わたしが髪切ったから?


 午後のティータイムおやつ時間のとき。


「あら~、本当にバッサリ切っちゃったのね。綺麗な髪だったから少~し勿体無いような気もするけど、よく似合ってるわ。ネイサン君」


 スピカを抱っこしたミモザさんが現れて、にこりと微笑んで言う。


「ありがとうございます」

「どうだ、かなりさっぱりしただろ?」


 なぜか得意気な顔のロイに、


「ふふっ、なんであなたが胸を張るの? ロイ」


 クスクスと笑うミモザさん。


「これでもう、歩いてるときにスピカに引っ張られずに済むぜ。よかったな、ネイサン」

「あら、スピカったらそんなヒドいことしてたの? 悪い子ね。ごめんなさい、ネイサン君。スピカはちゃんと叱っておくわね」

「言って通じんのかよ?」

「通じなくても、悪いことをしたら叱るのが当たり前です。むしろ、叱らないと悪い子になるわ」


 ミモザさんとロイの、気安い親子の会話。


 わたしは母と、こんな風に気安く話をしたことはない。母がわたしに口を開くのは、兄上のことだけ。「ネイトは健康でいいわね。セディーは可哀想なのに」と、いつもそんな風に言って――――


 ミモザさんは神経質な母と違って、いつも鷹揚に構えていて、朗らかで、わたしにも分け隔てなくて……拳骨とかは痛いけど……


 少し、ロイが羨ましいような気もする。


「ほら、スピカ。ネイサン君にごめんなさいは? 髪の毛引っ張って、ごめんなさい」


 ミモザさんが、スピカを抱いたまま向かいの席に着いて、スピカに謝りなさいと促す。


「?」


 けれど、スピカはきょとんとした顔であちこちをきょろきょろ見ている。


「ほら、ごめんなさいよ。スピカ。ネイサン君に、痛い痛いさせてごめんなさいして」

「? ねーしゃ? ねーしゃ?」

「スピカ?」

「・・・なぁ、母様」


 ロイが、口許をニヤニヤさせながらミモザさんへと声を掛けた。


「あのさ、もしかしてなんだけどっ……ぷふっ」


 なにがおかしいのか、いきなり吹き出すロイ。


「……こいつっ、ネイサンが髪切ったから……」


 震える声が続ける。


「わたしが髪切ったから?」

「ネイサンのことわからないんじゃね? くくっ、ははははっ……もうダメっ!! なにコイツ、アホ過ぎっ!? アハハハハハハっ!!」


 とうとうロイは、きょとんとした顔のスピカを指差し、お腹を抱えて笑い出した。


「え?」


 確かに、スピカはわたしをねーしゃわたしだと認識していないようで――――


「だから、わたしはスピカに忘れ、られ……?」


 ガツンと頭を殴られたような気がした。そう意識した途端、ぽたんと手の甲へ水滴が落ちて来た。


「ロイっ!?」

「ハハハっ、なんだよ母様……って、どうしたネイサンっ!?」


 叱責するようなミモザさんの鋭い声がして、なぜかロイがわたしを見て慌て出す。


 ロイがなにかしたのだろうか?


