11. 舞台

 その年、俊彦と秋子が最後に会ったのは十二月も半ばに入った頃だった。三度目ともなれば心の準備は出来ている、今度は驚かないぞと俊彦が気負って待っていると、「ジャーン!」と心なしか自信がなさそうな声色で秋子がコートの前を開けた。


 襟巻きとブーツの間にあったのは、なんてことのない学校の水着だった。現代に生きる日本人として風呂に水着は大いに違和感があるところだったが、風呂を熱めの温水プールだと思えば外道とまでは言えないな……そんな事を真面目に考えている俊彦を見ながら、秋子が小声で言った。


「あの、ネタ切れですぅ。というか……あとは恥ずかしすぎて無理です」


 今度はいったいどんな本を見たんだろう?――


 ぜひ訊いてみたかったが、指の間から見えた秋子の顔が本当に真っ赤だったので諦めた。下手に追求して「やっぱり他の娘のも見たいのね!」なんて言われたらやぶ蛇だ。

 僕が欲しいのは君だけだ――

 本当はそう言って秋子を抱き締めたかった、だがそれがたとえ本当の気持ちでも、俊彦が口にすることは許されない。


 中学校の体育の授業中、俊彦はジャージ姿の女の子の尻に下着の線を見つけた、気になって見回してみるとどの女の子も体の線が前より丸くなっているような気がした。それきりバスケットボールをしていてもずっと胸が苦しくて、授業が終わって急いで教室に戻ると、脱ごうとした体操着がペニスに引っかかった。

 それが硬くなるのは小便がしたいからだと思っていたから、尿意も無いのにおかしいなと思った。少し離れたところでいつもの何人かが固まって、女の子の噂をしながらおどけていた。こうなった事は無いかと訊きたかったが、彼らの手つきを見てやめた。


 夜ベッドに寝転んで、昼間彼らがしていた手つきを真似てみた。初めはなんともなくて何が良いのかわからなかった、だがしばらく経つと急に頭の中に真っ白な光が射して身体が宙に浮いた。

 光が消えて視界が戻ると、寝たままの体の腹から首元にかけて、見たことの無いべたべたしたものがいくつも落ちていた。

 それからは一日中、女の子の事が頭から離れなくなった。彼女たちの尻や胸、太股が目の前にちらついて、昼間のほとんどを胸苦しさを抱えたまま過ごした。真面目な少年と助平な少年の違いは欲望を隠すか隠さないかの違いでしかない。俊彦はひた隠しにするような少年だった。


 そんな思春期の少年の誰かが、長い冬の間に秋子に恋をするかもしれない。だが秋子に将来の希望を何も示すことの出来ない俊彦に、それを邪魔する権利はない。頭では分かっているのだ、そんな事。でも実際の気持ちがそれとはまったく噛み合わない。

 最近の秋子は変だ、なんでわざわざこんな事をするのだろう。思い当たるとすれば、もうすぐ冬が来る事だ。もしかしたら秋子は、その前に僕に奪われてもいいと思っているのではないか?


「明日、僕のテントに来ない?」


 その日の別れ際、俊彦は秋子に言ってみた。秋子は少し驚いた様子を見せたが、すぐに「はい」と答えた。


 次の日の朝、アトランティスの裏にあるカーブで待ち合わせた。重ね着で雪ダルマのようになった秋子は、股が閉じられずに怪獣のような歩き方でゆっくりと俊彦に近づいてきた。

 指をさして笑いたかったが命に関わりそうなので、俊彦はすんでのところで堪えた。可愛い怪獣は昔彼女の父親が使っていたという白いヘルメットを抱えていた。


 バイクは最後の集落を抜けていつもの林道に入った。葉が落ちた樹々の間から遠くの山肌と冷たい曇り空がよく見えた。

 雪が積もっていてもおかしくない時季なのに、道に雪は見当たらなかった。タイヤが砂利の凸凹を拾ってバイクは細かく揺れ続ける、雪の無い山は一見すると秋のようにも見えた、だが降りてくる風は確実に冬のものだった。


 ずっと茶色かった山肌にちらほらと白い雪が見えはじめた頃、二股を左に曲がったバイクはテントが張られている河原に降りた。

 俊彦は神田の登山用品店で買ってきた冬山用の分厚いシュラフを開いてテントの中に敷くと、秋子をその上に座らせた。

 彼女の後ろに回って、服をタマネギの皮のように一枚一枚剥いていく、最後に残った下着も脱がせると、俊彦も服を脱いだ。


 秋子の体を抱え込んで広げていたシュラフを背中に羽織った、秋子の背中の温もりが直接胸に伝わってくる、俊彦が息をするたびに秋子の体が小さく動いた、なんでだろうと思ったら、俊彦の息が秋子の耳にかかるタイミングだった。

