蛞蝓うらない

濱口 佳和

(一) 源助長屋

 日比谷稲荷近くの源助長屋に、おそろしく当たる八卦見がいる、と云う。


 出入りの酒屋の話に、私は出かけてみることにした。九月に入った、曇天の午後であった。

 急ぐことではない。酒屋も客から聞いた与太話だと言い、「もしかしたら、若様の胸のつかえもお楽になりますよ」と、ほんの親切心で教えてくれたのだ。


 私は日比谷橋を鉄砲洲へと渡り、南へ下った。教えられた角を二つ曲がると、東西を武家屋敷に挟まれた細い道へとたどり着いた。見るからに、風通しの悪そうな狭い道だ。双方の築地塀から茫々と樹木が伸び、秋とは思えない温い風が吹き溜まっていた。どういうわけか、はたりと人通りも絶え、私はしばし道の先を見つめ、立ち尽くした。


 目指す源助長屋は、この道のなかば、屋敷と屋敷の切れ間、小店に挟まれた木戸の奥にあった。


「へえ、たしかにここが源助長屋でさあ。ま、みなさんなんて申しますがね」

 と、木戸番の親爺は歯抜けた口をぱかりと開き、呵呵呵と笑った。


「こちらに、評判の八卦見がいると聞いて尋ねたのだが、どこだね」

 と、奥を覗くと、これまたぬかるんだ通路に溝板も抜け落ちて、袖口を光らせた小汚い子供らが駆け回っている。布を引き裂くような赤子の泣き声と、あきらかに表稼業とは思えないしどけない女の姿、箍のはずれかけた桶を抱え出てきた枯れ木のような老婆は、半裸というか、ほぼ湯文字一腰である。


 覚悟して来たものの、一番の難題はその臭いだった。青魚の腐ったような臭気と、厠と垢と黴の臭いが充満して、重い風が動くたびに、次から次へと新手の臭いが押し寄せてくる。

 私は思わず懐から手拭いを出し、口もとを覆った。夏の盛りであったら如何ばかりかと、思うだに胃の腑のあたりがむかむかしてくる。


「ああ、そりゃ、助六さんのことだね。ならば、いっとう奥の」

「奥か」

「へえ。奥の左でさあ。閉まっていたら、遠慮なく声を掛けなさるがいい、

「忝い」


 私は、木戸番の好機の目に気づかぬふりをして、覚悟を決めてぬかるみに足を入れた。

 ずぶり、ずぶりと、草履の先が沈んでいく。足指が濡れてきたが、水なのか何なのか、なるべく考えないようにした。

「あれ」

 私を指差す子どもを、あわてて親が制した。それにも気づかぬふりをして、教えられた一番奥、一寸ばかり開いた腰高障子の前に立った。


 八卦見というが、木札もなにもない。障子は黄ばんで破れ、中から讀賣らしき継ぎが当たっている。建て付けの悪そうな戸は、どう見ても歪んでいた。

 開けようと手を掛け、思わず引っ込めた。

 がいたのだ。

 蛞蝓なめくじが、引き手のあたりにこびりついていた。一匹ではない。掘り込まれた引き手の溝を埋めるように、群れ固まって蠢いていたのだ。


 私は戸の上の方へ指を入れ、声を掛けた。

「お尋ね申す。こちらが八卦見の助六殿のお住居か」

 のちに思えば、気配や声で気づいたはずだ。

 しかし、歪んだ戸は軋むばかりで、なかなか開かない。私は指先に力を入れ、踏ん張った。枠を掴んで重みをかけ、ようやく酷い音を立てて戸が動くと、


 男の背があった。

 目の前で、男がこちらに背を向け、女と睦み合っていた。土間に立って覆い被さり、大きく腰を遣っていた。薄暗い板間に這いつくばった女は、その度に大きな喘ぎ声を上げていた。


 私は、目を瞬いた。

 まぐわいに、ではない。

 男の背だ。背中が光っていたのだ。汗が光るのか、肌が光るのか、まるで息をするかのように、ぽう、すう、ぽう、すうと、男の動きに合わせて点いたり消えたりしている。白というより青みがかったそれで、ふと思い出したのは、幼い頃に乳母やから聞いた、雨上がりの刑場を飛ぶ人魂やら、墓場をさまよう新仏の幽霊やら、この世のものではない怪談噺だ。

 私は目が離せずに半歩踏み込み、半身外にあって、文字通り木偶の坊となって立ち尽くした。


「旦那もやりますかい」


 何を言われたのか、わからなかった。

 男が半顔振り返り、私を見ていた。その向こうで女も這いつくばりながら顔だけをこちらへ向け、にっと笑んだ。薄暗い中で、なんとも淫らで──。

「御免」

 頬が上気しているのがわかる。私は男の光る背を見つめたまま一歩下り、二歩下り、そうしてなんとか戸を閉めた。蟲を握り潰した感触に、悲鳴を飲み込んだ。




 女の嬌声は、四半刻ほど続いた。やっと出てくると、やはり長屋に不釣り合いな、貞淑そうな商家の内儀であった。

「ごめんくださいまし」

 女は身堅い仕草で艶やかにほほ笑み、軽く膝を折って会釈をすると、

「ロクさん、またお願いしますね」

 下駄で上手にぬかるみを避け、腰を振りながら帰って行った。

「御免」

 敷居を跨ぐと、男は板間の円座で胡座をかき、煙管をぷかりぷかりとやっていた。


「先程はすまなかった。噂を聞き、占じてもらいたいことがあって尋ねた」

「さいですかい」


 助六は、三十ほどの男だった。長い煙管を咥え弄びながら、こちらの話にまったく興味を示さない。

 八卦見というが、それらしき身形でもない。濃淡のある縞の着物は清潔そうで、月代も髭もきれいに当たっている。櫃を担いで表店をまわって小商いでもしていそうな、そんな感じのよい細身の町人であった。

 だが逆に、は、なんと不釣り合いなことか。


「占じてもらいたいことがある」

「さいですかい」


 助六というふざけた名の八卦見は、町人らしからぬ不遜さで、私を上り口に立たせたまま、生返事を繰り返すばかりである。

 私は諦めて帰ろうとした。だがひとつ、確かめたいことがあった。先程の、薄暗い中で光っていた、


「背中」


 助六の目が、鋭く私を捕らえた。こころ此処にあらずという様子だったのが、真っ直ぐに見据えてくる。

「背中、です。先ほど、助六殿の背中が光って見えました。あれは、どういうわけですか」


 数瞬の間。

 ぽっと煙を吐いた。


「なるほど」


 喉で笑う。すると、ぽ、ぽ、ぽぽと、煙が揺らいだ。身を乗り出す。


「おさむれぇは、怪異を語らぬものとかいうんじゃないですかい」

「怪異ではない。この目で見たのだ」

 助六は、ますます喉の奥で笑う。

「ならば教えても構いませんが、まずは頭巾くらい取ってくださいましな。いくらお武家とはいえ、ものを頼むのに、それはないでしょう。それとも、見せられない訳でもおありなんですかい」


 無礼なものいいだが、確かに言う通りだ。

 私は覚悟を決めて、頭巾を取った。手元で必要以上に小さく畳んで、懐へ入れる。


「おや、まあ」

 男の呟きに、私は耐えた。

「また、綺麗なをお持ちで」

 助六は、意外にも嬉しそうに言った。そうして、板間に敷いたもう一枚の円座を示した。


「用向きを伺いましょう。お受けするもしないも、それ次第。そののち、この背中せなのわけをもお教えしましょうか」


 私は、迷うことなく板間へ上がった。示された円座に着き、そうして語り始めた。






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