第7話 キスは約束の証

 マダム・フェリーゼの店での『結婚』宣言から十日後の昼、エステルはアルベルトの書斎の前をうろついていた。


 当然、アルベルトはこの時間は仕事中なので書斎の扉は閉まっている。


(…今日も閉まってる。全然出てきてくれない……)


 なかなか開いてくれない扉を恨めしそうに睨むが、扉に人間の心情など分かる訳が無い。

 開かないものは、断固として開かないのである。

 エステルはズルズルとその場にしゃがみ込み、膝の上で組んだ腕の中に顔を埋める。


 この屋敷に来てからのこの短期間で分かったことは、アルベルトはそれなりに忙しいということ。

 伯爵本来の領地運営の仕事もこなすし、二日に一度は王宮からの使いがやって来て、書類のやり取りをするのだが、今回に関してはそれだけではなさそうなのだ。


 一昨日、アルベルトの元に一通の小包が届けられた。

 差出人は彼の弟であり、現在は寄宿学校へ通う『ルイス』からである。

 アルベルトは包みを開けるなり、複雑そうな顔をして『暫く書斎に篭るから』とだけ言い残し、扉を閉めた。

 そして、今日の今日までこの状態である。

(そろそろ限界。アルトに会いたい……)

 人間とは欲深い生き物だと思う。

 ついこの間まで、四年も離れて暮らしていたのにいざ会ってしまうと、たった数日、数時間でも離れ難くなってしまうのだから。

(……仕事中は邪魔できない。しちゃ駄目。……でもこれじゃ、聞きたいことも聞けない)


 そろそろ床と同化出来そうな時間が経過した時、開かずの扉がようやく開いた。

 その音に勢いよく顔を上げると、目を見開いたアルベルトが立っていた。


「……用事があるなら開けても良いんだよ?」


 困った笑顔を作りながらしゃがみ込んだエステルに手を差し伸べる。

 その掌におずおずとエステルが手を乗せると、ゆっくりと立ち上がれるように、アルベルトは引っ張ってくれた。



「……では、まずハグをお願いします。」


 小さく手を広げるエステルに『お安い御用で』と笑いながらアルベルトは応える。

 大きな背中にしがみつくように手を回す。


(――不思議だ…)


 なぜ抱きしめて貰うだけで、さっきまでのモヤモヤは飛んでいってしまうのだろう。

 目を閉じ、アルベルトの爽やかな香りを胸いっぱいに嗅ぐ。


「姫、如何ですか?ご満足頂けましたでしょうか?」

 頭上から振る声は少しここ連日の疲労が感じられたが、エステルが見上げると微笑みその額にキスを落とす。

 その柔らかさに頬を赤に染めると、エステルはようやく笑った。


「……うん、もう大丈夫」

 離れるのは名残惜しかったが、アルベルトの手には手紙の束を紐で括ったものが握られている。

 これからやってくる郵便配達員に頼むのだろう。

 一歩後ろへと下がり、アルベルトを見た。


「……他に何かあるのかな?」

 お願いを聞いても立ち去らないエステルに、アルベルトの空と海を混ぜたような青い目で覗き込んだ。


 ――聞きたいことなら、ある。


 それは、マダム・フェリーゼの店での『結婚』宣言についてだ。

 思えばあの時、エステルもすっかり流されドレスを作ってしまった。


 が、それ以降アルベルトが結婚について話を持出してこないのである。


 ちゃんとあの後、確認しなかった自分も悪い。

(アルトにとってはドレス一着くらい、なんてことないのかもしれないけど……でも……!)


 エステルは正直ちょっと期待していた。

 法的には無理かもしれないが、二人で穏やかに暮らしていくくらいは許して貰えると。


 だから、失念していた。

『結婚は出来ないが、一生ウエディングドレスを着ることが出来ないエステルのために、ドレスだけは作ってくれた』という可能性を。

 聞かなければと分かっているのだが、言葉がなかなか出てこない。


 俯くとつい、むぐぐと歯を噛み締めてしまう。

 前に視線を移せば、アルベルトは黙って待っていてくれている。


(頭で分かっていても、ショックを受けるのは避けられない。)


 その時、ふとアルベルトの手の中にある手紙の束が目に入った。

(……そういえば、何だろうあの手紙…)


 貴族はよく手紙をやり取りする。社交の基本だ。

 夜会の招待状から、礼状は当たり前。

 しかし、アルベルトは今出ていない。


 手紙の量から察するに、ここ数日間の開かずの扉はこれが原因なのであろう。

 発端になったのは弟―ルイスからの小包である。


(……あの中身…!)