 秋子の心臓の鼓動が肌に直接伝わってくる、もっと味わいたくなって、彼女の肉まんを掴んで引き寄せた。


 トク、トク、トク……。トク、トク、トク……。重なり合った二つの心臓がユニゾンをはじめた。シュラフのジッパーを締めようか迷う、だが締めたら獣を止められない。


 覚悟したんじゃなかったのか?――。


 あらためて自分に問い直しても、ケンタウロスは踏み出そうとしなかった。たった一歩でいいのに、それだけですべてが変わるのに……

 俊彦は風呂用のタオルをシュラフに引っ張り込んで、手探りで秋子の尻の下に敷いた。振り向いた秋子が不思議そうな顔をした。


「僕だって、勉強してきたんだ」


 俊彦はそう言って右手を下に伸ばした、指先が秋子のそこに触れると、彼女は目を見開いて息をのんだ。

 秋子は小さく震えて何度も俊彦の手を掴んだ、俊彦は張り詰めて熱くなったものを秋子の背中に押しあてた。秋子は絞り出すように細く長い声をあげて、自分の肩越しに俊彦の肩を掴んだ。秋子の爪は優等生らしく短く切り揃えられていた、それでも俊彦の肩は薄らと血が滲んだ。俊彦は痛みを感じなかった。


 秋子の腰が痙攣するように跳ねた、逃すまいと俊彦は左手で秋子の体を抱え込んだ。勢いで二人の体が後ろに倒れこんだ。俊彦の腹の上で秋子の体がエビのように反った、上から押し殺したような声が聞こえたとき、俊彦は手を使わずに放った。

 秋子の体が俊彦の腹の上に崩れ落ちた、振り返った秋子の目は、まるで夢遊病者か何かのように焦点が合っていなかった。俊彦が誰かのそんな目を見るのは生まれて初めての事だった。


 君の中にも居るのか? 獣が――。


 唇を吸いたい衝動を抑えながら、俊彦は秋子の右手をとってその中指を舐めた。そしてそれをさっきと同じ場所にいざなった。


「トシさん?」


 秋子の声色こわねには僅かに恐れが感じられた、だが目はまだ正気に戻っていなかった。機を逃してはいけない気がして俊彦は言った。


「冬の間、これで我慢してほしい」


 腹の上から滑り落ちそうな秋子を左手で支えながら、俊彦は秋子の右手を動かした。しばらく続けて手を放したが、彼女の手は動こうとはしなかった。

 俊彦はもう一度自分の指で秋子に触れた、その日は秋子が動かなくなるまでそれを何度か繰り返した。最後の咆哮の後、二人でテントを片づけて麓に下りた。どこかの地区の湯小屋を横目に脇道に入ると、路肩の目立たない場所にバイクをとめた。


 杉木立の中につけられた細くて急な石階段を秋子の先導で登る。登り切った場所には広場があった、目の前に小さな神社があって、左手には正面だけ壁が無い、酷く古そうな建物が建っていた。


「これって……」

「うん、歌舞伎の舞台」


 舞台の事は初めて会った日に彼女のお国自慢で聞いていた。江戸時代、この辺りは幕府直轄の天領だったそうだ、そのせいか江戸から遠く離れていても村人たちは流行に敏感で、農作業が暇な時期には地区ごとに農村歌舞伎を催して出来を競っていた。

 昭和の初め頃まではどこの地区にもこれと同じような歌舞伎舞台があったそうだが、今はここを入れていくつも残っていない。ここで年に一度催される舞台には、秋子も中学生まで毎年上がっていたそうだ。


 下の自動販売機で買ってきたコーヒーは、素手では持てないぐらい熱かった。俊彦がポケットから出して毛糸の手袋をはめている秋子に放り投げると、猫舌だから先に飲めと逆に勧められた。仕方無く袖で受け取って舞台の端に座る。


「観たかったな、あっちゃんの舞台」


 もう少しだけ出会いが早ければ、観る事が出来たのに――。


 天井の木目を見ていると、見たことも無い農村歌舞伎の様子が頭に浮かんだ。松明たいまつの灯りに照らされる秋子は、真っ白に塗った顔に、ちょこんと口紅をさしている。

 俊彦がコーヒーを一口飲むと、隣の秋子がすぐに缶をひったくって口に運んだ、どうやら猫舌は嘘だったらしい。杉木立に反射する日の光が紅く染まりはじめた気がする、胸が熱いのはコーヒーが通ったせいだけではないだろう。そろそろ秋子を家まで送り届けなければいけないのに、もう帰ろうという一言が俊彦にはどうしても言い出せなかった。空は瞬く間に深い紅色に染まり、あれほど熱かった缶は冷めて、体がどんどん冷えていく。


 次に会えるのは春だろうか、白い毛糸にくるまれた秋子の柔らかい手のひらを、猫の肉球でも押すように俊彦は何度も押した。秋子は静かな笑みを浮かべながら俊彦の肩に体を預けた。俊彦は言った。


