家出騒動 北海道からのハガキ?!
与方藤士朗
第1話 家出騒動 前編 「マツマエ」郵便局の消印
1995(平成7)年8月上旬 岡山市南部の学習塾・高学ゼミ2階教室
「はい、高学ゼミです」
岡山市南部の学習塾の固定電話が鳴った。8月上旬の暑い盛りのこの日、高学ゼミでは朝から夏季講習の授業が続いている。12時少し前。もう少しで昼食時間となる。この後は休憩をはさんで15時から授業。そして18時からは、通常通りの授業が待っている。
武藤章夫塾長は、自ら電話をとることを旨としている。
この塾のある地域はもともと干拓地で、一面開けた農村であったのだが、この数十年来住宅がどんどん建設され、港近くには工場もたくさん誘致され、随分開けた街となった。そんな地にあるこの塾は、系列校は他になく、塾長以外の専従講師は1人。あとはアルバイトの非常勤講師が数名勤めている。その専従講師は米河清治氏で、当時26歳。O大近くの津島町に住んでいるのだが、この数年来修業ということで叔父の佳治氏の知人でもある武藤氏の塾で専従講師として働いていた。この日彼は、朝から中学生、特に部活を終えた3年生たちの個別指導の授業を受持っていた。畳の4畳半の部屋が3つあるこの建物の2階で、彼はあちこち走り回っている。一応、担当する生徒は4人を目途としていて、それは1部屋の半分に相当する区画なのであるが、あまりに忙しいため、今日は7人の生徒を担当している。もっとも半分ずつ、演習と解説を分けているため、生徒一人ひとりをあちこち回らなければいけないというほどでもない。ただし、立ちっぱなしの歩きっぱなし。
個別指導の塾には講師に椅子を用意しているところもあるが、ここにはそれはない。なぜなら、いすを置くほどのスペースがないことと、何より、解説に回るのが結構忙しいということが大きな理由の一つ。もっとも朝から夜までこんな調子で働くのは、夏休みと冬休み、それに定期テストや受験前の土日ぐらいであって、年中のべつここまで忙しいわけではない。
「米河さん、よつ葉園の山崎さんって人から電話じゃ」
「は、はあ・・・」
いつもならシャキシャキと応える米河氏であるが、なぜまたこんな日のこんな時間に養護施設関係者から電話がかかってくるのか。とりあえず、出ることにした。
「はい、米河です」
「米河君、山崎です。ちょっと相談があるのよ。今日、時間あるか?」
「こんな兵役並の時期ですけど、(午後)3時までなら、休みですが」
彼が「兵役並」というのも無理はない。朝の10時から12時、休憩後15時から17時、そして18時から2時間ずつ2コマの個別指導授業をこの時期高学ゼミは実施していたから。盆休みもあるとはいえ、それが、連日続くのだから。
「いやあ、本当に申し訳ない。すまんが、2時過ぎにそっちに行ってもええかな?」
「いいですけど、何がありました?」
「実は、うちの高校生の男子で、家出でもしたみたいな事態が発生してなぁ。大槻園長と尾沢先生と協議して、これはしばらく警察には届けず、うちでとにかく状況を見ようということになった。でまあ、君の力をお借りしたほうがよさそうだという話になってね」
これはしかし、オオゴトかもしれないな。米河氏はそう直感した。
「わかりました。14時にはおりますから。裏口から回って、声かけてください」
手短に用件を聞きだした彼は、電話を切って子機を指定の場所に返した。
武藤塾長とともに昼食を終えて少し休み、14時ほぼちょうどになった頃。よつ葉園の公用車に乗った山崎氏は、高学ゼミの普段なら自転車置場になるところにやってきた。
「こんにちは、米河さんはおられますか?」
「はい、只今参ります」
上の教室で冷房をかけて横になっていた米河講師は、下の勝手口に降りていった。この塾は1階を店舗、2階を住居として造られた賃貸の一軒家で、1階の本来店舗にあたる部分は少人数クラスの授業や高校生の自習のためのスペース及び武藤塾長の事務室としている。そんな事情があって、この塾では表口から入るのではなく、生徒も講師も、基本的には勝手口から出入するようになっている。午後の授業は午前ほど生徒が多くない。部活動を引退した中3生が中心。
とはいえそれなりに生徒の出入りがあるので、武藤塾長は隣のお好み焼き店のおばさんに頼んで、そちらの前に駐車してもらうことにした。武藤氏はともかく、米河氏はこのお好み焼き店で時々昼食にすることがある。モダン焼でうどんの2玉で、650円(当時)。すさまじいボリュームがあるのだが、彼はそれくらい平気で食べていたという。幸い、お好み焼き店は昼の時間を過ぎ、もう客は一人かそこら、それも地元の歩いてきた人だけ。おばさんは、快くどうぞと言ってくれた。
山崎指導員は、お好み焼き店の前に改めて公用車を移動し、そこに駐車した。
