14. 金精峠

 長い山道を登って着いたのは金精峠こんせいとうげの駐車場だった。


「ここがこの辺りで一番高い場所。この向こうの日光白根山はここから北では一番高い山。ねえあっちゃん”金精”って何の事かわかる?」

「さあ?」

「あとで調べてみて。ご両親には訊かないようにね、絶対」

「さては怪しい話ですね?」

「バレたか、あっちゃんは良く知ってるよ、僕のだけは」


 ”僕のだけ”それが重要だ。秋子が目と口を丸くする、俊彦がにやにやしながら言う。


「むかしむかしある所にぃ、すごく偉いお坊さんがいてぇ、旅をしてたんだそうじゃあ。そのお坊さんのナニが……すごく、あの、その、大きすぎましてねぇ、峠を越えるには邪魔だってんで、ここでそれを……」そこまで言って寒気がした。

「無理、ここからは言えない。でまあ、それが祀られたっていうちょっと怖い話があってね、そんなわけないんだけど」

「はあ、確かに怖い? お話みたいですねぇ」

「男にはね」


 二人とも耳たぶが赤い、俊彦が続ける。


「男のナニと言うか、その状態になった……アレって、子孫繁栄とか商売繁盛とかいろんなご利益があるとか言われて信仰の対象になってたんだ。だから今でも祭ってる神社が全国にたくさんあるし、家の生垣をその形に刈り込んだり、倒木をその形に彫る習慣もあったり……」


 そこまで聞いた秋子が意外な事を言う。


「私、それ見たことありますよ」

「え、ほんと?」

「小学校の遠足か何かで湿原に行ったんですよ。木の道、ありますよね? みんなで歩いてたら木が倒れてて、先に”しめ縄”がかかってて。男子が騒ぎはじめて止まっちゃったんで、女の先生が注意しに行ったら、その先生いきなり男子の頭をグーでゴツンて。本当にゴツンって音がしたんですよ」

「はは、わかった。彫られてた」

「小学生ですからね、見てもわからないじゃないですか、女の子は。だからそれっきりその先生のあだ名は”ミステリー”」

「ミステリアス?」

「違いますよ”ミス、ヒステリー”」

「うわ、ひっでー! 子供ってこわっ。僕がこの辺で見たのは……そうだ、あれも湿原だ。確か宮床ってとこ、もしかして?」

「そうかもしれません。小学校の遠足だからそんなに遠くには行かないだろうし」

「そっか、あっちゃんたちは見慣れてると思ってたけど、ああなったものは知らなかったのか」

「そりゃそうですよ、お風呂でそんな事になる人なんてトシさんぐらいですもん」

「うっわ、人聞き悪。子供の頃から女体を見慣れてる人たちと比べないでくれるかな、それに僕だっていつもあんなになっているわけじゃないから、相手があっちゃんの時だけだから」

「うそだぁ、みずきの時だって」

「うっ、そうでした御免なさい」


 俊彦がすぐに観念すると、秋子は満足そうに笑った。ばつが悪そうに笑いながら俊彦は気になっていたことを訊いた。


「ところでさ、今はこの辺でもみんな家にお風呂があるわけだよね、年頃の女の子で普段から湯小屋に来る娘って結構いるの?」


 秋子の顔色がさっと変わる。


「ああっ、探ってるう! やっぱりトシさん、他の娘の裸も見たいんだあ! やだあ、すけべえ!」


 君の裸を見るのは、助平じゃないのか?――

 冗談だと思ってにやけている俊彦の目を、秋子が顎を引いてまっすぐ見つめている。目の奥が笑っていない、俊彦の顔から血の気が引いていく。


「あ、あのさ。た、例えばだけど、僕が中学生ぐらいの頃までは電車やバスの中で赤ん坊にお乳をあげている人がまだいたんだ。あの頃だって女の人が町中でおっぱいを出したら警察沙汰だったけど、赤ん坊にお乳をあげていれば問題なかった。でもさ、考えてみるとおかしくない? 同じおっぱいなのに」

