9. 獣

「家業があるっていいよなあ」


 大学二年になると、たまに周りの同級生がこんな台詞を口にするようになった。最近は就職協定なんて無いも同然で就職活動が始まる時期も年々早まっている。卒業すれば家業の修行に入る俊彦を彼らが羨むのは無理もない事かもしれなかった。


 いつ店を継ごうと思ったのか、あらためて考えても俊彦は思い出せない。幼い頃から菓子店で働く両親と従業員の間に紛れて育ったせいだろう、気づいた時には自分もいつかその中に入るのだと漠然と考えていた。

 進学先を食品を扱う農学部に決めた時も俊彦は誰にも相談しなかった、しなかったことに特に理由はなく、他に道が思いつかなかったと言う意味では選択すらしていない。


 両親から家業を継いでほしいと言われたことは一度も無い、父親が俊彦に経営の話をするようになったのは俊彦が農学部に進学したいと打ち明けた後だった。経営の話をするとき、父親は息子に酷く気を使っているように見えた、俊彦はその理由に心当たりがあった。


 高校二年生の夏のことだった、長く入院していた祖母のキヨが昏睡の間にほんの一時目を覚ました事があった。母親は買い物に出ていて俊彦だけが傍にいた。


「ごめんなさいね、ゆうちゃん」


 久しぶりに聞くキヨの声に驚き、俊彦が目を本からベッドに移すと、長い間ずっと閉じられていたキヨの両目が少しだけ開いていた。彼女は俊彦を彼の父親だと思っているようだった、察した俊彦は震えながら伸びた皺だらけの手を両手で包むように握った、俊彦の記憶にある祖母の手のどれとも違う、冷たく乾いた手だった。


「お父さんを許してあげて……」


 そう呟いたキヨの目から、大粒の涙がこぼれた。


「うんわかった、大丈夫だよ」


 何の事かはわからない、だが俊彦はそう返した。そう言うしかないと思った。その答えがキヨに聞こえていたかはわからない、ただキヨはそのまま、それまでよりもたぶんずっと安らかな顔で深い昏睡の世界へと戻っていった。

 昭和生まれの都会の若者の目には、明治生まれの老人はあしらいが面倒な頑固者としか映らないらしい。近所の若い主婦たちも、通りでキヨの姿を見かけると一斉におしゃべりをやめて背筋を伸ばす。だが俊彦の記憶にあるキヨはいつも優しくて思慮深い人だった。


 葬儀の日、俊彦は病室での出来事を初めて人に話した、相手は隣にいた叔母だった、両親でなかったのは、なんとなく言ってはいけない事のような気がしていたからだ。

 葬儀場の重い空気のせいだろうか、いや本当はキヨの最後の言葉を両親に伝えなかった自責の念から逃れたかったのかもしれない、普段からおよそ頓着と言うものが無い明るい性格の叔母なら、黙って共犯になってくれそうな気がしたのだと思う。


 他の親戚たちは多かれ少なかれ祖母の思慮深さをただの意固地と思っていたが、娘である叔母は違った。話を聞いた叔母ははじめ驚いて、すぐに悲しそうな顔をした。


「怒られちゃうから兄さんには言わないでね。でもトシちゃんももう高校生だし、大人だもんね」


 陽気な叔母が聞いたことも無い小さな声で言った。


「兄さんね、本当は映画監督になりたかったのよ」


 意外だった、俊彦は菓子作りに没頭する父親しか見た事が無い、家でもプロ野球の勝敗以外は菓子のことしか話さないような人なのだ、父親は喜んで店を継いだものと俊彦はそれまで勝手に思い込んでいた。


 父親の裕一には大学生の頃、家業を継ぐことに反発して家を出ていた時期があったそうだ。当時の裕一は授業にはあまり出ずにアルバイトに精を出して留年を繰り返していた。退学しなかったのは”学生監督”の肩書のほうが自分の作品に注目を集めやすかった事と、せめて大学は出てくれと母親に懇願されたからだった。

 裕一はアルバイトで貯めた金で八ミリフィルムの自主製作映画を何本も撮っていた、学生にもかかわらず映画専門誌の批評欄で一流の評論家にとりあげられるほど、その世界では目立つ存在になっていたそうだ。