「はじめまして。高学ゼミの武藤です。じゃあ、山崎さん、こちらの教室にどうぞ」
「はじめまして。よつ葉園の山崎です。武藤先生、お忙しいところお邪魔します」
武藤塾長に案内され、よつ葉園の山崎良三指導員は1階の教室に入った。この塾では土足にしていないので、裏の下駄箱でスリッパに履き替えてもらうことになっている。そのときすでに、米河講師は1階の教室に入っていた。彼らが会うのは、その年の春に行われたよつ葉園での「花見」以来で、約4か月ぶりとのこと。前回は酒も飲んで楽しめるものだったが、今回はそうはいかない。第一、お互い仕事中である。
「お久しぶりです、山崎さん、しかしまた、何ですか?」
「ちょっと心配なことが起こってなぁ。あんたに一つ、相談したいことがあるのよ」
そこまで言うと、彼はビニール袋に入った葉書を取出して見せた。特に変哲のあるような文書には見えない。だが、差出人欄には個人名が書かれているだけ。そこが、いささか違和感を醸し出してはいるが、他はさして、変なこともなさそうだ。裏を見ると、簡単なメッセージのみ書かれている。これもそれほど、おかしな感じはない。
目的地に到着しました。1週間ほど、楽しんできます。
裏面に書かれているのはそれだけ。暑中見舞用葉書で、夏らしい絵が描かれている。別に何か変な感じでもないと言えば、ない。ただ、よつ葉園という養護施設に送られてくる葉書ということを考えたら、いささか、奇妙な感じもしないではない。
「なんか大げさな保管されているようですけど、これ、普通の葉書ですよね。特に脅迫とか、犯罪絡みのメッセージでもなさそうですけど、どこに問題が?」
ここまで来て、山崎指導員は米河講師に事情を話そうとし始めた。
「米河君、すまん。とにかく、消印を見てくれるか?」
促されるままに、彼は、消印を見た。昨日昼の消印で、「松前」と書かれている。
ここは岡山だろ。こんな郵便局からうちに郵便物来たことないで。しかも、これ出してきたのは、うちの高2の男子児童の大村純一って子でなア、今定時制のU高校に通っとって、普段はアルバイトをしているのだが、一昨日から1週間、大村の父方の叔父が1週間ほどいったん自宅に帰らせるってことでな、朝の10時だったかにうちまでクルマで来られて、それで、純一は荷物をそれなりに持ってクルマで叔父さんのところへ行ったわけじゃ。ただなぁ、叔父さんは岡山の人じゃなくて、津山の人なんよ。じゃからわしゃあ、津山の家に帰ったものかと思っておったら、今朝の郵便でこんな葉書が来てな。びっくりした。それでな、ここはひとつ、小学生以来O大鉄研一筋の米河君にちょっと、協力というか、知恵を貸して欲しいわけ。この郵便局はどこなんか、わかるか? それがわかれば安心できるし、もし何か事件に巻き込まれるようなことが起こったとしても、これを警察に持って行けば、少しは捜査の進展もあろうかと思って、な。
そこまでの話を聞いた米河講師は、山崎指導員に尋ねた。
「わかりました。大体のことは。でぇ、ですね、山崎さん、この大村君という少年ですけど、どんな感じの子ですか? というより、彼の両親とか親族はどこの人なのか?」
その質問について山崎指導員はあらかじめ予見していて、資料を作ってきている。
「まず、両親が離婚していて、母親は今備前市におられる。父親はどこに行っているのかわからん。ただ、父方の叔父にあたる人がおられて、その人が津山で仕事しておって、たまに純一を連れて帰っとる。彼の苗字はそういうわけで、父方の苗字のままなのよ。それはええけど、これが津山やそこらなら別に問題ないが、何といってもあんた、「マツマエ」やでぇ。そんな地名、岡山近辺で聞いたことないしなぁ・・・」
「マツマエ、ですか。確か、北海道の南の方に、そういう地名はありますよ。松前線なんているのがありましたけど、1988年の春に廃止になっていますね。その終点は確かに「マツマエ」という駅でね、そりゃあ、そこらに行けば「松前郵便局」っていう名前の郵便局もあろうとは思われますけど、北海道ですからねぇ、いかんせん・・・」
彼はそのときまでに何度か北海道に行ったことはあった。だが、松前町まで行ったことはないし、松前線が廃止になったのはちょうど大学に合格した1988年。当然、松前線に乗ったためしなどない。ただ、時刻表を幼少期、それこそよつ葉園にいた頃から熟読していたから、そのような地名や路線、そしてそこには函館からの急行「松前」というのが走っていたことなどは、知識として小学生のころから知っていた。彼は小5の秋からO大学の鉄道研究会に「スカウト」されて通い出したほどの人物。松前線に乗ったことのある先輩も何人といたが、さすがに、松前線の話を先輩たちとしたことはない。
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