カレーの日

ハクセキレイ

第1話


我が家では毎週日曜はカレーの日だ。

最初にたまねぎを刻む。大きいものをひと玉、丸々使う。まず、皮を剥いたたまねぎを縦に半分に切る。次に平らな面を下にして、根っこの部分を少し残して切れ目を入れる。今度は平らな面に平行に二度、切れ目を入れる。それから根っこに向けて、刻んでいく。もう半分も同様に。

フライパンにサラダ油を小さじ一。刻んだ玉ねぎを入れ、弱火で炒める。焦げつかないよう気をつけて、じっくり、じっくり、炒めていく。

初めてカレーを作ったのは、息子が3歳の時だった。

その日、息子は朝起き抜けにカレーを食べたいと言い出した。寝癖で髪が爆発して、丸い頬によだれの跡がついていた。テーブルの上にはすでに朝食の用意がしてあった。

「じゃあ、晩ご飯はカレーにするわね」

妻は言った。

「今食べたいの!」

押し問答が始まった。私はコーヒーを飲みながらしばらくそれを眺めていた。妻の声が大きくなり、息子は顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。テーブルの上の目玉焼きと、トーストが冷めていく。

「じゃあ、父さんが夕飯に特別なカレーをつくろう!」

妻は呆気に取られた顔をした。息子は不審そうにこちらを見た。

「今じゃなきゃ嫌なの!」

「いいのか?特別なカレーだぞ?」

息子の顔を覗き込む。その目がわずかに光った。

「特別なカレーには特別な準備が必要なんだ。今から始めて……そうだな、夕飯にはなんとか間に合うだろう」

「特別って?」

「それは内緒だよ。特別だからね。さ、朝ごはんを食べてしまいなさい。父さんはカレーの準備を始めるから!」

息子は少し考えるよう眉間にシワを寄せる。その顔は妻にそっくりだ。それから小さくうなづくと、冷めた朝食を食べ始めた。

夕方、私が台所に入ると妻は意外そうな顔をした。

「本気で作る気なの?」

結婚してからそれまで、まともに料理をしたことはなかった。だが、嬉しそうな息子に嘘をつくのは気が引けた。たかがカレーだ。なんとでもなるだろう。

「もちろん、いいから今日は任せてくれよ」

フライパンの上で飴色になった玉ねぎを混ぜる。普通はこのあたりで炒めるのをやめてしまう。だが私はここからさらに焦げる直前まで炒める。これが美味しさの秘訣だ。

初めて作った「特別美味しいカレー」は確かに特別だった。

きちんと作ろうとはしたのだ。玉ねぎを刻み、ニンジン、ジャガイモ、鶏肉を炒めた。市販のルーを使った。水もきちんと測って、間違いなくレシピ通りに作った。だが、出来上がったのは水のようにしゃばしゃばのカレーだった。

妻は笑った。「初めてにしてもひどいわね」

息子は大喜びだった。

「凄いよ、お水みたいなカレーだ!」

「おいしい?」

妻が意地悪く笑う。

「おいしいよ!」

息子が笑う。私も笑った。

「次はもっと美味しいのを作るよ」

炒めた玉ねぎをボウルに取り出して、フライパンの汚れを拭う。バターひと片、にんにく、生姜を加える。再び弱火にかけると、キッチンに香ばしい香りが充満する。

そういえば二度目にカレーを作った時も失敗だった。カレーそのものはきちんとできていた。具材にもしっかりが火が入り、ルーはシャバシャバではなく、とろみもあった。思い描いた通りのカレーだ。自信満々に食卓に出した。

息子の反応は今ひとつだった。

「どうかした?美味しくない?」

妻が息子の顔を覗きこむ。

「……特別なカレーは?」

その夜、息子が眠ってから、妻と二人で笑いあった。そう、確かにあれは「普通のカレー」だった。

「ちゃんと美味しかったけどね」

「来週は特別なカレーを作るよ」

「無理しないでいいよ」

「わかってるよ」

それからは仕事の合間に様々なレシピを調べるのが習慣になった。カレーのレシピは奥が深かった。市販のルーを使うもの、カレー粉で作るもの、スパイスを配合するもの、小麦粉を使うもの、フルーツや野菜を煮詰めたチャツネ、玉ねぎとトマトを煮詰めたグレィビー。具材の組み合わせは無限大で、なんでもありだ。その中から、我が家の特別を見つけなければならない。妻と息子が喜ぶ、美味しいカレーを。