「それを、お父さんが呼び戻したの、無理やりね。そうあれは無理やりだった。“脅した”って言ってもいい」


 裕一が家に戻ったのは父親の俊一郎が脳卒中で倒れたからだった、俊一郎は命こそとりとめたが、半身が動かなくなり生活に介助が必要になった。

 それでも職人たちがいれば店は問題なく回せるはずだった、だが銀行の考えは違った、銀行の態度が取引先に伝わると、ほどなく俊一郎が社長を続ける事は難しくなった。


「兄さんはもう家に寄りつかなかったから、お父さんは職人の佐橋さんに継いでもらう事を考えてたんだけど、銀行さんが『直系の親族が継がなければ融資は続けられない』って言い出してね、私はもうお嫁に出ていたし子供もまだ小さかったし、女が会社を継ぐ時代でもなかったでしょう? 銀行さんには銀行さんの理屈があったんでしょうけど、うちは今よりもっと小さかったからね……逆らえなかったのよ」


 俊一郎は裕一を呼び出して説得した、時期も悪かった、スーパーで手軽に手に入る大量生産の菓子に押されて、和菓子の業界は先が見通せない時代に入っていた。もし店を畳んだら職人たちの行く先を見つける事も難しい。


 職人たちは裕一にとっても幼い頃から家族同然に付き合ってきた人たちだった、俊一郎と裕一は何度も話し合い、最後は裕一が折れた。裕一は留年していた大学を卒業すると、それきりきっぱりと夢を捨てて修行の道に入った。

 高校の後輩で自分の映画で女優をやってくれていたひととの結婚を認める事が、裕一が俊一郎に迫ったただ一つの交換条件だった。


「兄さん根が優しいから、みんなを見捨てられなかったのよ。でも母さんはずっと気にしていたのね。たぶん兄さんが断れないって、はじめからわかっていたんだと思う。母親だから」


 叔母は目に涙を溜めながらそう言った。


 その順番はいずれ俊彦にも回ってくる。両親は選択肢が限られた未来をなるだけ悟らせないように、俊彦をできるだけ平凡に、そして慎重に育てた。裕一は父親の俊一郎が自分にしたように、俊彦に跡継ぎになることを辺り前のように強制して反発される事を怖れたのかもしれない。

 店が得意としてきた高級和菓子の需要は年々落ち込んで、今では裕一の代から始めた大衆菓子の売り上げのほうがずっと大きくなっている。おかげで会社の規模は昔より大きくなったが、それでもこの程度の規模の企業と付き合ってくれる銀行は貴重だった。彼らの機嫌を損ねる事だけは出来ない。


 これまで店を継ぐ事に不安を持った事はなかった。まだだいぶ先の事だと思っていたし、もともと継ぐ事に疑問を持っていなかったせいもある。


 だが俊彦は、秋子と出会ってしまった。


 ハチ公前の噴水を通り過ぎて渋谷駅から続く緩い上り坂を歩いていると、前を歩いていた女子高校生のグループが、まるで入り口に大きな掃除機でもあるかのように通り沿いのファッションビルの中に吸い込まれていった。

 坂の途中のハンバーガーショップに寄ると中は満席で、俊彦は仕方無く店先で立ったまま朝と昼を兼ねた食事をとった。


 流行りの恰好で揃えたOL風のグループが、隅からこちらを見て何かひそひそと話している。意地の悪そうな笑い顔だから、どうせ着ているこのシャツがダサいとかそんな話なのだろう。

 世の中には着る物に拘らない人間もいる、でもそれはこの街に集まる彼女たちには思いもつかないほど、おかしな事なのかもしれない。

 彼女たちにおしえてやりたい、そんなもので着飾らなくても息が止まるほど美しい女性が、ここからずっと遠くの空の下にいる。そこはビルのかわりに山があって、車の排気ガスもなく、夜には数え切れないほどの星が降り、地の下から暖かい湯がこんこんと沸いている。


 ビルの前の歩道は駐められた自転車とバイクで半分近くふさがれていて、車道にもベンツやジャガーの高そうな輸入車と国産の大きな四輪駆動車が両脇に隙間無く駐められていた。それが買える金があるなら駐車場に入れればいいのに、どういうわけかどいつもこいつも車を路上に駐めたがる。

 おかげで一番左の車線が細長い駐車場のようになって、この通りはいつ来ても渋滞していた。真夏にうっかり汗をぬぐうと排気ガスで袖が黒くなるから暑い時期になるとハンカチを待たずに歩けない。


