夏より】


 当たり前だ。

 こんな短い時間で僕の人生観をひっくり返していった君を、この先忘れるわけがないだろう。いや、忘れてたまるものか。


 涼野綾夏――任せておけ。

 君の願いは、藤木蓮――僕が必ず叶えて見せるから。


 強くそう決心し、僕は原稿に手を伸ばした――。 

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