冷蔵庫からビニール袋を取り出す。昨夜、仕込んでおいた鶏肉だ。ひと口大に切った鶏モモ肉にフォークで軽く穴を開け、袋に入れる。そこにプレーンヨーグルトとトマトケチャップ、にんにく、生姜、蜂蜜、レモン汁、オリーブオイル、塩、カレー粉を加え、しっかりと揉み込む。そして冷蔵庫で一晩放っておく。

鶏肉を取り出す。調味料を軽く拭って、バターの溶けたフライパンに並べる。焦げつかせないよう、目は離さない。

鶏肉に焼き目がついたら、玉ねぎを戻し入れる。トマトの缶詰を開け、一缶まるまるフライパンに加える。カレー粉と鶏肉に使った合わせ調味料を入れ、蓋をして弱火で20分ほど煮込む。

カレーの匂いが家中に充満していく。

「今日はなんのカレー?」

背後から妻の声がする。

なかなか家族で過ごす時間を取れないのは、仕事が忙しいせいだ。平日は大体息子が眠ってしまってから帰宅する。そして、残り物の夕食を食べ、風呂に入り、すぐにベッドで眠りにつく。風呂に入っている間に妻は眠ってしまっている。朝は妻より先に起きて、コーヒーを入れ、パンを焼く。自分の分の目玉焼きを作り、焼いたパンの上に載せて食べる。そして、そのまま出勤する。土曜日は平日の疲れでまともに身動きが取れない。ゆっくりと時間が取れるのは日曜日くらいだ。だから日曜日がカレーの日になる。1日がかりで、妻と息子が喜ぶカレーを作る。

鍋をしっかりと見つめ続ける。くつくつとカレーが沸騰する。木べらで静かにかき混ぜる。いい感じだ。火を消して木べらについたルーを舐める。うん、悪くない。

「あ、ずるい!僕も食べる!」

足元から息子の声がする。息子はもう6歳になっている。だが、その声は3歳くらいに聞こえる。

カレーができたので次は付け合わせを作る。冷蔵庫の野菜室を開けるとピーマンとナス、じゃがいもがあった。

「ちょっと、ナスは入れないでよ」

妻が言う。

「子どもじゃないんだから好き嫌い言うなよ」

ナスは半分くらいの長さに切って、それを縦長に十字に切り4等分する。ピーマンは種とヘタを取り、これも4等分に。じゃがいもは皮付きのまま水で洗い、くし切りに。小ぶりのフライパンを火にかけ、底が隠れるくらいの油を注ぐ。中火にして具材を入れる。油の跳ねる音が上がる。

背後で逃げ出す足音がする。一度ひどい火傷をしてから息子はこの音が苦手なのだ。

焼き色が付いたら出来上がりだ。

二人が出て行ったのはいつだったか。よく覚えていない。いつかの平日だ。その日もいつものように深夜に帰宅した。食卓の上には一人分の食事が並んでいた。妻が用意してくれたらしい。肉じゃがと味噌汁だった。それと離婚届が置かれていた。

夕飯を食べ、シャワーを浴びて、寝室に向かう。そこには誰もいなかった。妻はもちろん、息子も。私はベッドに横になり、目を閉じた。

その週の日曜日にはサグカレーを作った。ほうれん草のペーストを使った緑のカレーだ。

「うわ、変なカレー」

面白がる息子の声が聞こえた。息子と一緒になって笑う妻の声も。

カレーを食べ終わったところで、離婚届に署名と押印をした。届の端にほんの少しカレーをつけてしまった。

携帯で妻にメールを送った。

――離婚届、準備できた。

返事はすぐにきた。

――日中に荷物を取りに行くから、机の上に置いておいて。

炊飯器からご飯が炊けた合図の音がなる。

ルーを再び火にかける。沸騰する直前で火を止める。器にご飯を盛って、その上にルーをかける。揚げ焼きした野菜を載せて、最後に生クリームをほんの少し注ぐ。

バターチキンカレーの完成だ。

テーブルに器を並べ、席につく。

「おいしそうね」

「だろ?自信あるよ」

「ねぇ、この白いの何?」

「生クリーム。これで辛くなり過ぎないようにしてるんだ」

「ぼく、辛くても平気だよ!」

「この間、お父さんの作ったカレーが辛くて食べられないって泣いてたのは誰かしら?」

「平気だってば!」

「よせよ、カレーが冷める。早く食べよう」

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