煙草

東雲結衣

第1話

「あら、いないの」

 寮の部屋はがらんとしていて、彼の姿はそこには無かった。中途半端に開いたカーテンの隙間からは西日がまっすぐ帯状に伸びていて、部屋の中を橙色に染めている。

 机上には開いたままの本が置き去りにされており、持ち主の帰りを待っていた。

読書中に誰かに呼ばれでもしたのだろうか。


「まあ、先生にでも呼ばれたんでしょうね」

 誰に云うでもなく呟くと、ふわりと頬を風が撫でた。机上を見ると、本の頁がぱらぱらと踊っている。どうやら窓から外気が入り込んでいるようだった。

開けっ放しにしたままで彼が出掛けるとは考えにくいから、よほど性急に連れて行かれでもしたのだろう。苦虫を噛み潰したような表情を思い描いて苦笑した。きっと相当に機嫌を損ねて帰って来るはずだ。借りた本を返そうと思って部屋に寄ったのだが今日はやめておいた方が得策だろう。

そう考えて踵を返そうとした時、机の上に置き去りにされた箱に気が付いた。

掌ほどの大きさをした濃紺の小箱。金色の縁取りと英文字のロゴが目を引いた。

見覚えのある特徴的なデザインのそれは、彼が愛飲している煙草の箱だった。

洋菓子の箱のようなその見た目が気になって幾度も彼にねだったが、君がこんなもの吸うなんて百年早い、云っておくがこれは菓子じゃないんだぞ——と一蹴されてしまっていたのだ。子ども扱いも良いところだ。

煙草の匂いはあまり好きには慣れなかったけれど、それを燻らす彼の姿は気に入っていた。燐寸マッチを擦る長い指と、ふっと照らされる手元。伏せた瞼から見え隠れする瞳には、ゆらりと妖しく炎が揺れるのだ。燐寸の火を消すまでの、ほんの一瞬だけ見えるその顔が好きだった。

じいっと見詰める私を見て、君にはやらないからな、と男はいつも釘を刺すのだった。見蕩れていたなんて思われるのも癪だから、わかってるわよと云いながら口を尖らせる——気が付くと、それがいつものやりとりになっていた。

でも、今なら誰も居ない。

きょろきょろと辺りを見渡すと、おもむろに机の上に手を伸ばした。

——一本だけだから。

もしも咎められたならば、喫茶店か何かで埋め合わせをしよう。そう考えながら見よう見まねで燐寸を擦った。

シュッという小気味よい音と共に、ふわりとリン香りが漂った。

すうっと息を吸い込む。この香りはなかなか悪くない。

紺色の箱から紙巻煙草を一本取り出すと、彼がいつもしているように口に咥える。だが、いがいがした草の感触に、思わず顔を顰めてしまう。——何だか、思っていたものと大分違うような気がする。男はいかにも旨そうに吸うが、こんなものが本当に旨いのだろうか。

半信半疑のまま、手元の煙草に火を点けた。じじ、という微かな音を立てて紙が燃えてゆくのが分かる。だが一向に煙が出ずに、すぐに火が消えてしまう。

吸い込まなければ火が付かない、と気が付くまでに少しの時間を要した。こんな姿、彼に見られたら何と揶揄われるか分からない。そう考えて思わず赤面する。

誰もいなくてよかった、と思いながらすうっと息を吸い込んだ。

——苦い。

しかも苦いだけではない。何だか喉がざらざらとして息が詰まりそうになる。むず痒いようなその感覚は、はっきり云って不快そのものだった。けれど吸い込んだものは吐き出さねばなるまい。ふっと煙を吐き出そうとして、盛大に噎せた。

「げほ……ッ、ごほっ……! うう、こんなのぜんぜん美味しくなんかないわ!」

 息苦しさに涙目になりながら、そう悪態を吐いた。咳き込んでいるうちに、手元の煙草はあっという間にぼろぼろと灰に変化してゆく。零れないように慌てて煙草盆を引き寄せた。

 ぎゅっと押し潰すようにして火を揉み消すと、漸く呼吸も落ち着いてきた。はぁ、と深く溜息を吐きながら肩を落とす。

まったく、散々な目に遭った。自業自得なのは分かっているのだが。

 喉はまだひりひりと痛んでいた。口の中にも、まだ苦い味が残っている。

おもむろに口の中で舌を転がした。初めての筈なのに、どこか覚えのあるような味がした。

 そうだ、これは——


くちづけの味だ。

 