 エステルはアルベルトの横を抜け、書斎の扉を開けた。

 まだ書斎机にはあの小包の中身であったろう手紙の束がある。


「エステルっ!?」


 突然のエステルの行動にアルベルトは慌てて止めようとするが、彼女の長い髪がスルりと指の間からすり抜けるだけだった。

 エステルは机にあったうちの一通を取り上げると、中を開いて確かめる。


 そこに書かれていたのは、年頃の貴族令嬢の身元であった。


(――これ、釣書だ!!)

 あの小包の中身は見合いの申し込みの束だった。


「……エステル、返してくれ」

 震える手で釣書を握るエステルの背後から手を伸ばし奪おうとする。


 が、エステルは咄嗟に振り返り、声を上げた。

「っ!!何で……何で、釣書が届いているの!?しかもこんなに沢山!……だってアルトは私とっ……!」

 自分の口から出た言葉にハッとし、途端に言い淀む。


(そうだ…私はまだアルトから求婚もされてない…)


「……えと。……その……何でもないの……」

 この言い方は何でもあると白状しているものだ。

 一瞬、アルベルトの目が厳しくなる。


(もしかしたら、あのドレスは『同情』だったかもしれないんだから、私が怒っていいことじゃない)


 己の情けなさと自惚れにエステルは釣書をくしゃりと握りしめた。

 アルベルトは溜め息をつくと、エステルが握っていた釣書をゆっくりと取り上げ、皺を伸ばすと折り直し封筒へ仕舞いこんだ。


「……これも僕の『仕事』だ。まだ一応独身だしね。実は昔も君がいなくなった、かなりの数の見合い話が来たんだ。……まぁ、全部断ったけど」


 肩を竦め苦笑いを浮かべた後、アルベルトにしてはだらしなく書斎机に腰掛けた。


「王宮の出仕を止めたら、流石に来なくなったから油断していただけなんだけど、この前外に出たのがバレた。おまけに女連れだと話が広まったらしくてな、そうしたらルイスが出仕した日に、取り次げと人が殺到したらしい」


 それがこれだと釣書の束をエステルに見せ、机の上へと投げ置いた。

「これでも大分その場で断ってくれたみたいなんだ。君としては面白くはないだろうが、ちゃんと断りの手紙は書いたから。……だから、そんな顔をしないでくれ……」


 エステルは気付かないうちに、唇をギュッと結んでいた。


 泣いてはいないが、酷い顔をしていたのだろう。

 アルベルトが手を伸ばし、頬に触れやがてエステルの唇を優しく親指でなぞり解いていく。


(……嫉妬なんてみっともない……)

 せっかくアルベルトが解いた唇をもう一度引き結び、アルベルトの肩へ額を載せた。

 アルベルトの手がエステルの髪を優しく撫でる。

 指先で感触を楽しむように、梳いてはまた撫でを繰り返す。


「……エステルが聞きたいこと、実は何となく検討が付いている」


 その言葉にエステルは頭をアルベルトの肩に預けたまま目を見開いた。


『君はすぐに顔に出るから』と笑われ『でも僕はそんなところが好きだよ』と慰めれた。

 その言葉に胸がぎゅっと締め付けられた。


(…あぁ、本当に今の私は辛抱が足りてない…)

 

きっとエステルに不快な思いをさせないように、篭って返事を書いていたのであろう。

 これだけ想ってもえらえているのに、不安を怒りに変えてぶつけた自分が恥ずかしい。

 アルベルトは話すべき時にちゃんと話してくれる。そういう人なのに。


 少しの沈黙の後、アルベルトの指先がエステルの顔へと触れる。

 顔を上へと向けられると、空と海の青い目が揺らいでいた。


 何かを告げようとアルベルトが口を開けて、また閉じて。


 エステルから視線を外した時、自分自身にがっかりしたようなそんな表情をして、ようやく少し掠れた声が出た。


「…けどごめん、もう少しだけ待って欲しい。……まだ僕の勇気が出ないんだ」


 ため息混じりに告げられた言葉は、懇願だった。


 何事にも迷うことなく決めていくアルベルトには珍しく思えたが、彼がそこまで言うのだからきっと何かあるのだろう。

「…分かった。ちゃんと待てるよ」


 いつもアルベルトはエステルの言葉を待ってくれる。

 その優しさを今度は自分が持つ番だ。

 エステルは自分の顔に触れているアルベルトの手を撫でた。


 そのじんわりとした温かさにアルベルトも微笑む。

 やがて『ありがとう』という言葉と共に、唇と唇が優しく触れ合った。

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