「冷えちゃったね、せっかくテントで暖まったのに」


 秋子は答えた。


「バイクで帰るなら一緒ですよ」


 確かにその通りだ、馬鹿な事を言ってしまった。


 日が沈むまで、二人は体を寄せ合って互いの温もりを感じていた。

 帰りたくない、返したくない……。


 年が明けた一月の終わりに、俊彦は電車とバスを乗り継いで山里に行く事を考えた。手前の町に出来たスキー場が流行っているらしく、電話をかけても男一人を泊めてくれる宿は見つからなかった。

 あまり里の近くに泊まってしまうと秋子との関係がどこからバレるとも限らない、泊まれる宿の場所は限られている。他に手は無いかと考えているうちに二月に入ってしまった。

 二月のはじめならいつもは冬の真っただ中なのに、先週あたりから好天と悪天が繰り返される春先のような天気が続いている。里の辺りが晴れるという予報を見て、俊彦は思い切ってバイクに跨がった。


 雪の備えが無い東京と違って、除雪車が走る雪国では一日晴れれば道の雪程度は消えている事も多い。夜の激しい寒気に耐えて途中で何度か休みながら、俊彦はアトランティスのランチタイムに間に合った。


「うっそぉ! お客さん、バイクで来たんですかぁ? あらまあ、まあまあ」


 おばさんがずいぶんと驚いてくれた、確かにこの時期に雪国を走るバイクは郵便局の赤バイぐらいだろう。俊彦はできるだけ愛想よくラーメンを頼んだ、おばさんの印象に残れば自分が来た事を秋子に話してくれるのではないか、念のため会計の時にも少し世間話をしてから林道へ向かった。


 除雪車が入らない林道にはたっぷりと雪が積もっていた。近くを走り回って、隣村との峠道の途中に目立たない場所を見つけてテントを張った。

 たまたま車が少なかったから良いが、次はこうはいかないかもしれない。里の人たちに秋子との関係を知られないためには、この近くで目立つわけにはいかない。


 次の日、やはり秋子は湯小屋に来てくれた。コートも何もかもを一息で脱ぎ捨てた秋子は、湯の中に飛び込んでくる勢いだったのに、浴槽の手前で漫画みたいな急ブレーキをかけて手早くかけ湯をした。そんな生真面目さがおかしくて大笑いしている俊彦の胸に、秋子はザブン! とやはり漫画みたいな音をさせながら飛び込んで来た。

 並んだ肉まんが俊彦の胸で激しく潰れた、首筋に荒い息がかかった、泣いているわけではないだろうがそう思えてしまうぐらい強くて不規則な息遣いだった。愛おしいという思いがこみ上げてきて、俊彦は危うく秋子の唇を奪いそうになった。


 俊彦の首筋に秋子が何度も頬を擦り付けてきた、湿った唇が触れるたび全身の末端が強く痺れる。湯の上に彼女の白い尻の島が二つ並んで浮かぶと、俊彦は心臓に刺すような喜びを憶えた。


 一つの島を手で掴んで秋子を引き寄せると髪はいつものシャンプーの香りがした。どこでも売っている普通のシャンプーなのに、俊彦の中にたまらない愛おしさがこみ上げてくる。その気持ちを素直に表現できない事がもどかしかった。


「お母さんって、僕が来たのをあっちゃんに何て言ってるの?」俊彦は訊いた。

「『今日、あの人来たわよ』って教えてくれるの、私が頼んでるから」

「頼んでる?」

「あたし、トシさんのファンって事になってるんですよ。高校生の娘が旅の大学生に憧れるって事なら、そんなにおかしくはないでしょう? それに」

「それに?」

「実際ファンだし!」


 聞きながら思わずにやけてしまう、俊彦だって自分の造作が世間並より劣っているとは思わない、ただ同じ名前のアイドルと比べられすぎて、すっかり自信を無くしてしまったところはある。それに都会にいても誰もが振り返りそうな秋子と比べれば、俊彦程度はどこにでもいる大勢の男の一人にすぎない。


 そんな僕を、何で君は愛してくれるんだ――。


 気になっていた事を訊いた。


「あれ、した?」


 目を下に向けると秋子は悟ったらしく、顔を伏せて首を横に振った。


 男にとっては普通の事なのに、女の子にはそんなに恥ずかしい事なのだろうか――。


「僕はあっちゃんを思って毎日してたのに、あっちゃんは僕がいなくても平気だったのかぁ」


 当てつけるように言ってみた。すると秋子は真っ赤な顔をもう一段伏せて、小さくつぶやいた。


「平気じゃ……ないもん」


 俊彦の中に芽生えた小さな不安は、その一言で跡形も無く消えた。

 二月の終わりからはそれまで降らなかった分を取り戻すように大雪が続いた、三月の終わりになってやっと里に行けたときには、集落の中の雪は消えていたが林道はまだ深い雪に埋もれていた。

 俊彦は里の近くを走り回ってテントを張れる場所を探した、だが見つからずに夜が更けるのを待って道端の目立たない場所にそっと張った。


 次の日は夜明け前に起きてテントを片付けた、俊彦は酷く疲れていて、せっかく秋子に会えても湯に浸かりながら話をするだけで別れた。

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