ひとつの別れ

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 ──ひとつの別れ



「おっと。忘れてはいけないカルテルがあったな。グライフ・カルテルだ」


 アロイスは全て知っているが知らない振りをした。


「グライフ・カルテルは何度かのトラブルを抱えていたが、今はすっかり解消されている。グライフ・カルテルを仕切るカール・カルテンブルンナーとは今では友人の関係だ。もっとも危険な男であることには変わりないが」


 ああ。その通りだとも。カールの張り巡らした策略のおかで、ヴォルフ・カルテルは敵に囲まれたたのだ。陰謀屋カール。薄汚いカール。裏切者のカール。


 1度目の人生ではしくじったが、2度目の人生では早期に始末する。アロイスはそう決断していた。カールがハインリヒの友人であろうとなかろうと絶対に。


「母さんは長くは持たない」


 ハインリヒが言う。


「夫としてできる限りのことはした。だが、ダメだった」


 本当に母が死んで父は悲しんでいるのだろうかとアロイスは疑問に感じていた。


「葬式の際に、各カルテルからボスたちがやってくる。そこでお前を紹介する。ヴォルフ・カルテル内の幹部たちにも後継者の存在を明白する。それが大事だ」


 母の死より? この男の血はきっと緑色をしているに違いないとアロイスは思う。


「立派に、堂々としていろ。挨拶が済めばそれで終わりだ」


 アロイスはただ父の書斎を去った。


 1度目の人生ではアロイスの母は完全に意識不明で、呼びかけにも応じなかった。


 だが、2度目なら?


 淡い期待がアロイスの胸の中に湧く。


 母と話せたらどれほどいいだろうかと。母はハインリヒの本当の仕事を知っていたのだろうか? 知っていて、アロイスにドラッグに汚れた金でバースデーケーキを焼いてくれたのだろうか?


 聞いておきたかった。


「イーヴォ。母さんと話せるか?」


「分かりません。奥方様は時々意識を取り戻されます」


「では、行ってみよう」


 アロイスは母の部屋に向かう。


 母は昔からアロイスに優しかった。父とは違っていた。


 世間的に見ればアロイスに金を出していた父も優しいということにはなるのだろう。だが、父は親子の絆は金で買えると思っている節があった。今思えば不思議でもない。アロイスに金を出していたのは、次の代を引き継ぐ後継者を立派なものにするためであり、汚職警官と同じようにアロイスも金で忠誠を買われたのだ。


 母は違った。母は滅多なことではアロイスに何かを買ってやることはなかった。ただ、手作りの洋服などは幼少期によくもらった。コミックに出てくるキャラクターの服がいいと言えば、母は器用に糸を操ってアロイスの望むものを作ってくれた。


 裕福なアロイスには自慢するようなものがたくさんあったが、一番自慢できるのは母の作ってくれた洋服だった。それが一番クラスで自慢できるものだった。


 だが、母は体が弱かった。アロイスが“国民連合”の大学に通い始めてから半年ほどして本格的に体調を崩し、それ以降は寝たきりだった。アロイスは家族──実際には母に向けて“国民連合”でできた友達や、名所の写真を送って励ましていた。


 その努力も虚しく、母は明日死ぬ。


 その前に一言でいいので話しておきたい。


 1度目の人生ではかなわなかったことだ。2度目の人生でもアロイスはドラッグビジネスに関わろうとしている。だが、これぐらいの運命の差異はあったっていいだろう? アロイスはそう考え、母の部屋の扉を開ける。


「ああ。これはアロイスの若旦那様」


「母さんの具合は?」


「重い肺炎です。それも菌が血管の中に入った可能性があります。あまり長くは持たないでしょう。残念です」


「意識はあるのか?」


「時折、目を覚まされます。ですが、安静にしておいた方がいいでしょう」


 どうせ明日には死ぬんだぞ? 安静にしてどうなるっていうんだ。


「母さん、母さん。起きているかい?」


 アロイスはベッドサイドの椅子に座りそう呼びかける。


「ああ。アロイス、わざわざ帰ってきてくれたの……?」


「当然だよ。俺は母さんの子供なんだ」


「アロイスは本当に優しい子ね……」


 母がアロイスの頬に手を伸ばす。


 母の手は冷たかった。死にかけているのだ。


「母さんは父さんの本当の仕事について知っていたのかい?」


 アロイスが尋ねるとアロイスの母が眉を歪めた。


「あの人に聞いたの?」


「ああ。俺をビジネスパートナーに迎え入れたいって」


「そう……。私たちは親の罪を子に負わせようとしているのね……」


 アロイスの母はそう言って、視線を天井に向ける。


「ええ。知っていたわ。何もかも。彼が何をしているか、彼の持ってくるお金がどこから生じたものなのか。全て知っていたわ。あの人が話したのよ。我々は家族であり、これは家族の事業だと」


「父さんは母さんまで巻き込んでいたというのかい?」


「選択肢はなかったのよ。ドラッグカルテルのボスにとって家族は弱点。彼らは野蛮で、女子供だろうと容赦しない。だから、彼は私に護衛を常につけていた。アロイス、彼はあなたのことも守ろうとしていたのよ。“国民連合”の大学に行かせたのはそういうことなの。他のカルテルが手出しできないところにおけば……」


 そこでアロイスの母がせき込む。


「ごめん。分かったよ。俺は恐らく父さんと同じ道を進むと思う」


「この村で薬剤師をやる夢は諦めるの?」


「そうするしかないね」


 そうアロイスが言うと母は悲しそうな顔をした。


「アロイス。ごめんなさい。なにもしてあげられなくて……」


「そんなことはないよ。母さんが俺が立派になるまで育ててくれた。母さん、本当にありがとう。本当に……」


 どうして母が死ぬんだ? 母が何の罪を犯した? 罪を犯したのは父じゃないか!


 アロイスは神を信じていない。神などジャンキーの戯言だと思っている。本当に神がいるとすれば、どうして先に父を殺さない。どうしてこんなにも早く母を連れて行ってしまうというのだ。畜生め。


「泣いてはダメ。最期に見る息子の顔が泣いた顔だと悲しいから。笑って見送ってちょうだい。あなたの泣いている顔は本当に悲しくなるの……」


「ごめん、母さん」


 アロイスは涙を拭い、笑おうと努力した。だが、笑うことはできなかった。


「母さん、母さん?」


「意識を失われたようです。今日のところはこれで。患者の負担になります」


「俺は家族だぞ」


「分かっています。私も尽力しますので」


 アロイスは医者を殴りたくなる衝動に駆られたが、結局イーヴォに促されて、母の寝室から出ていった。


 1度目の、10年目を迎えていたアロイスならば医者の両膝を撃っていただろう。だが、今のアロイスはドラッグビジネスにまだ関わっていないし、魔導式拳銃など常に携行するような人間ではない。銃など触れたこともない。


 アロイスは運命が変わって、母が助かることを祈った。


 母が死んだと聞かされたのは翌朝のことだった。。


 運命の歯車は残酷なほどに正確に進みつつあった。


……………………

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