28. 真実2
「あっちゃん……」
俊彦が話そうとすると、秋子はそれを遮った。
「私、夫にプロポーズされた時にもお店に行ったんです。諦めたつもりだったのに、たぶんまだどこか迷っていたんです、でもそのとき私見たんです」
何の事だろう、俊彦に思い当たるものはない。きっとそれが顔に出たのだろう、秋子がそれまでよりはっきりとした声で言った。
「お子さんです」
顔から血の気が引くのが自分でも分かった。
「帰ってすぐ、夫のプロポーズを受けました。それに本当はその前に結婚は決めていたんです。だってそのときはもう……」
別におかしなことではない、それなのにこの動揺は何だろう。結婚して子供まで産んだのだから辺り前のことだ、それなのに秋子が自分以外の男と結んだことが、何でこんなに苦しいのだろう。できる事なら彼女の口からは一生聞きたくなかった。
「昔あなたが言ったじゃないですか、私にはそれをあげる人と結婚してほしいんだって。でもあれ、私には辛い台詞だったんですよ? 私が他の誰かとそうすることを、あなたは許すってことになるでしょう? 『あなたはそれでも平気なの? 私はあなたをこんなに好きなのに』って私何度も思ったんですよ? だから私もうあなたと一緒になる事はできないんだなって、あの時にはわかっていました」
俊彦は思った、いま自分はどんな顔をしているのだろう、酷く悲しげな顔をしているんじゃないだろうか。勝手に自分で決めたくせに、いざ現実になったらまた勝手に悲しむなんて……つくづく馬鹿な男だ。秋子が続ける。
「でもあなたの言った事は本当でしたよ」
秋子は悲しみとも懐かしさとも違うような、そのどちらとも言えそうな目をしていた。
「言っていいのかしら……ううん、大丈夫ね。実は夫も私が初めてだったんですよ。彼は私が初めてだと知って涙を流して喜んでくれました。私の目を見ながら『君を一生大切にする』って言ってくれました。それは本当でした」
やはり悲しい、たったいま自分で馬鹿だと思ったばかりなのに、煮えたぎったマグマのような嫉妬が胸の奥から湧いてくる、まるであの”苦味”のように……。
それでも一人の男のかけがえのない幸せを奪わずに済んだ事を、俊彦は心のどこかで誇らしくも感じていた。自分は獣に勝ったのだ、あの激しい衝動に耐え抜いて、一人の女のたった一つのものを守り抜いた、最後まで秋子を大切に思いながら亡くなったであろう、名も知らない男のために。
川の上流からあの頃と同じ夏の湿り気を帯びた風が流れてくる、流れに落ちた木漏れ日もあの頃と変わず瞬いている。なのにあの若かった二人の時間は、ずっと遠くへ過ぎ去ってしまった。
「あなたがあの頃、私を大切にしてくれていた事はわかっています。でもあなたが私を抱きたかったように、私だってあなたとそうなりたかったんです。それが叶わなかった私の悲しみが、あなたに分かりますか? 分かるわけありませんよね、分かっていたら、あんな残酷な事は出来なかったはずですから。あなたはいつも最後に私を拒んだ。歌舞伎の夜だって、私はあなたと一緒ならあの青い月にだって行けると思った。私だけじゃない、私があなたを包み込んで、一緒に月まで昇りたかった。それなのにあなたは、あなたは最後まで私と一つになろうとはしなかった」
秋子の右手は強く握られ、わずかに震えていた。
「私だって辛かったんですよ、辛くて悲しくて何年も苦しんだんです。好き合っていたのに別れるなんて、馬鹿みたいだとは思わなかったんですか? 私にとって、そう私にとって何が幸せなのかは、あなたが決める事じゃなかったんです、私が決める事だったんです!」
詩織のこともそうだ、どうして僕は自分を愛してくれる人の心を知ろうとしなかったのだろう。どうしてこんなに身勝手なんだろう――。
「ごめん。僕はあの頃、男が女を抱きたいと思うように、女にもそれがあるってことを知らなかった。馬鹿だと思うかもしれないけれど、それは男だけの感情だって、あの頃は本気で思っていたんだ。あの時、僕はあっちゃんを守るつもりで抱かなかった、でもそれは僕の勝手な思い込みだった。あの頃の僕は、そうすることがあっちゃんのためになるって信じていて、まったく疑いもしなくて……あっちゃんの本当の気持ちに気づけなかった」
秋子の握りしめられた右手が小刻みに震えている、彼女はそれを左手で押さえつけた。下を向いた目は鋭く、河原の一点を見つめていた。