「あの、男の人があんまり『おっぱい、おっぱい』って言わないで貰えます? 私が恥ずかしいです。それにそれって”先”が出てなかったんじゃ?」

「そんなことない、最初からから見てた」

「えー! そんなにじっと見てたんですかあ? じっとお?」


 そう言った後、秋子はもう一言加えた、ダメ押しのように。


「おぉっっぱいを!」


 おかしいな、さっきより追い込まれてる気がする――。


「と、とにかく僕が言いたいのは、おっぱい……いや、胸の膨らみは、ただの肉まんだって事」

「にくまん?」


 秋子が自分の胸を見下ろした、その隙に俊彦は畳みかけるように続けた。


「考えてみなよ、ずっと昔の農民は暑い日になると女も上を脱いで仕事をしていたし、海女も裸同然で海に潜っていたし男がいても隠すこともなかったらしい。武士とかは違ったらしいけど風呂だって男女一緒で気にしなかった。それにどこかの田舎では今でも本当に素っ裸になる祭りがあるらしいし、もし裸が嫌われてたら神様の前でそんな恰好はしないよね?」

「まあそういう話、聞いた事はありますけど」

「日本人が裸を恥ずかしがるようになったのは外国から入ってきた宗教や習慣のせいで、そういうものに最初に触れるのは限られた特別な人たちだった。学校で習う歴史は偉人とか大事件ばかりだから、みんなそれを見て日本の文化だと思い込んでるけど、身分がはっきりしていた昔は庶民が今以上に圧倒的な多数派だった」

「じゃあ偉い人たちよりもそういう人たちの文化がトシさんは正しいと?」

「正しいっていうか、日本の文化って言うならまずそっちじゃないかと思う。いま海水浴場で一人だけスーツでいたら居づらいよね、でも世界には砂浜でも肌を出さない国もあって、そこではそれが普通。普通って結局はどう教えられたかって事だよ、だからおっぱい……胸だって嫌らしいと教えられたら嫌らしいものになるけど、そうでなければただの膨らみ。にくまん」

「あっ、じゃあもしかして村の爺婆がお風呂でエッチな話ばっかりしてるのも、昔はそれが普通だったって事ですか?」

「それ僕も考えた。だって日本の古典文学って、やたらとそんな話ばかりだし。公家が夜這いを和歌にするなら庶民はどうだったかねえ……お祭りも男女が公認でそういう事をする日だったって説があるぐらいだから」

