掌編小説集

魚pH

遅刻魔

 私が昔、本屋でバイトをしていたときの話をしたい(正確には本屋というより雑貨屋だったのだが)。

 当時私は高校生で、バイト禁止の高校だったから学校にバレないように小遣いを稼いでいた。バイト先の本屋はわりかし自分の家から遠く、バスで一時間弱かかった。片道。自宅徒歩圏内の高校に通っていたもんで同級生はいざ知らず先生に見つかると大いに不都合だったからだ。交通費はバイト先が出してくれるし、私は乗り物に揺られる時間が好きだから苦じゃなかった。困ることがあるとしたら、土日とか、朝早い時間にシフトが入っていると遅刻しかけることくらいだった。

 実を言うとタイムカードの打刻に間に合わないこともあった。ああいう日のバスの中では最悪な気分で、信号待ちにイライラする自分にイライラしている。ちなみに登校途中のバスじゃこうはならない、学校は遅刻しまくってた。

 なんでバイトと学校でこう違うのかっていうと多分、バイトでは遅刻しても怒られなくて、学校では遅刻すると怒られまくってたからじゃないかな。バイト先の人たちはみんな優しかった。いや学校の先生たちが怒ってくれるのもそれなりの優しさではあるけど、それにしてもあの本屋に勤めていた大人たちは寛容だった。今でも私が朝に弱いことを考えると寛容すぎたのかもしれないけど。


 つうってもバイトに遅刻してもほとんど怒られることがなかったのは多分、私よりひどい遅刻魔が居たのが一番の理由だろう。遅刻魔、仮にTとする、Tとは直接話したことはあまりなかった。一度だけTから「何歳なんすか?」と訊かれ「16です」「若っ、声低いから同い年くらいかと思ってました」「はぁ」みたいな下手なキャッチボールをした。他にも話したことはある気がするけど気がする程度だ。あっちが何歳だったのか知らないが、察するに大学一年か二年か三年か四年、あるいは留年してたのかもしれない。彼は毎回10分遅れは当然で、事前連絡もあったりなかったり、しかし仕事ぶりはまぁまぁで、遅刻さえしなければいいんだがと店長が副店長と愚痴りあっていた。そういう愚痴から私は間接的にTの輪郭を推測していたわけだ。比べるのもなんだけど、私は遅刻といってもせいぜい1~2分、月に1度あるかないかだったし、遅れそうな時は連絡していたし、かなりマシだったのだろう遅刻の時点でダメだけど。彼のおかげで私の影が薄くなっていたのは確かだ。


 Tと話したことはあまりない。だから彼が遅刻をどういう気持ちで捉えてたのかも推測するしかない。でも、遅刻の回数とか程度が違うだけで根本のところは私と同じなんじゃないかと思う。仲間が欲しいだけかも知んないけど。


 だから彼が怒られていると他人事じゃないようで、もう二度と遅刻しねぇぞって気分になるのにまた私も遅れる時は遅れるし遅れるのにイライラしてる自分にイライラするし、意識が低いって言われても仕方ないのに相変わらず怒られなかった。


 で、Tはクビになった。詳しくは知らない。


 輪郭によるとTは珍しく遅刻の連絡を入れようとして電話口で店長をブチ切れさせたらしい。もう来なくていいとドラマのように幻想的なセリフを叩きつけられたのを最後にTは本当に来なくなった、かというとそうではなく普通にヘラッと仕事場に登場してヘラッと遅刻を謝罪したらしい。で二度目ブチギレられて、副店長もそこそこキレて、クビになったらしい。


 全く他人事じゃない話だ。何故なら一度目電話口でブチ切れられたのは私だからだ。多分、私の低めの声が電話を通すとTの声によく似ていて、ついでにTというのは「遅刻魔」のTだが実際彼の本名のイニシャルもTであり、また私の本名のイニシャルもTであり、結論から言えば同姓同名だったのだ。遅刻の朝、連絡を入れようとバイト先に電話をかけた私は「Tです。すみません、今日すこし遅刻し」あとは言えなかった。呆然として「すみません」と繰り返し、怒号が止んでから電話を切り、鼓動が収まるのを待った。私がその日バイト先に着くとTが店長と副店長に頭を下げていて、他の店員が遠巻きにそれを見物していた。私の遅刻は気付かれていなかった。


 あのバイトをやめたのに深い意味はない。行きたかったライブに行けて旅行にも行けてもう小遣い稼ぎの必要がなくなっただけだ。ただあの時のことを思い出すとやはり心が重くなる、なんてこともなく、別に無感情だ。Tは元々遅刻魔だし遅かれ早かれクビになってただろう。あれから私の遅刻は少し減ったがそれも深い意味はない。なんとなく早く起きられるようになっただけだ。Tはあの時もヘラヘラしていた。私は彼のああいう所に今も若干憧れているが、ああなりたくはねーな。

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