「ど、どっか痛いのかっ!?」


 ぎょっとしたような質問。


「え? 別に……なんで?」


 室内だというのに、どこからともなくぽたぽたと落ちる水滴。


「だってお前、泣いてるじゃんっ!?」

「え?」


 焦ったような表情に……ああ、わたしは泣いてるのか、と他人事ひとごとのように理解した。


「あ、れ? なんっ、で……?」


 理解して――――袖でぐいっと涙を拭う。けれど、声は上擦って、涙は余計にぼたぼたと落ちて、なぜか全然止まってくれない。


「くっ、うぅ……」


 拭っても涙が、嗚咽が、勝手に出てしまう。


「大丈夫よ、大丈夫。スピカはネイサン君のことを忘れたワケじゃないわ」

「そ、そうだ、大丈夫だぞっ!」


 慌てたような声と、


「ちゃんと覚えているわ。でも赤ちゃんはね、目があんまり良くないんですって」


 優しいミモザさんの声がして、よしよしという風に柔らかい手に頭が撫でられる。


「だから……」


 ぴたぴたと頭を叩く小さな手の感触。


「たいたい、ないない!」

「っ、?」


 思わず顔を上げると、


「ねーしゃっ!?」


 びっくりしたような舌っ足らずな声がした。


 スピカが、わたしをネイサンねーしゃと呼んでくれた。


「ね? ほら、大丈夫だったでしょう?」

「ねーしゃ、たいたい?」


 ぷにぷにの小さな手が伸ばされ、心配そうなコバルトブルーが覗き込む。


「?」

「ネイサン君が泣いてるから。どこか痛いのかって、心配しているのよ」

「っ、く、ふぇ……」


 なんだかほっとして。今度は、別の意味で涙が止まらなくなった。


「たいたい、ないない。たいた~い、ないないっ」


 頭が、小さな手に撫でられる。


「スピカが、ネイサン君の髪を引っ張るから悪いのよ? だから、スピカ。ネイサン君に痛い痛いさせて、ごめんなさいってしましょうね」

「う? ……ねーしゃ、ごめしゃ! たいたい、ないないっ」


 一生懸命な舌っ足らずの声。よしよしという風に頭を撫でる温かい小さな手にうんうん頷く。


 けれど、涙は止まってくれなくて――――


 そしてわたしは、全力で泣いてしまった。頭と喉が痛くなって、声が掠れてしまって、目もぱんぱんに腫れるまで。


 思えば、こんなに泣いたのは随分久々だ。


 わたしはあまり手の掛からない子の筈なのに。


 乳母と二人で花畑に置き去りにされたときも、暗い夜道を空腹で歩いたときも、その後で意味不明に父に怒鳴られて殴られたときも、留学・・が決まったときも、家を出るときにも、わたしは泣かなかったというのに――――


 ああもうっ、恥ずかしいっ……!!


 けど、大きな声を出して泣いて泣いて、なんだかとってもすっきりした気分になった。


✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧


 翌日は、風邪をひいて寝込んだ。頭と喉が痛くて、怠くて起きられなかった。


 すると、ミモザさんがお医者さんを呼んでくれた。診察に拠ると、隣国の実家からクロシェン家こっちに来て、環境の変化に疲れが出たのだろうとのこと。


「ゆっくり休んでね」


 と、言ったミモザさんが看病してくれた。侍女と交代しながらではあるけれど。


 この前寝込んだときは……母はわたしの看病をしてくれなくて、乳母は父に抗議したことで既に解雇されていて、わたしはなんで乳母がいないんだろう? と思いながら……侍女達が自分の仕事の合間合間に看病してくれていたことに感謝した。


 母には心配されなかったけど、侍女達は心配してくれたし――――ミモザさんも、こっちのクロシェン家の侍女達も心配してくれる。


 そして、うつらうつらしながら寝て起きてを繰り返していたら、いつの間にかサイドボードにところどころ紫に染まった丸まったハンカチと、茶色い乾いた物体が置かれていた。


 なんだろうと思って手を伸ばしたら、丸まったハンカチの中からころころとブラックベリーが転がり出て来た。

 ハンカチは、ブラックベリーの潰れた汁でところどころ紫に染まってしまったようだった。


 ブラックベリーは甘くて、食べた後に舌にほんのりと渋みが残る味だった。


 多分、ロイからのお見舞いなんだろうけど、茶色い乾いた物体は……正直、要らないかな。セミのぬけがらが三個とか。

 まぁ、セミのぬけがらって、探すのは案外難しいんだけどね。でも、そんなの貰ってもわたしは全然嬉しくないし。


 ブラックベリーはかく、セミのぬけがらなんて本当に全く要らないけど、一応後でロイにはお礼は言っておこうと思った。


 そして、ドアの外からぎゃーぎゃーと聴こえる泣き喚く声と、それを一生懸命宥める声がして……


「ね~しゃ~っ!?!?」

「だからっ、ネイサンは風邪なんだっての。スピカは移ると困るから入っちゃ、め! なんだぞ」


 ちょっとウルサいけど……なんだか、くすぐったいような気分になった。


「ふふっ、一人で寝てても寂しくないなぁ」


 夜には、仕事から帰って来たトルナードさんがお見舞いに来てくれて……


 それから数日後、全快したわたしは、スピカにべったりと引っ付かれることとなった。

 ミモザさんも家庭教師も困っていたなぁ。ロイは一人だけ笑ってたけど。


 髪の毛を短くして、頭は確かに軽くなったし、髪を乾かす時間も短くなったけど……


 少し、髪を切るのが嫌になったかもしれない。またあんな風に、スピカにネイサンわたしだとわかってもらえなくなるのは、とても嫌な気持ちになる。


 忘れられるのは、すごく嫌だ。

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