「でもお母さんぐらいの歳だと、あれをすごく嫌がる人もいて」

「戦後の人だからじゃないかな、教育も何もかもアメリカ風に変わったし。ってこれは横浜育ちの僕が言う事じゃないかもなぁ」

「爺ちゃん婆ちゃんたちがなんであんなにすけべえなのか、ずっと不思議だったんですけど、なんかすっきりしたかも。さぁすが大学生!」


 秋子が俊彦の二の腕を指先で小突く。


「見直した?」

「ちょっとだけ」

「これでもちょっとだけかぁ……でも実はこういうの僕の専門じゃないけど」


 俊彦の専攻は農学だ。


「全然違うじゃないですか!」

「田舎に来るようになってからだよ、昔の事に興味を持ったのは。僕が行った事のある範囲だと田舎の爺婆の猥談好きはだいたいどこでも同じ感じだった」

「ここだけかと思ってました」

「あっちゃんも言ってたけど世代で全然違うのが不思議で、なんでだろうと思って調べたら深みにはまって。ところであっちゃん、カマボコの作り方とか知りたい?」

「ああっ、馬鹿にしてるぅ! ここだってカマボコぐらい売ってますよ」


 秋子の頬がぷくりと膨れる。


「違う違う、いま僕がやってる実習の事。農学部っていろんな事するんだ、最近テレビとかでやってるバイオテクノロジーなんかも僕らの領分」

「カマボコとバイオテクノロジーって、ずいぶん違う……」

「そりゃまあね、でも今はカマボコ」

「家庭科みたい、大学ってそんなところなんですか?」

「ちょっと前まで高校生だったんだから、いきなり先生みたいにはなれないって」


 俊彦がばつが悪そうに言うと、秋子は微笑みながら小声でつぶやいた。


「トシさんは何をしていてもトシさんです、私はそれで……充分です」


 輪郭だけを紅く染めた山が秋子の大きな瞳に映っている。先がツンと立ったまっすぐな鼻が孤高にそびえ立つ白根の頂だとすれば、優しいカーブを描く頬は周りの尾根だ。そこからいくつかの峰々を北にたどれば、彼女の故郷にたどり着く。


 秋子はあの里の山が生んだ精霊かもしれない――そんな想いが俊彦の頭をよぎった。


 秋子を家に送り届けると、俊彦は村人専用の時間が終わるのを待って湯小屋に寄った、中には地元の男が一人残っていた。


「どこに泊まってるんで?」


 知らない男がこんな遅い時間に来たのだから、男にしてみれば当然の疑問なのだろう。どこかの宿の人かもしれない。


「いえ、ああ、この辺じゃないんですよ、お風呂の話を聞いて入りに来ただけで」


 うやむやに答えながら外に駐めたバイクの方を指さすと、人の好さそうな男は納得してくれたようだった。だがもし次もこの男に会ったら、その時はいろいろと詮索されるかもしれない。俊彦は当たり障りのない話だけをしてすぐ小屋を出た、今後は遠くても夜は別の温泉場まで行ったほうが良いかもしれない。


 この時、俊彦と秋子は八日間を共に過ごした。予定より一日増えたのはやはり離れがたかったからだった。

 二人で一日中裸のまま過ごした日、俊彦は耐え切れなくなって一度自分を慰めた。隣に秋子がいても恥ずかしさは感じなかった、それどころか服も見栄も、すべてを脱ぎ捨てられるひとに出会えた事がうれしくて、その瞬間も心の底から幸せを感じる事ができた。興味深そうに見ていた秋子は落ちた雫を丁寧に拭ってくれた。


 この年も雪は少なく俊彦は十二月の半ば頃までバイクで秋子に会いに行く事が出来た、湯の中でキスをねだるそぶりをした秋子を俊彦は気が付かない振りをして抱きしめた。


「今度はいつまでいられるんですか?」


 不満げな顔をした秋子は、俊彦の耳元でそう言った。


「天気次第。たぶん明後日の昼頃までは大丈夫だと思う」


 小さなポータブルテレビで見た天気予報は、はっきりと雲を映していた。もうすぐ里の上にこの冬初めての強い寒気が入ってくる、山沿いのここは大雪になるはずだ。雪が降り出す前に里を出ないと、俊彦はここにバイクを置いて帰らなければいけなくなる。


「じゃあ明日も来てくれますか?」

「学校は大丈夫なの?」

「なんとかします、大丈夫」


 なんとかなるわけがない。でもそんな常識よりも秋子といたい気持ちのほうがどうしても勝ってしまう。


「明日、三時半にあのカーブで。でも明日はトシさんのテントに行きたいです」

「わかった」


 次の日、俊彦は約束の時間に秋子を迎えに行った。いつものカーブにバイクを停めると着ぶくれした秋子が待っていた。秋子をバイクに載せて林道の先のテント場を目指した。

 林道には十五センチほど雪が積もっていた、普通ならバイクでは進めない。だが自動車のわだちが残っていれば、それをたどってなんとか進める。二人乗りの雪道は勝手が違い、途中で金属のチェーンをタイヤに巻いた。それでも何度か轍を外して秋子に怖い思いをさせた。河原に下りる脇道に入ると、昨日と今日、自分がつけた細い轍をたどった。最後の三十メートルは二人でバイクを押しながら、なんとかテント場にたどり着いた。


