27. 真実
あの頃愛した山里の風景は、俊彦が知らない間に無くなっていた。この後の旅人はきっと広いバイパス道路の風景を懐かしむ事になるのだろう。
かつて俊彦が見た温泉場の姿は記憶の中だけのものになり、それを宿す者の死とともに、いつか永遠に消えてしまう
あの頃は想像もしなかった、大切なものがこんなにも簡単に消えてしまうなんて。いやそれは失礼だ、里に住む人たちにとってはきっと前より便利になって住み易くなったはずなのだ、それをとやかく言う権利は俊彦には無い。
このあたりで唯一の雑貨屋はまだそこにあった、店先に置かれたピンク色の公衆電話が当時は山から一番近い連絡手段だった。ダイヤル式の旧型で十円玉しか使えないから、万が一を考えるといつも財布に十円玉を何枚か残しておく必要があった。
今はかわりにテレホンカード式の緑色の電話機が置かれている、だが携帯電話が普及した今、これは使われているのだろうか。
あの時代に一人で林道に入るのは、わざわざ遠い外国まで行かなくても、それなりの冒険だった。
周りが心配する中を林道に入るのは誇らしかった、バイクのロードサービスもまだ無く、パンクの修理を練習してキャブレターの調整を覚え、倒れ方が悪いと折れてしまうレバーの交換方法を覚えて、飯の炊き方から自然をなるべく傷めないキャンプのやり方まで全部覚えて、それなりに自信が出来たところでやっと長い林道にチャレンジができた。林道のソロツーリングとは、あの頃そういうものだった。
あの頃はここの赤い橋を渡るたびに、万が一の時には這ってでも帰ってくるぞと覚悟を決めたものだ。無事に戻ると千年近くも続く湯にゆっくりと浸かりながら、かつてこの土地に暮らした大勢の人たちの時間に思いをはせた。
その楽しみも、いつの間にかこの世から消えて無くなっていた。携帯電話が普及してから人々はどこにでも気軽に足を踏み入れるようになった、林道に入れば今でも電波は届かないのに、電話を持っているだけで実際には使えなくても人間は大胆になるものらしい。
心得のない人々が気軽に入るようになれば、ごみを捨てたり問題を起こす者も現れる。新しい道路の開通が都会と田舎の距離を縮め、山道の舗装化もそれに輪を掛けた。
行かなくなった今でも噂ぐらいは聞いていた、大きな都市に近い林道は多くが舗装されるか閉鎖されたと言う、人々の心に残された小さな野生を発揮できる場所は、もうほとんど残っていない。
山々を縫う林道は、都会しか知らなかった俊彦に
雪が降る中でテントを張る場所が見つけられなかったり、ヘッドランプの灯りだけでパンクを修理したのは確かに苦しい思い出だ、だがそれでも俊彦は林道ツーリングが楽しくて仕方無かった。そんな日々の中で……俊彦は秋子と出会った。もう二度と一緒にいる事の叶わない、大切な
長く生きると、こんな悲しさや寂しさを味合わなければいけないのか。湯小屋で出会った老人たちの甲高い笑い声、斑点だらけの骨ばった背中、老婆たちのしなびてゴーヤーのように伸びた乳房。
あの老人たちはたぶんもうこの世にいない、あの人たちは生まれ育った故郷の変わりゆく姿をどんな思いで見ていたのだろう。寂しい思いをしただろうか、それとも都会と変わらない
俊彦は宿に車を預けて湯小屋に向かった、小屋のすぐ手前で脇に入り、階段を使って河原に降りた。
来ない方が良かったのかもしれない、思い出は思い出のままにしておけば良かったんだ――。
河原の石を拾って投げた、今はまだ昔の姿を残しているこの湯小屋も、もしかしたらそのうち変わってしまうのかもしれない。そのとき秋子との思い出の痕跡は永遠に消えてしまう。どんなに美しかった思い出も、時間はどんどん後ろに流れていって、いつか遠く見えなくなってしまう。
考えてみれば何の根拠もなかった、自分が死ぬまでは変わらないんじゃないかと、ただなんとなく思い込んでいただけだったのだ。だが世の中はそんなにゆっくりとは進んでくれなかった。
何個石を投げただろう、涙がこぼれないように俊彦が上を向くと、後ろで小石を踏む音がした。振り向くとそこに秋子がいた。
