第34話 その瞬間
綾夏は目を閉じている。
僕はもう彼女になにも話しかけることができず、ただ彼女の横顔を見つめていた。
僕と綾夏との間は、距離にして一メートルにも満たない。
手を伸ばせば、彼女の頬に触れることはできるのだろうけど、その間には決して入ってはいけない、入り込んではいけないような、透明で高い壁があるような気がした。
だから僕は、膝の上で固く拳を握っていることしかできなかった。
もう医者もやれることだけのことはしたのだろうか、ただただ黙って彼女を見つめているだけで、何かをしようとする意思は感じられない。
もう誰も声を発することはない。
でも僕は、何度も心の中で綾夏に語りかけた。
――また一緒に遊びに行こう、と。
――文集を完成させて、一緒に文化祭に出よう、と。
――お願いだから、また目を覚まして、わがままを僕にたくさん聞かせてほしい、と。
しかし、僕の願いはその見えない壁に阻まれてしまって、綾夏に伝わっている気が全くしてこない。
呼吸に合わせて酸素吸入器が白く薄く色付くことだけが、綾夏がまだ生きていることを無言で知らせてくれていた。
それからどれくらいの時間がたっただろうか。
さっきまで石像のようにその場に立ち尽くしていた医者たちが突如として慌ただしく動き始めた。
何事かと、僕は席を立って近づこうとした。
でも、僕の周りにいる人は皆その場に立ったまま、茫然とした様子でいた。そのせいで、まるで金縛りにあったように硬直し、身体のどこも動かすことができなかった。
僕はさっきいた場所から離れた場所にいるから、ベッドで一体何が行われているのかなんて全く分からなかった。
医者がこちらを向いて深々とお辞儀をする。
それに合わせてベッドのそばに移動していたお父さんとお母さんがベッドに突っ伏して身体を大きく震わせながら泣き崩れた。
それを見て、僕は察した――ついにその瞬間がやって来てしまったのだと。
心電図の波形が直線になっていて、いくらたってもそれが再び波打つことはなかった。
綾夏の表情は、どこかやりきったような、でもまだまだ物足りないというような、そんな風に見えた。
まるで昼寝をしているかのように自然体だから、もしも声をかけたら、眠気眼を擦りながら返事を返してくれるのではないかと思えてくるほどだった。
でも、彼女は起きなかった。
僕がいくら呼んでも、半ば叫ぶようにしても、彼女は眉毛をピクリとも動かすことなく眠っていた。眠り続けていた――。
僕と永田は、綾夏の家族に今までのお礼をしてから、そっと病室を後にした。
もう窓の外は夕日が落ちかけていて、オレンジ色のぼんやりとした光が差し込んできている。
僕と永田は一言も発することなく、出口に向かって歩いた。
もしもどちらかが口を開こうものなら、綾夏に対する思いが留まることなく溢れてきそうだったから。いや、溢れてきそうではなく、溢れてくるからだ。
歩くペースは何も変わっていないにもかかわらず、出口までたどり着くまでには相当な時間を要してしまったかのように感じる。
脚が沼に嵌ってしまったように重く、前に一歩踏み出すことにすら体力を使った。
一歩、一歩進む度に、一歩、一歩、綾夏との距離が離れていく。
もう……綾夏の無邪気に笑った顔を見ることができない。
もう……綾夏のわがままに、嫌々ながらも従うことができない。
もう……綾夏との思い出を増やすことができない。
もう、もう、もう……もう――。
脚が止まった。
その瞬間、ダムが決壊した。
この数時間、いや、綾夏の病気のことを知ってから、心の奥底に隠していた、閉まって固く鍵を掛けたところから、一気に感情が逆流してきた。
「なんで……なんで……なんでっ!」
「ちょ、ちょっとあなた――藤木っ……あなた、なんで……こんなところで……そんなに大きな声で……」
僕を止めようと入った永田も、声を発してしまった。
口を開いた瞬間、僕と同じように思いが涙となって溢れ出してしまった。
「こんなのっ……信じたくないわっ……どうして、あんなに元気だった綾夏ちゃんが……綾夏ちゃんが……どうしてっ!」
人目も憚らずに、僕と永田は泣いた。
その場に崩れ落ちて、泣き叫ぶ。
涙が渇いたとしても、喉が枯れたとしても、それは時間がたてば自然に治ってしまう。
でも、いくら時間がたとうとも、涼野綾夏は二度と僕たちの前に立って笑った顔を見せることはない。もう二度と――。
廊下には僕と永田の慟哭が響き渡っていた。
悲しいという感情よりも、空っぽになったという表現の方が、今の僕を表すには適切かもしれない。
あの後、どのようにして家に帰ったのかも覚えていない。
ただ、泣いて、嗚咽を漏らして、ただひたすらに感情を溢れ出し続けた。
全ての感情が涙となって、声になって抜け落ちると、抜け殻のようになってしまった。
何をするにもやる気が起きず、思考を巡らせようとするたびに綾夏の笑顔が脳裏を駆け巡るから、とっくに枯渇しきっているのにもかかわらず、どこからか感情が溢れだしてしまう。
ひたすらにその繰り返しだった。
お通夜もお葬式もそんな状態で参列していたから、気が付いたときにはもう全て終わっていて、僕は制服に身を包んでホールの隅に立っていた。
すると、奥の方から一人の女性が歩いてくるのが見えた。
段々と近づいてきて、ようやくその女性が綾夏のお母さんであることが分かった。
綾夏のお母さんは僕の姿を視界に捉えると、「こっちこっち」と手招きをしてきた。
「は、はい……お呼びでしょうか」
あの日以来、僕は彼女と面と向かって話すことはなかったから、緊張のあまり、初対面のような口調になってしまった。
「蓮くん……会えてよかったわ」
最後にあったときよりもだいぶ痩せてしまった印象を受ける。
最愛の娘を失った心労というものは計り知れないほど精神に大きな傷を負わせてしまうのだと思った。
「これ……綾夏が……蓮くんに渡してくれって」
「これは……」
彼女が僕に差し出したものは、いつも綾夏が肌身離さず持っていたあの手帳だった。
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