 ハンバーガーショップを出ると俊彦は人混みを縫うように速足で坂を登った。半年に一度ぐらい、俊彦はこの坂の上にある大きなカメラ店で写真のフィルムをまとめ買いする。ここはフィルムをちゃんと冷蔵庫に入れていて、二十本パックなら往復の電車代を入れてもまだ安く買える。

 あの日湯小屋を出る時、俊彦は秋子と次に会う約束をしなかった。秋子は最後まで何か言いたそうだったが、次にいつ山里に来れるのか俊彦には分からなかった。電話番号も聞かなかった、たとえかけても秋子の親が電話に出てしまったら二人の関係をうまく説明できる自信が俊彦にはまだなかった。

 秋子も好意を持ってくれている事は分かった、だがそれがどの程度なのかはわからない。俊彦には自分が秋子に勧められるような男だとはどうしても思えなかった、突然芽生えた想いに自分の未来すら見通せなくなった男、そんな程度の男に女の未来を保証する事などできるだろうか。


 夏休みの前半は実家の工場を手伝った、頑張ればこれで一年分のガソリン代が稼げる。夏の手伝いを終えて八月のお盆休みが明けた日。


「会うだけだ、顔を見るだけだ」


 俊彦はヘルメットの中で繰り返しそうつぶやいていた、秋子の事ばかり考えて眠れずに過ごしていた夜、俊彦はバイクに飛び乗った。

 埼玉を抜ける前には日が昇りはじめた、通勤の車が増えて俊彦は焦った。一度も休憩をとらなかったのにアトランティスに着いたのはランチタイムが終わる直前だった。バイクの音に気付いた秋子は店の中で満面の笑みを浮かべた、周囲から見えないように腰のあたりで小さく手を振ってくれた。


「おひさしぶり……です」注文を取りに来た秋子に、俊彦は小声でそう言った。

「明日、行くんですか?」秋子も小声で言った。俊彦が「うん、同じ時間に」と言うと、秋子は黙って頷いた。


 次の日のあの時間、秋子は湯小屋に現れた。


「ずっと待ってました」


 秋子は向いに浸かってそう言った。


「僕も……」


”会いたかった――” 一番言いたかったその一言が、俊彦にはどうしても言えない。それなのに秋子は明るく微笑んでくれた、まるで「言わなくても分かっています」とでも言いたそうな顔で。どうしてそこまで信じてくれるのか不思議だった、俊彦はその日もまたそれが最後のつもりで別れた。


 それから一か月ほどが経ち、俊彦はまたアトランティスを訪れた。

 僕には女の子が喜びそうな面白いジョークも言えない、これまでもただ秋子の話を聞いているだけだった。このまま会い続けてもきっといつか秋子に見限られるだろう。しばらく放っておけば秋子だって僕を見限るかもしれない、僕からは忘れられないけれど、彼女から嫌われたのなら僕だっていつかは諦められるかもしれない――。

 山里に来る途中も、俊彦は頭のどこかで秋子に見限られる事を期待していた。会いたくてたまらなくて、っこうしてバイクを走らせてきたというのに。


 学校の夏休みはもう終わっている、昼間のアトランティスに秋子はいなかった。食事を終えて店を出た、秋子の母親は娘と俊彦の関係を知らない、店に俊彦が来た事を秋子に伝えるとは限らない。


 明日、彼女が湯小屋に現れなかったら、今度こそ忘れるんだ――。


 それは俊彦なりに必死に考えた賭けだった。だが次の日、秋子は湯小屋に現れた。

 小屋の戸を開けた彼女は息を切らせていた、夏はもう過ぎたのにこめかみから汗がしたたっている。下り坂のはずなのに、どれだけ自転車を”ぶっ飛ばして”きたのだろう。

 示し合わせたわけでもないのに彼女は学校から二時間以上もかけて来てくれた、俊彦の脳裏にスカートの襞をなびかせて立ちこぎをする美しい少女の姿が浮かんだ。

 彼女が自転車を飛ばしていた頃、俊彦は湯に浸かりながら小屋の外で自転車が止まる音がするのを祈るような気持ちで待っていた。秋子の顔を見た時、心が通じ合った気がして嬉しくてたまらなかった。


 その日、二人は初めて互いの体に触れた。はじめは湯の中で偶然足の指が触れただけだった、それからはタガが外れたように、どちらからともなく脚の指と指を絡めた。指の股に秋子の指先が触れたとき俊彦の体に電流が走った、体中の末端が痺れて熱くなった。秋子の足指の股を突き返した、彼女の体が弾かれるようにのけ反った、湯の上に桜の花が舞う、初めて見たときは蕾みのようだったそれも、今は美しい花弁と雌しべがはっきり見える。