「あなたの事だから来るかなと思って寄ってみました、でも誤解しないでください、私があれからどんな思いをしたのか、あなたが何も知らずに帰るのが許せなかったんです」
自分を鋭い目つきで睨む秋子を見ながら、俊彦はただ黙って立ち尽くしていた。
「私、あれからずっとあなたの手紙を待っていました。最初はきっと卒業研究で忙しいんだろうって。そのうちいつもみたいに時間を作って会いに来てくれるだろうって、最後の冬休みもずっと信じて待っていたんです。でもあなたは来なかった、春になって役場に出るようになって、新人ですから休みは取れませんでしたけど、日曜日だけはなんとか空けてあなたを待っていました。春の連休にも来ないから、私、あなたは来ないんじゃなくて、怪我でもして来れないんじゃないかなんて心配して……。手紙が来なくなってから半年ですよ、いいかげん捨てられたって気づきそうなものですよね、ほんと馬鹿みたい」
俊彦が秋子を必死に忘れようとしていたとき、秋子は祈るような気持ちで俊彦を待っていた。
「やっと時間に余裕ができたのは秋頃でした、あなたからお店は横浜にあるって聞いたのを思い出して、私、横浜に出て和菓子屋さんを探したんです」
あの頃、秋子は日光より南には行ったことが無いと言っていた、例外は修学旅行の京都だけだと。そんな娘が一人で横浜まで出てきたのか、あれほど都会に興味の無かった娘が。
「名前に”波多野”がついてるお店がなかったから、どうしていいかわからなくて。二、三軒回った後に気がついて、電話帳に載っている和菓子屋さんに順に電話してみたんです、『そちら波多野さんですか?』って。それで見つけました『俊彦さんはいらっしゃいますか?』って訊いたら、『出かけていますけど、すぐに戻ります』って」
伏し目がちに話す秋子の話を、俊彦は黙って聞いていた。
「最初はお店に入るのが怖くて遠目に見ていました、でもまだ暑かったし近くに喫茶店もなかったし、私疲れてしまって。工場にいるかもしれないと思って裏に周ったらあなたがいた、涙が出て、気がついたら走り出してました。でもすぐに工場の中から出て来たんです……綺麗なワンピースを着た、可愛らしい
詩織――。
「そのとき私、見たんです、自分の靴を」
秋子の目に、うっすらと涙が浮かんだ
「高校の頃から履いていた白い運動靴。買ってもらったときは白かったのに、汚れが染みついて洗っても茶色っぽくて。それで陰に隠れたんです。だってあの人、真っ白で艶々に光る可愛いパンプスを履いていた。服だって……私は着古したジーパンと男の子みたいなシャツやトレーナーしか持ってなかった、あとは仕事用に作ったスーツと礼服だけしかない。あの人みたいな可愛い服なんて、一枚も持っていなかった」
秋子の目に溜まっていた涙が、溢れるようにこぼれ落ちた。
違うよあっちゃん。詩織だって仕事の時は同じような格好だったんだ。君は詩織より美人だし、もし進学して都会に出ていたら、きっとまぶしいほどの――。
「あんな人があなたの近くにいたら、私かなわないって思いました。それまでは、もしあなたと暮らせるなら村を捨てられるかも? なんて思った事もあったんですよ。でもあの時それは嘘だって気づいたんです、あの頃の私は、あなたはきっと私を選んでくれるって、どこかで思っていたんです。でもそれは私の勝手な思い込みでした、あなたにはあんなに大きなお店があって、そこにはあんな可愛い人もいる。それなのにあなたがそのすべてを捨てて私を選ぶなんて……思い上がっていたんですよ」
「僕は……」
それ以上、俊彦は何も言えなかった。何を言い繕ったところで手遅れだ、いまさら後悔や悲しみを増やして何になる。取り返しがつかないほど長い時間が、もう過ぎてしまったのに。
「私、その後もお店に行きました。みっともないけど、やっぱり諦めきれてなかったんですね。でもあなたの隣にはいつもあの人がいた、二人で楽しそうに……」
そこまで言うと、秋子は黙ってしまった。
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