あと一日、そしてサ終へ


「おはようございます、世界の終わりまであと一日になりました。学生の皆さんは、引っ越し作業は終わっていますか? バックアップを取っていないデータはありませんか? すべて終わった学生さんは、どうかお元気で。この大学での生活が、皆さんの素晴らしい創作活動の一助になると、信じています」

 蛍の光のメロディーに合わせて、ニュースキャスターが大学の終わりを告げる。

 鏡に向かう脱稿明けの私は、バーチャルだというのにやつれて見えた。

 唇に、ユキのグロスがうつっていればいいのに。

 自然と涙がこぼれた。


 その日、5万人の学生が在学していた一大バーチャル大学がサービスを終了した。多くの学生は引っ越しを終えて他の大学や専門学校に編入したけれど、ズボラな私は引っ越し作業を何一つ行えないまま、完成した原稿だけを胸に抱えてリアルに戻った。

 手元に残るのは、講義データの山(暗号化されていて読めない)、拡張子が同じなら生き返るかもしれない下書きの山、そしてもはや意味を為さない大学内のユキのアドレス……


 シャワーを浴びて、数日ぶりにリアルの我が家のフローリングにペタペタと足跡を残す。

 げ、足裏が埃まみれだ。

 鏡を見ると、久々のリアルな私は眉毛が変な感じでつながっていた。

 眉毛を整え洗面台を探ると、いつ買ったかも定かでないアイシャドウが発掘できた。

 ユキの涼やかな一重は真似できないけれど――

 いつかのユキがつけていたような、偏光ラメのアイシャドウで武装して、私は出版社へと向かった。


「青山リカ、戻って参りました」

 編集部の入口でビシっと敬礼を決めてみると、編集者の一人がこちらを振り向いた。先輩作家の担当編集だ。

「おー、リカさんお帰りなさい。聞いたよ、大学生活がこんな風に終わるとはね。さすがリカさんといったところか、やっぱついてないよね」

 原稿、進んだ?

 編集が上から覗き込むように話しかけてくる。

 怯みそうになるところをぐっと耐え、こちらも目力を強くして対応する。

「大変でしたけど、なんとか描き終えました、自信作です」


 編集長のデスクまで進むと、部屋にいい香りが漂っていることに気が付く。周りを見渡すと、隣のデスクに大きな胡蝶蘭が飾られている。隣は別の漫画雑誌の編集長のデスクだ。

 花の上には、〈新連載決定、おめでとうございます〉のメッセージボード。

「お帰りなさい、リカさん。大学が閉じちゃうとは大変だったね。元気だった?」

 久々に会う担当編集が迎えてくれるが、どうしても蘭が気になって仕方がない。

「編集、あれは誰のお祝いですか?」

「あのお花? 結城幸太郎先生のお花だよ。新連載が決まったんだ」

「幸太郎先生!? 久々の新作じゃないですか! 私すっごく好きなんです!」

 結城幸太郎先生は、二十年間最前線で漫画を描き続ける人気作家だ。男同士の熱い友情と、豪快にぶっ放される銃器の熱気が伝わるような、迫力のある作画が人気だ。

 特に直近の作品、幻の日本刀にまつわる大河ファンタジーは大変な人気を呼び、先生の作品に触発されて日本刀を学ぶオタクが後を絶たない。

 でもこの三年くらいは新作がでていなくて、先生はどこかで力を蓄えているのだとファンの間で話題になっていた。

「ほら、これが新作の予告」

 編集に渡された携帯端末では、美少女キャラクターが微笑んでいた。

 女主人公は幸太郎先生には珍しい。フリルのエプロンドレスを着て、カンフーのような動きをしている。

 あれ、このキャラクターどこかで……

「あ、噂をすれば結城先生だ。結城先生! こちら新人作家の青山さんです。先生のファンみたいですよ」

端末を覗き込んでいると、隣のデスクからツイードのスーツに黒縁眼鏡をかけた、オシャレな男性が現れた。

「青山さん、最近までバーチャル芸術大学にいたんですよ。なのに潰れてしまって――」

胡蝶蘭の匂いを切り開きながら、結城先生がこちらにやってくる。

 眼鏡の奥で、先生の一重瞼が柔らかくカーブを描く。

「はじめまして、結城です。先生の漫画、いつも楽しく読んでいましたよ。同じ出版社の作家としてよろしくね、リカ先生」

 彼の瞳に吸い込まれる私に、結城先生はバチンと完璧なウインクをした。

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