 それからは二人とも両足の指と指を絡めて互いに引っ張ったりつねったり子供のようにはしゃいだ。

 俊彦の指が外れて秋子の内腿に触れた、短い声をあげた秋子は慌てて自分の口を手で押さえた。俊彦は心臓を握られるような衝撃を感じて、飛びのくように浴槽の縁に座った。

 出発前に散々相手をしてやったものが、そんなことは忘れたかのように存在を主張している。秋子はまるで可愛い子ウサギでも見るような目でそれを見ると、俊彦の目を見直して微笑んだ。俊彦は思った。


 そんな可愛いものじゃないよ、こいつは猛獣だ――。


 獣は秋子を貪ろうと狙っている、それを抑えているのは俊彦の中の人間の部分だ。獣と人間の力は拮抗していて俊彦は獲物の前で一歩も進めない、ただ立ち尽くすケンタウロス。


 一度家に帰ったはずの秋子が制服のままだった、理由わけを訊くと、家には自転車をとりに寄っただけで、親に見つからないようにこっそりと出て来たのだと言う。学生鞄を置いてこないのかと訊くと、平日に制服姿で鞄も持たずにうろついているのを見られたら里の人に怪しまれると言った。

 この時間に来るには、日によっては学校を早退しないといけないと秋子は言った。彼女はそれを親に悟られないように、今からいろいろ方法を考えているようだった。そんな事をしていつかはバレるんじゃないかと俊彦が心配すると、秋子は「しょっちゅうでなければ大丈夫」と自信ありげに答えた。なぜそこまでするのかと俊彦は訊いた、秋子は顔を真っ赤に染めてこう言った。


「だって……会いたいもん」


「何をいまさら」とでも言いたげな目だった。俊彦だって秋子が相当な覚悟を持ってここに来てくれている事はわかっていた。

 それなら今すぐ奪ってしまいたい――頬を赤く染めた秋子の顔を見ていると、ついそんな夢を見てしまう。


 自分が初めての男だったらどんなに良いだろう――そう願う男は大勢いる、東京の女子大生にでも訊いたら「今時そんな男いないでしょ」と鼻で笑われるのかもしれない、だがそれは彼女たちが男たちの本音を知らないからだ。


 今の時代の恋愛は早い者勝ちだ、純で鈍い男がそれに気づいた頃には、めぼしい娘はずるくて貪欲な男たちの手に落ちている。遅れて来た男が付き合えるのは、彼女たちが誰かと別れた時ぐらいで、その頃には自分に処女おとめを捧げてくれる女なんてどこにもいやしない。

 あぶれた男たちのする事は様々だ、傷つくのを恐れて恋愛から遠ざかる者、逆に気軽に相手をしてくれる女を探す者。

 理想を捨てて快楽に目覚めた者たちは、相手が誰と何度寝ていようが気にもしない豪放磊落な男のふりをして、自らの中に巣くう獣を満足させるために必死に女たちの機嫌を取る。そんな男を見慣れた女たちは「男なんて、みんなそんなものだ」と思い込む。


 もちろん初めから経験豊富な女を好む男だっている。だが俊彦のような男たちには、愛する女のただ一度の瞬間を自分だけの記憶にする事が、それ以上は何も望まないほど尊い事に思えてならない。

 そしてそれがその女を愛しぬく決意をより強固な物にしてくれると思うからこそ、たとえある種の女たちに軽蔑されたとしても、彼らはそれを大切にする。


 本当はたまらなく秋子が欲しいのだ、他の誰かに盗られるぐらいなら自分がと思う。だがいま自分がそれを奪ってしまったら、いずれきっと現れる秋子の本当の伴侶がどれほど悲しむかを、俊彦は痛いほど想像できてしまう。

 その悲しみがその男の秋子を想う気持ちにただの一筋でも傷をつけてしまうとしたら……もし自分が本気で秋子を愛していると思うのなら、今は何としても我慢しなければいけない。


 出来る事なら秋子には自分と似た男と一緒になって欲しかった、おしゃれな小説に出てくるような、出会った女と片っ端から寝るような男は彼女にふさわしくない。不器用でもいいから一人の女を一途に愛するような、そんな男と一緒になって欲しい。


 それが宝石の原石を見つけておきながら磨く事を許されない男の、せめてもの望みだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る