「僕は将来あっちゃんの夫になる人の幸せを奪いたくなかった。もし僕だったら……もし僕が君を先に誰かに奪われていたら、どんなに悲しくて苦しむだろうって思ったら、僕にはどうしてもできなかった。でもあっちゃんがその犠牲になるのはおかしい、悪いのは僕だ、全部僕だ、いまさら許してもらえるとは思えない、でも今すぐじゃなくていいんだ、いつかでいい、ほんの少しでもいいから僕を許してほしい」
視界が歪んで膝が勝手にくずれ落ちた。河原の小石が膝頭に食い込んだ。愛する人を裏切った愚かな男、その過去は変えられない、虫の良い事を言っているのは俊彦もわかっていた、それでも救いが欲しかった。俊彦は涙を流しながら両手を顔の前で祈るように組んだ。
「俊彦さん、私だってあなたをただ憎んでいるわけではないんですよ。感謝しているところだってあるんです」
よほど哀れに思ったのか、秋子がそう言った。そしてこう続けた。
「夫は私と娘を最後まで愛してくれました。もし私があなたにそれを捧げていたとしたら、私たちが結ばれたのかどうか……それは恋の事ですから私にはわかりません。それを知った夫があれほど私たちを愛してくれたのかどうか、それだって私には『絶対に』とは言いきれません。男の人の考えなんて結局女にはわかりませんからね、あんなに好きだったあなたの心の中だって私はわからなかったんですから。でもそれって逆も同じじゃないですか? 男と女って本当のところは理解なんてできないんですよ、ずっと探り合っているだけで。ただ私が乙女だった事を、あの時夫が心の底から喜んでくれた事は確かです、涙を浮かべて『嬉しい』と言ってくれた彼を見て、私は心から幸せを感じましたから。だから俊彦さんが夫に残してくれたものが、夫の私への愛を強くしてくれた事は、私だって間違いないと思っているんです」
秋子は懐かしい幸せな時間を思い出すように言った、自分が知らない秋子の日々に幸せな時間があったことを俊彦は安堵した。それは彼女を一度地獄へ突き落としたことへの贖罪だったのかもしれない、だが同時に俊彦は自分のものになるはずだったあの美しい場所を初めて拓いた男に、性懲りも無く嫉妬していた。
愚かな事かもしれない、だが勝手に湧き上がってくる淀んで抜けられない沼のような感情は、どんな清廉な理想をもってしても抑える事はできなかった。
この歳になっても変わらないのか、こんなに時間が経っても――。
胸の中に若い頃のあの得体の知れない苦味が蘇った、それはもう残照としか言えないものだったが、まだ確かにそこにあった。
秋子の表情が緩んだのは、ほんのひとときの事だった。秋子は強い口調で言った。
「でもそうだからって、あなたが私にしたことを許すことはできません、私があの後いったい何年辛い時間を過ごしたと思いますか? あなたはいいんですよ、自分から私を捨てたんだから。でも私は……」
あの頃よりふっくらとした秋子の頬を、涙が一筋伝う。
「せめてあなたを私のものにできていたら、忘れられたかもしれません。でもそうじゃなかった! あなたは私の心の真ん中に居座っておいて、何も言わずに姿を消した。私は他の
ひときわ大粒の涙が頬を伝った、彼女はそれを悔しそうに指で拭った。
「その間もずっと影から見守ってくれていたのが役場の同僚だった夫です。でも私は彼の思いを知ってからもずっとそれを受け入れなかった。受け入れられなかったんですよ、あなたのせいです、みんなあなたのせい! みんな、みんな、全部全部全部あなたのせい! 私を置いてきぼりにして、あなたが突然逃げたから、あなたがずっと……私の中から消えてくれなかったから」
秋子の目が俊彦の目をもう一度まっすぐに見据えた。
「どうしてけじめを付けなかったのよ! あなた男でしょう? あなたが私の中から消えてくれていたら、私はもっと早く夫を受け入れて、あの幸せな時間だってもっと長いものになっていたかもしれなかったのに。あなたが悪いのよ! あなたが私を変えたの! 夫が私の心を癒してくれても、私のそれまでの時間は変わらずに残ってるんです。今さら謝られたって、無かったことにはならないんですよ!」
秋子の涙は途切れる気配が無かった。
「憎まれているんですね、僕は」
「ええ、恨んでますとも。憎くて仕方ありません。何よ、私を置いて……私を置いて逃げたくせに! 今更……いったい何なのよ!」
「あっちゃん……」
「役場に遅れますから」
そう言い残して秋子は河原を去って行った、秋子は車に戻るまでの間、一度も俊彦を振り返らなかった。
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