 それに思い至った瞬間、かあっと頬が熱くなるのを感じた。頭の芯が痺れてくらくらしたけれど、煙草のせいだと云い聞かせる。

 いい加減に部屋を出なくては、そろそろ彼が戻ってくるかもしれない。そう考えて立ち上がろうとした。

 その瞬間、背後から声を掛けられる。

「——何をしているんだい、花咲君」

 びくり、と肩が跳ねた。

 振り返るまでもなく分かる。声の主は——多分、この煙草の持ち主だ。

「ほ、本を返しに来たのよ……でも貴方がいなかったから、また今度にしようかと」

 ふうん、と云いながら声の主はゆっくりと歩み寄ってくる。意を決して振り向くと、思ったよりもずっと近い距離に男の顔があった。咄嗟に煙草盆をそうっと背中で隠す。

「ど、どうしたの……そんなに怖い顔して」

 男は何も答えない。

こちらを見詰める瞳は鋭い光を放っている。勘の鋭い彼のことだから、もうとっくにばれているのかもしれない——とにかく何か言い訳をしなければ、と口を開いた。

その時だった。

 唇に、柔らかいものが触れる。

 口付けされたのだと、そう気が付くまでに少し時間が掛かった。目を伏せようとすると、更にぐっと深く押し付けられる。下唇を食むように押し当てられたそれは、中々離れようとしなかった。触れるだけのものとは違う、情交の始まりを予感させるような口付けに、鼓動が早くなるのが分かった。じわりと体の芯が熱を帯びてゆく。

視界の隅でふわりとカーテンが舞った。窓を開け放したままにしていたことを思い出す。途端に羞恥心が頭をもたげてきて、男の袖を引いた。

けれど彼はそれに構う様子も見せず、さらに深く唇を吸った。しかも、音まで立てて。

「……ッ、や、め……ッ」

 身体を押しのけようともがいたが、回された腕の力は意外にも強く、逃げることは叶わなかった。こんな痩身の一体どこにこんな力があるんだ、と思うほどにぎゅっときつく抱き締められる。

「っ、んん……ッ!」

 生温かい舌が、唇を割って口の中に侵入してくる。反応を愉しむように歯列を舐めると、舌の先で歯茎の裏を弄ぶ。

ぞくり、と背中が震えた。目の眩むような官能に、肌が粟立つのを感じる。力が抜けたのを良いことに、奥まで舌が差し入れられた。舌の根元まで絡み合うかのような深い口付けに、がくがくと足が震えるのが分かった。

 ちゅ、と音を立てながら、ゆっくりと唇が離れてゆく。つうっと唾液が糸を引いた。

 夕暮れの橙色で光った唾液は、何だかとても淫猥なものに見えた。思わず赤面して目を逸らした。

 口元から形の良い歯を覗かせて、男は薄く笑う。

「花咲君。——吸っただろう、煙草」

「……え?」

 一瞬、何を云われたのか分からなかった。深い口付けの余韻が後を引いていて、それどころでは無かったのだ。正直に云うならば、煙草の事なんて忘れかけてしまっていた程だ。

 呆れたような表情で男は言葉を続ける。

「え? じゃあないよ、吸ったか吸っていないかを聞いているんだ。ああ、でも言い逃れは出来ないぜ。机の上を見ろよ。煙草盆の吸殻が動かぬ証拠さ。——そして何より、君の舌の味もね」

 そう云うと、彼は己の舌先を見せながら笑う。その言葉の意味を理解して、頬が熱くなってゆくのが分かった。

「し、し、舌の味って……! まさか貴方、確かめるために自分に、その、あんな事を」

 さあねと云いながら、口の端で悪戯っぽく彼は笑う。完全にこの男の掌の上だ。情けなくて顔から火が出そうになった。きっと耳まで赤くなっているに違いない。

 愉快で堪らないという顔で、男は紙巻煙草に火を点ける。

「これに懲りたら煙草なんて止したまえよ。君にはまだ早いと分かっただろう」

 美味そうに煙を吐き出す男の横顔を、恨みがましく見つめることしかできなかった。

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