 テントに入ると服を脱いで互いの汗を丁寧に拭いた。テントの中が昨日よりも暖かかい、きっと秋子の体温のせいだ。俊彦は昨日の夜から獣に餌をやっていなかった、今は飢えた獣と人間が、互いに秋子を貪りたがっている。

 何の約束もできないまま秋子を抱いてしまう罪悪感を、俊彦は獣に支配される事で忘れようとしていた。たった一度、たった一度抱いてしまえば、愛する女の生涯ただ一度の喜びを永遠に自分のものにできる。もう絶対に他の男の手に渡ることはない。


 仰向けに寝かせた秋子の上に、俊彦は四つん這いになって覆いかぶさった。いつもと違うと思ったのだろう、秋子は不安げな目で俊彦を見上げた。俊彦が手で脚を開くように促すと、秋子は首を小さく横に振って言った。


「キス……」


 小さな声が震えていた、俊彦は自分の中にあるすべての優しさをかき集めて、自分の唇から秋子の唇にそれを移した。閉じていた秋子の唇は、俊彦が舌を滑らせようとすると呼応してゆっくりと開いた。俊彦にはそれが生まれて初めてのキスだった、きっと秋子もそうだと思えた。


 初めはぎこちなかったものが、二人ともすぐに本能の命じるまま激しく舌を絡め合った。喉が痛くなり耳の中で血管がキンキンと鳴る、股の間の獣が心臓の鼓動に会わせて首を上下に振りはじめた。

 秋子の脚から力が抜けた、唇を離すと彼女は笑顔を見せた。俊彦の喉も耳も心臓も、限界に近づいていた。それ以上我慢したら口からすべてが飛び出てしまいそうだった。


 目をつぶった秋子の膝を持って脚を開くだけ大きく開かせた、初めて秋子のアヌスを見たとき、俊彦は短い呻き声をあげた。それっきりテントは静かになった、秋子が目を開けた。


「ごめん」俊彦はそう言って、秋子の脇に横たわった。


 もう慣れたと思っていたのに――俊彦の放ったものが秋子の肌を汚していた、ペーパーを探していると、秋子は自分の上に落ちたそれを指で摘まんで伸ばして見せた。そして俊彦に向かってほほ笑んだ。嫌みのない素直な笑顔だった。


 こんな僕を、なんでこの娘は愛してくれるんだろう――。


 秋子を初めて抱く男は、彼女を一生幸せにする覚悟をした男だ――俊彦はずっとそう思ってきた。地元を離れられない自分が秋子を抱くことは許されない、今までそう思って必死に自分の中の獣をなだめてきた。それなのにたった今、俊彦は本気で秋子を凌辱しようとした。


 僕という人間が、獣に負けた――。


 恥ずかしかった。俊彦は家を、店を、従業員を捨てられない。この土地が大好きな秋子をここから引き剥がす覚悟もない。そんな男がこの優しい娘を奪っていいわけがないのに。


 でも君が好きだ、どうしようもなく好きなんだ――。


 互いの体を拭いて、一人用のシュラフに二人でくるまった。俊彦は言った。


「あっちゃん、これからは手紙でやりとりしない?」

「いいんですか?」

「差出人を女の子の名前にすれば、いけるんじゃないかなと思って。文通って事にすれば」

「いけると思いますけど、でも私、今までそういう事した事がないから、お母さんがどう思うか……」

「月に一度か二度。それぐらいなら怪しまれないんじゃないかな。その時に次の月の予定を書くから、返事をくれれば」

「それなら……いけるかも」

「じゃあ、年明けにこっちから一通出すよ、そしたら……」

「でもトシさん、女の子の字って書けますか?」

「ああ、あの丸っこいやつ? 宛名ぐらいならなんとか真似してみる。一応これでも和菓子職人の息子だからね、手先は器用なんだ」


 それを聞いて秋子は嬉しそうに笑った。開いた唇を俊彦はすぐに自分の唇でふさいだ。

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